第3話 地下の楽園
僕が店に飛び込んだ瞬間、店にいた全員の視線が僕に集まった。怪しげな暗い照明の下に、カウンターの向こうに綺麗な女性店員、そして客として何人もの男が集まっている。咄嗟に飛び込んだものの、バーなんて人生で初めて来る場所だ。ここはここで怖い。僕は入口の近くでまごついていると、戸がバッと開いて男が入って来た。
「こんなところに逃げ込むなんて、だめじゃないか。さ、こっちへおいで」
男が僕の腕をつかんだ。
「嫌だ。行きたくない。離せ!」
僕はジタバタ暴れたが、僕の倍はありそうな相手の大男にはまったく歯が立たなかった。すると、そこへカウンターにいた女性店員が歩いて来た。
「あんた、いい加減にしないと警察呼ぶわよ」
そう彼女はその男に言い放った。その声に僕は驚いた。完全に低い男の声だったのだ。この人、オネエだったの? 僕はポカンとして、そのオネエの店員を見つめたまま立ち尽くしていた。男は舌打ちをすると、逃げるように店を出て行った。どうやら、このオネエ店員は僕を助けてくれたらしい。
「助けてくれてありがとうございました」
僕はオネエ店員に深く頭を下げた。だが、オネエ店員は怖い顔をして僕を叱りつけた。
「子どもが夜一人でこんなところをほっつき歩いてるんじゃないわよ。親御さんに今すぐ連絡しなさい。あんたがこの場所に来るのはまだ十年早いわよ」
「え、あの、親っていっても、僕、親とは一緒に住んでないんですが・・・」
「じゃあ、寮に入ってるの? どこの中学校? 今電話を入れてあげるから、すぐに戻りなさい」
この人、僕のことを中学生だと思っているらしい。
「ちょっと待ってください! 僕、中学生じゃないですよ。もう、大学生なんですが」
僕はそう叫んだ。このままじゃ僕は中学生に間違われたまま騒動が発展しそうだったので、慌てて学生証を取り出してその店員に見せた。
「あら、本当だわ。あんた、本当に大学生だったのね」
その人は僕をまじまじを見つめながら、僕の学生証を返した。
「で、そんな大学生のあんたが、さっきの男と何があったっていうの?」
「僕もよくわからないんです。ここがどんな場所なのか。さっきの男の人がなんで僕を襲って来たのか」
「何を言ってるのよ。ここは新宿二丁目よ。そんなことも知らずにこの街で何をしていたの?」
新宿二丁目。その街の名前に僕は覚えがあった。以前、どこかで新宿二丁目というゲイが集まる街があるという話を聞いたことがあったのだ。その街がここだというのか。行ってみたいという興味はあったのだが、こんな形で二丁目に来ることになろうとは想像すらしていなかった。
「知りませんでした。僕、まだ東京に出て来たばかりで、新宿で道に迷ってしまって。携帯の充電もなくなって、帰る方法もわからずに歩いていたら、ここに来ていたんです」
「だったら帰り道教えてあげるから、すぐ帰りなさい。あんた、大学生っていってもまだ十八でしょ? この店はね、お酒を出す場所なの。あんたが来るのはまだ早い。それに、ここはゲイバーで、本来であればゲイ以外の男は入店お断りだからね」
帰り道を教えてくれるっていうのは嬉しかったけど、僕はちょっとこのゲイバーという未知の場所に興味を抱き始めていた。
「僕、ゲイなんです」
僕は一言そう答えた。すると、
「ゲイのあんたが二丁目と知らずに二丁目に迷い込むなんて、そんな作り話みたいなことってある?」
オネエ店員はそう叫んだ。そりゃ驚くだろうな。僕自身がこの状況を信じられないのだから。
「僕もびっくりで・・・。でも、ちょっとだけここで休ませてもらってもいいですか? 道に迷って歩きすぎて、もう休まないと歩けないんです」
オネエ店員は「はぁ」とため息をついた。
「わかったわ。とりあえず、ちょっとそこ座りなさい。何か飲む? ソフトドリンクしか出せないけど」
ママは僕に空いているカウンター席を指さした。
「ありがとうございます。じゃあ、冷たいお茶ください」
バーに来てお酒を頼まないのもどうかと思うが、十八歳の僕相手にはソフトドリンクで勘弁してもらうしかない。でも、すっかり喉がからからに乾いていた僕には、冷たいお茶が身体に染み渡った。僕はやっと一息つくことができた。
それから、そのオネエ店員にこのゲイバーについて、そして、新宿二丁目という場所についていろいろ教えてもらった。このゲイバーの名前は「アリス」。僕が迷子になって迷い込んだ場所が「アリス」だなんて、『不思議の国のアリス』みたいだなと思って笑ってしまう。そして、このオネエ店員はこの店のオーナーにして「ママ」。この場所にゲイバー「アリス」を構えて十年になるらしい。
そして、この新宿二丁目はそれはもう、知る人ぞ知るゲイの街だ。とはいえ、ゲイオンリーの街、という訳でもなく、レズビアンバーやら他のセクシュアリティの人に向けた店やクラブもいろいろあるんだとか。で、僕がさっき怪しい男に襲われかけた場所は、この界隈では割と有名は「
そんな野外の「発展場」とやらに集まるのはほとんど年配のゲイたちらしく、若い子はほとんど来ることがないみたい。そんな場所に十八歳で高校卒業し立ての、ともすれば中学生に見えるような僕が迷い込み、無防備にベンチに腰かけていたのだから、その発展場に集まった男たちに目をつけられるのは当たり前なんだってさ・・・。我ながら何やってるんだか。
そんなことをママと話していると、バーの入り口のドアが開き、賑やかな二人組がドヤドヤと店に入って来た。
「チースッ! ママ、元気?」
そのうちの一人が馴れ馴れしくママに叫ぶ。
「またあんたたち来たの? まだ子どものあんたたちに出すお酒はないわよ」
ママが二人に叫び返す。
「いいっていいって。ジュースでいいから。な、
「まぁ、
急に店内が賑やかになる。ちょっとこういう陽キャタイプの人って苦手なんだよなぁ。僕はそろそろ退散しようとしたが、そういや帰り道がわからないんだった。ママに聞かなきゃ。でも、ママはその竜二と大地という名前の二人の接客に行ってしまい、聞くことが出来ない。
僕がまごまごしている内に、その二人はよりにもよって僕の隣の席に腰掛けると、「俺、オレンジジュース!」「じゃあ、俺はウーロン茶で」と注文を始めた。見ると、僕と同い年くらいの高校生から大学生くらいの子たちだ。一人は翔くらい大きくて、もう一人は僕くらいの身長か。髪を染めてるし、大学デビューを果たしたばかりって感じかな。ちょっとチャラそう。
「あのぅ、すみません。そろそろ僕、帰りたいんですけど・・・」
僕がおずおずとママに声をかけると、隣の二人が僕の方を振り返った。ゲッ! こっち見られたし。
「へぇ、俺らとタメくらいの子も来るんだ、ここ」
竜二という大きい方の子がワーワー騒ぎ出した。この子、特に陽キャっぽいなぁ。これ以上絡まれないようにしなきゃ。僕はそわそわし始めたが、ママはゆったりしたものだ。
「そりゃ、来るわよ。年寄りばかりの魔窟じゃないのよ、ここは」
などとツッコミを入れている。
「で、あんたはもう帰るのね。ええと、帰り道がわからないのよね・・・」
「帰り道がわからないってどういうことだよ」
ママの言葉に竜二が笑い出した。
「それがね、道に迷ってこの場所に迷い込んで来ちゃったらしいのよ」
ママがそう答えると、
「へぇ。そんなことってあるんだ。でも、ノンケにはこの場所はキツイかもね」
と二人のうち、小さい方の大地が言った。
「いや、ゲイらしいわよ。ねぇ?」
ママがこっちを見る。いや、こっち見なくていいから・・・。
「あ、はい、まぁ・・・そうですけど・・・」
「えー⁉」
竜二と大地が頓狂な声で叫んだ。もう帰ってもいいかなぁ。助けて、翔!
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