大気名分

タコ君

本編

 人間、誰しも守らねばならない道義というものがある。正しい道筋というか、道徳的行動というか、つまりはまぁ模範的な行動というか、正しい理論というか、大義名分というか。そういうのは、どういう状況下においても絶対的で、雰囲気に流されるようなものであってはならないと思う。少なくとも、辞書が言うにはそうなのだろう。

 ところで、身の上話をさせてほしい。

 私はそこら中にありふれた女学生なのだが、その女学生の私が、ありふれた恋情を抱いてしまった話をさせてほしい。要するに、赤裸々な私の恋バナのようなものを、私はここに吐き出したいという事である。

 人間、誰しも守らねばならない道義というものがある。正しい道筋というか、道徳的行動というか、つまりはまぁ模範的な行動というか、正しい理論というか、大義名分というか。そういうのは、どういう状況下においても絶対的で、雰囲気に流されるようなものであってはならないと思う。少なくとも、辞書が言うにはそうなのだろうが、「あの時」ばかりはそうは思えなかった。


 空気中の劇毒に気を付けてこの白い不織布の仮面をするようになってから、どれ程の時間が過ぎただろう。世間は二年くらいが経過したと言うが、元々マスクをするのがいやきらいで仕方がなかった私がもはや体の一部だと思えてしまうくらいの時間が過ぎてしまったように思えた。私の目立たない縁太めの眼鏡と同じくらいずっと長い付き合いをマスクとしている気がする。尤も、気がするだけ、なのだが。

 汚い言葉で言えばクソの一言で済むこの大気を致し方なく歩む日々の色は褪せたようで微妙に輝いていて、死んだような眼をしているなぁと思った教員達も、私の目の前に立つ時だけは妙に生き生きしていた。そんな、気がするだけの日々を私は嘆いていたかというと、そうでもなかった。というか寧ろ、生きていた。この地獄で、件の「あの時」を経験して、生きていた。

 「生きる」とは「踊る」事だと、私が好きなアーティストはよく歌う。生命活動のみを淡々と過ごすことなどは、生きることの範疇に入りはしない。生き生きとして、明滅として、上に波、下に波。その気持ちのウェーブの繰り返し。それが踊ることであって、人間の大義名分だと歌う。

 もっともだと私は思う。死んだ顔をしていては何にもならない。

 件の「あの時」を度外視しても、別に私はこの二年間の地獄で死んでいた訳ではなかった。元来の私の性格上、別に毒の中にわざわざ出ていく気にもならなかった、家の中で活字を貪り、テレビゲームを友人とやって、適当に学業を満たして、そして惰眠で一日を終える。それの何と輝かしいことか。外の大気を吸うことが悪と言われてなお五月蠅いパーティーに出歩く馬鹿の姿でまだ飲めぬ酒が大変甘美に感じた。そして、その酒を共に飲む友が幸いにも私にはいた。「それ」が件の「あの時」に通じる話なのであり、私の身の上話の正体なのである。



「何故にそこで回復をしなかったんだ阿呆あほう。」

「そういう君も何故なにゆえあそこで攻撃を続けたんだ阿呆あほう。」

 私もそうなのだが、阿呆をアホウと読むのが私の友人だ。こちらは私とは違うが、何故をナニユエと読むのが私の友人だ。液晶画面で動かなくなった自分の分身が、大きなモンスターに潰される寸前の場面を見ながら、お互いにドンマイへの振り仮名をぶつけ合う。暴言がもはや暴言としての意味を持っていない。ああだこうだと言った後、仕方がないとお互いに適当な言い訳をして、懲りずに次のゲームをまた始める。

 私の友人は、実に奇怪な奴だと思う。性癖が変だとか見た目が変だとか、そういうことではなくて、もっと何か本質的に違う。他の人間と、明らかに何かが違う。感性が変なのか、あるいは発想が変なのか。そもそもそういう枠組みの中にいないのか。友人とは言ったが、ぶっちゃけて言うとあの阿呆のことは何も知らないに等しい。

 そもそも、私の友人の事柄について私が知っているのは、名前と住所と顔と年齢などの基本的な情報だけであり、私があの阿呆の事について理解をしているかと問われればそれは否である。現に、奇怪な奴と私は評したが、奇怪である理由、奇怪の構成要素をここに書き連ねてやることは出来ない。友人というものはそういうものだ、と定義しても構わないかなとも思うが、それはどうかと思う。何かそれは、人間が持つべき大義名分というか、人道的な何かに反している気がしてならない。やはり、液晶画面越しの友情などそんなものなのだろうか。別に天文学レベルの距離が離れているわけでもないのに、銀河の向こうの人間に見えてしまう。雰囲気を、あの阿呆の持つ大気を読むには、液晶という銀河が邪魔なのだろうかと、今でも思う。

 人間、誰しも守らねばならない道義というものがある。正しい道筋というか、道徳的行動というか、つまりはまぁ模範的な行動というか、正しい理論というか、大義名分というか。そういうのは、どういう状況下においても絶対的で、雰囲気に流されるようなものであってはならないと思う。少なくとも、辞書が言うにはそうなのだろうし、それは一般的な価値観とも言えるのかも知れない。


「運ゲーは嫌いか?」

「ああ嫌いだとも。」

「その割には笑っているじゃあないか。」

「運が無いなりに楽しもうとしているだけだよ、阿呆でもそれくらいは判るだろう。」

 液晶画面で「ブラックジャック」をするというのは、最先端な行為なのか、むしろ前時代的な遊びから抜け出せていない証明なのか。不明ではあるが、少なくとも確実に今ここで私が明らかに出来るのは、私に運を握らせるつもりのある神や仏その他類似するsomethingはいないという事である。普段から特段の徳を積んでいないと、自負してしまえるのが己でも大変悲しいが、だからと言って愚行の限りを尽くしている訳でもなかろう。これだから神とやらは信じないことにしている。私は、都合のいい時にだけ、私に都合のいい神を信じるタイプの無神論者だ。神と悪魔と天邪鬼、そして世界は全て己の中にあり。ただし運は無い。

「君は阿呆だ。」

「何故?私はただ己の番が回って来るたびにNPCのディーラーが二十一を引かないことを願いながらチップを出せるだけ出しているだけだ。」

「それが阿呆だと言っているんだ、この阿呆。」

「言っただろう?これが運もツキも無い女の楽しみ方だよ。」

 阿呆という肩書が、これほどまでに心地がいい時もなかなか無い。大名を立てた気分だ。

「たまにそれで大勝ちをするから、阿呆というのは侮れない。」

「うらやましいかい?阿呆になれば良かろう、楽しいもんだぞ?」

「はっ、嫌だね。」

 椅子のきしむ音がイヤホン越しに聞こえる。友人が私の出した何かしらを否定するときは大体この音がする。おおよそふんぞり返っているのだろう、きっと背もたれが大分ぐっと傾くイイヤツだ。

 さて、自室の静けさに似合わない爆笑必至の大賭けバリバリジャンジャンボロボロ儲けを、あくまでゲームの中で済ませ、ふんぞり返っていた運ゲーの立ち回り堅実派の友人に泡を吹かせた所で時計が深夜一時を指した。どうせ明日も何もないのだから、一時だろうが二時だろうが、何なら、今からオールをしようが関係ない。あぁ地獄よ、不謹慎かもしれないけれどありがとう。一般女学生の私は、ウイルス対策ソフトのノートンやらマカフィー並に見た国家のウイルス対策ソフト、緊急事態宣言とやらの呆れた効果を見ながら、缶詰生活を謳歌していた。都合の良い液晶の中の世界は、私にとって、公園の池のようにほどよく汚くて、息がしやすい。

「さて、別ゲーと洒落込もうじゃあないか阿呆。」

「任せておけ。君の悪態よりは飲みやすいカフェオレが今日の私のお供だ。」

「ふん。そうだな……次はアクションゲームにしよう。モンスターの咆哮と利尿作用で漏らすんじゃないぞ?」

「他人のオムツの心配をする前に自分のオツムの心配をしておけ、無様に乙らないようにな。」

 一つ、あの阿呆の解像度が上がった気がした。友人は下品な言葉が好きだ。それだけで世界が平和になると思い込んでいるようにさえ見える。それだけで世界が平和になるなら国際法は多分必要性皆無だが、私があの阿呆のことが未だに全て理解出来ていない様に、世界は世界という物に対する解像度が足りていないのだろう。そう思うと、案外気楽に暴言の一つや二つ、吐けそうなものだとも思った。丁度、私が生きやすい池のよう。

 人間、誰しも知らねばならない道義というものがある。正しい道筋というか、道徳的行動というか、つまりはまぁ模範的な行動というか、正しい理論というか、大義名分というか。そういうのは、どういう状況下においても絶対的で、雰囲気に流されるようなものであってはならないと思う。少なくとも、辞書が言うにはそうなのだろうし、それは私のような女にとっては、息苦しくて。


「パズルゲームは苦手かい?」

「あぁ苦手だとも、私は片付けも苦手でね……。」

 この日はパズルゲームに誘われた。友人も私もぶっちゃけてしまえばそこまでこの手のゲームは得意ではない。カラフルな棒やら塊が降ってきて、横に一列きっちりそろえるとパッと消える。みんなが知っているゲーム。よくあるゲーム、仮にやったことがない人がいたとしても、知らない人はいないだろう。皆が知っている、そこには、妥当な理由など今更必要ないだろう。お決まり、周知の事実という奴だ。


「なぁ阿呆。」

「なんだ阿呆。」

「ひとつ、哲学的な話をしよう。物事には、何かしらのよりどころと言うのがあると思っている。」


「……あぁ待てよ、私達が今やっている事が解らないか?言いたいことは勿論わからなくは無いし哲学的思考はいつもなら大歓迎だ。ただね、今は勝負の真っただ中なんだ、気の紛れるようなことを口走ってくれるな?」


「どうせ出来るだろう?例えば……恋とかを例に挙げようか?」


「あー!やめてくれ、私は恋アレルギーなんだ。恋の話をするだけで、過呼吸になって、じんましんが出て、苦しくなって死んでしまう!軽率にあの世行きだぞ?いいのか?大事な大事なお前の友がじんましんだらけの変死体で見つかるのをニュースで見ることになるんだぞ?」


「あぁそれは困るね、それじゃあコッチが殺したみたいじゃないか。」


「事実、私は今し方君という阿呆に殺されそうになったんだ。折角人生で一度きりの死を体験出来るならもう少しまともに死にたいな。とりあえず、君に今殺されるのは少なくとも御免だね。」


「ふん、そうかい。まるで時が来たら殺してもいい、とも捉えられそうな文句だね。」


 また、椅子が軋む音がする。こんな話をしながらでも、案外いい勝負になってしまう己の指先が気持ち悪い。縦長の棒を隙間に連続でぶち込んで、連鎖的に消滅していく爽快感と、私が抱える、行き場の無い感情の着地点を、単純な仕組みと理由しかないゲームの画面を介して、積み上げては消していく。友人が文句を返してまた軋む椅子の音も耳に馴染む。これだからゲームは辞められない。現実の世界と明らかに違うことが、現実を逃がす先としてこれ以上にない理由だ。パズルゲームは正直苦手だけれど、このゲームでしか感じられない、筆舌に尽くせないような思いがあるというのもまた事実だ。

『事実、私は今し方君という阿呆に殺されそうになったんだ。』

 冗談を口走っている訳ではない。これは本心だ。ゲームでしか感じられない、もっと言ってしまえば、あの友人とするゲームでしか感じられない、そういう感情だ。心を仕留められそうだ、というような表現をすれば、あの阿呆もわかってくれるだろうか?なんとこの感情を呼んでやればいいのかわからないが、仮にこの気持ちが、人間だれしもが抱えうる物事なのならば、そしてその物事に、よりどころという物がもしも在るのであれば、それはきっと、後から付いてくる、雰囲気なのだろうと私は思う。大気、アトモスフィア、雰囲気。それが物事の存在する理由であって、根拠であって、一般であり大義で王道なのだろうと思う。そしてその、名付けるのならば、大気名分というのであろう物は、感情の抱き方だけが変に王道で、後のすべてがネットの海で不器用に浮かんでいる私にとって、あまりにも清すぎるのだ。


「此方は飯の時間だ、一旦落ちるよ。」

「奇遇、私も。今晩は何だろうね?」

 いわゆるゲームの集会所というのにキャラクターを放置して、私は席を立った。夕飯に呼ばれたからだ。自宅の階段を電気もつけないまま降りて、いまだに何も並んでいない食卓を見る。母親だけがキッチンにいて父親は仕事でそもそも居なくて、妹は何処かに隠れたかのように出てこない。見慣れた光景だが、何となくの不平等さみたいなものをどこか覚えながら、とっとと用意を済ませて、とっとと夕飯を食べた……あぁ、結局私は何を食べたんだっけ。まぁどうせ居ても居なくても、覚えていようといまいと同じことだろう、私など、たかが今日の夕飯など。

 ネットの海に溺れている、即ちネットの中で構築される社会、サイバーシティでの暮らしに傾倒していると私を評価するのであれば、確かにそうなのだろう。自覚はないものの、私は確かにあの阿呆との対話を生きがいにしている節がある。仮にそれが、今世界を覆う毒よりもずっと強い毒なのであれば、私は既に、それに溺れた中毒者である。この抱く感情は、依存なのだろうか?しかし私は、少なくとも毒の中に喜んで飛び込む真の阿呆、つまり馬鹿共が依存してしまっている、SNSの「いいね」の数!だの、動画の再生回数!だの、そんなケージの中のサルでも喜ぶようなものに傾倒する気はないし傾倒していないと自負している。故、今私が傾倒しているのは、見えないたくさんの目より、目の前にいるような気がして止まない友人だ。私は毒に溺れるよりもむしろ、毒を理由に病を煩ったのだ。

 自分の部屋のドアを閉めて、確か、そこそこの値段がしたのに前時代的と笑われがちなコード付きのカナル型イヤホンを耳に突っ込んで、ゲームを立ち上げる。自動スリープ機能はこういう時に面倒だ、帰ってきたら通信が切れていた。尤も、ゲーム機の電源つけっぱなしで席を立つなと言えばその通りではあるのだが。ふと、普段ボイスチャットの為に使っているアプリのメッセージ欄が目についた。どうもあの阿呆はまだ帰ってきていないようだ。友人が食事にかける時間はそこまで長くなかったように思うが、まぁ何でもいい。死んでなければ、それだけで十分だ。暇なのでざっと見返すことにした。何時からゲームをする?とか、ゲームのアップデートが思った以上に長くて暇だった時に送りあって遊んでいた動く画像とか、普通の友達みたいな、学校の話とか、その他諸々。見返すと楽しそうな過去の自分が見られて案外楽しい物だ。あぁ、たまに約束すっぽかして寝過ごして、滅茶苦茶にキレられている。私はそういうときもあるよな、と無理繰りに言いくるめている。今回は私が催促する番だ。キーボードに手を伸ばして。

「『再開できそうなら言ってくれ』、と。」

 わざわざ打ち込んでいる内容を口に出しながら、エンターキーをぶっ叩く。良いキーボードともあろう者が無様にカッターン!と言いやがるので気味が良かった。私が使っているのは既読通知が付かないタイプのアプリだから、友人が今メッセージを見ているのかどうかは、アプリを使っている状態、つまりオンラインになっているかどうかでそれを判断せざるを得ない。オンラインになった印の、緑にアイコンが光ってくれるのを待っていた。

 待ち遠しい。

 私はふと、そう思った。使っていない黒の液晶に映った、見慣れた私の顔はまるで、何かに焦がれる様だった。

「この阿呆、……分かったぞ。恋などして、無残に散るだけだ。」

 しかし、一度想ってしまってしまったその煩わしい恋心などは、悲しいかな、止まらない。これからの行為は、対面に座すようで、遠くの声を聴く行為だ。近くで笑いあうようで、彼方の宇宙からの接触だ。友人という道義が、次第に形を変化させていく音がする。それは甘酸っぱいようでほろ苦くて、赤く燃えるようでいて爽やか過ぎるほどに青く澄み渡っていて、軽々しいようで重々しくて、いざ言葉にすると途端に錆びてしまいそうな敏感さを孕んでいる。吐き出せば楽になる怒りや悲しみでも無く、時が経ってしまえば忘れてしまうような喜びや楽しみでもない。矛盾した真逆の感情を抱えうる、その感情こそが、私の煩った病だ。


『なぁ、阿呆。』

『どうすればいいと思う?』

『大病を患ってしまった。』

『恋だ。驚いたろう?』

『しかも相手は君だ。嘘を吐いてる訳じゃない。』

『……君が男でも女でも、この際最悪どうでもいい。好きとか嫌いとか、そんなのよりもずっと、漠然と君と話がしていたい。それだけを恋とすべきか悩んだけれど。』

『生憎私は阿呆でね、これしか言葉を知らない!』

「許してくれ!私は阿呆なんだ!」

[メッセージを消去します。よろしいですか?]

[消去]


「やあ只今。またせたね。」

「いいや大丈夫。で……狩り、で、いいよね?」

「へ?あぁ、いいよ。……何故か知らんが、眠いなら寝るんだな、無様に乙らないように。」


 これが、件の「あの時」に該当する、私の抱えた恋情の正体である。

 言い忘れていたからここに挟んでおくけれど、この身の上話は、一応回想をしている物ではあるものの、あたかも今の話をするように話を進めて来た。そこには、特段深い理由などない。それが私の赤裸々であり、阿呆、いやむしろ、馬鹿らしい体験を記録しておくのに大変便利であるというだけだ。それ以上も以下もないが、あえて一つ理由をつけるならば、友人とはずっと友人で居たい、というだけである。

 人間、誰しも守らねばならない道義というものがある。正しい道筋というか、道徳的行動というか、つまりはまぁ模範的な行動というか、正しい理論というか、大義名分というか。そういうのは、どういう状況下においても絶対的で、雰囲気に流されるようなものであってはならないと思う。少なくとも、辞書が言うにはそうなのだろうし、時にそれは、今の現実を見せてくる。どこか回復しつつある空気と、仮面を外さない人々と、未だに私の胸の中で漂う、締め付けられるような雰囲気の織り成す現実。名付けるのならば、大気名分というのであろうコレは、感情の抱き方だけが変に正直で、後のすべてが心の海で不器用に浮かんでいるだけの私にとって、あまりにも鮮明すぎるのだ。

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