第2話 大丈夫

「月の願いって覚えてる?」

 いつの日かの夜、ベランダで煙草を吸っている時に彼女にそんなことを聞かれたことがあった。

 月の願い、それは高校の時流行った一種のおまじないのようなものだ。

 満月の日の夜に、月にお願いをするとそれが叶うという、小学生でも考えそうなものであったが、妙に流行っていたのを記憶している。

 そういえば、僕は彼女がなくなった日に、彼女に逢いたいと願った。

 それも満月の晩だった。願いが叶うのが本当ならと、藁にもすがる思いで月に願った。

 そんなことを、ふと思い出した。


「明日消えるんだ」


 その言葉が僕の中に入ってきた。明日で最後だと。まるで嘘のように。

「明日? だってずっと一緒だって」

「言った。あそこで本当のことを言うわけにもいかないからさ。ごめんね」

 そんな顔をしないでくれ。僕は君の笑った顔が好きなんだ。これからも一緒に笑おうと、笑わせてやろうと思わせるその顔が。

「明日で終わりだなんてそんな……また、月に願えばいいのか! 確か桜と会ったのが満月の日で、日にちは確か……二十五日、ちょうど満月のはずだ! その時にまた願えばッ!」

 それが叶うならと叫ぶ願いも、彼女にすぐ遮られる。

「ううん、無駄だよ、覚えてるでしょ。願いは一人一つまでっていう噂」

「ッ……それは違うかもッ」

「違わないよ、私も、君も、一つだけ」

 「ならッ」と僕はあることに気づいて言葉を続ける。

「桜も一緒に痛いって願えば……」

 しかしその希望もすぐに崩れた。

 彼女は首を横に振りながら言葉を紡いだ。

「私はもう、願った。一か月前、君と出会った日に」

「そんなッ……なんて願ったの」

 ふり絞った言葉がこれだった。我ながら情けない顔をしていると思う。

 彼女に対してこんな顔をするなんて、余程焦っているのだろう。

「それは、君が考えて。分かるはずだよ。君なら。絶対、私はそう信じてる」

 だから、と彼女は続ける。

「今日はもう寝て、明日クリスマスを思いっきり楽しもう。そして、答えを聞かせて」

 そう言い残し、彼女は布団へと向かった。


 彼女が家に来た時、ベットを買おうと僕は言った。僕はベットで寝ているのに、彼女を布団で寝かせるのは変だと思ったからだ。

 だけど彼女は大丈夫と言って、頑なに首を縦に振らなかった。

 その理由に今日気付き、前々から分かっていたのだと心が締め付けられた。他の行動にも合点がいく。

 僕はどうすればいいのだろうか。そう考える傍ら、薄々僕は心の中では分かっていたのかもしれない。

そして、今まで感じてきた一つの感情に答えが見えてきたと思った。

 僕は彼女からいろいろともらってきた。彼女から返せないほどの物をもらった。僕は、これらを返さないといけない。

 明日が大事だ。







 クリスマス。僕らは夜まで家で過ごし、僕が買ったプレゼントが家に届くのを待った。それを彼女に渡すと彼女はとても嬉しそうに抱きかかえた。

 そしてクリスマスケーキやチキンを買い、二人で食べた。とても美味しかった。今までのクリスマスの中で、最も美味しかった。彼女もとても幸せそうな顔だった。これらのこともちゃんと日記に書き記した。忘れないように。

 今思えば、日記を書こうと言い出したのもこのためなのだと。これまでのことを忘れないように。そして――




近所の駅前には、ライトアップされた大きなクリスマスツリーがあり、その近くではたくさんのカップルが皆楽しそうに歩いていた。

 僕らもその中に溶け込んでいた。彼女との最後の時間を噛みしめて。

 心の中で僕はずっと考えていたことがあった。昨日やっとわかったそれを。今日ちゃんと伝える。

 クリスマスツリーの下にはベンチが添えられており、そこまで僕らは歩いた。

 ベンチに腰を掛けると彼女から切り出した。

「クリスマスプレゼント、ありがとね、良くわかったね。あれが欲しいって」

「目で追ってるのに気付いたからな」

「いやあ、うかつだったよ、君から何も貰うわけにはいかなかったからさ」

「僕からの逆サプライズだな」

「あはは、そうだね」

 消えると分かっていたから何も貰うわけにはいかなかったんだろう。

「安心して。あれは僕が責任もって家に飾っておくから」

「うん、それが良い」

 それで、続ける。

「答えは出た?」

「ああ、出たよ」

 僕が昨日分かったこと、それは――


「僕が変わること」


 昨日まで感じていた一つの感情、それは、僕は“このままでいいのだろうか”というもの。

 彼女が満月の夜に現れるまで、僕は最底辺の生活をしてきた。生きているのか死んでいるのか分からない。そんな日々を過ごしてきた。ずっと、彼女のことを未練がましく思っていたのだ。

「あはは、正解。君なら分かってくれると思ってたよ」

「桜が提案した日記帳、あれは僕がこれから桜がいなくても変わらず楽しく生きていけるようにするため。その他の提案も全部ほかの人としてもらいたいから、でしょ」

「うん、そう、できれば私もその未来に一緒にいたかったけど、もう、私はいないし、ね」

「ああ」

「君が私をずっと思ってくれてたのは分かってた。だから私が現れたんだって。だから君に私から離れて、でも、ちょっとは覚えてて欲しいかな。それで、他の女性と付き合って、会社の人たちとも仲良くしてさ。ちょっと妬いちゃうけどね。そうやって生きていって欲しいと思って、あの日、願ったんだ、変わって欲しいって。だからね、私、君が煙草を吸ってるの見て、ああ、それでも君の前とは違った面を見て、嬉しかったんだ」

「……ああ」

「だからさ」


「元気でね」


 僕は自然と涙が止まらなかった。止められなかった。泣くわけにはいかないと心では分かっていたのに。止まらなかった。

「ほんとに、ほんとに、ありがとう!」

 涙があふれることも関係なく、人の目なんか関係なく、叫んだ。

「桜のおかげで、俺は、新しく一歩を踏み出せる。会えなくなるのは悲しいけど、正直嫌だけど、でも、変わらなきゃ。だから」

 僕は一番彼女に言いたかったことを告げる。お別れの意味も込めて。


「だから、俺、大丈夫」


 彼女の方は見れない。見たらまたいろいろと言って、彼女を困らせてしまうから。

 ただ前を向いて、涙もこれ以上溢れないように我慢して。


「あはは、健吾君なら大丈夫だね」


 彼女は、笑って、いつしか笑い声はしなくなった。ただ、涙は止まらなかった。

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