第7話 過去編②

ー2ー



 滞りなく終わった葬儀は実に呆気ないものだった。

 かねてより聞き及んでいた通り、朱鷺子の親族は一人も姿を見せなかった。日本に一人としていない有久の親族も同様にである。夫婦が築き上げてきた人脈は、その特性上実に広範で多岐にわたるものだったが、最後に親族のみで、となった時に長男長女、そしてその家族しか立ち合わないのも侘しいだろうと龍神も同席を勧められた。断ろうにも、難色を示す親族すらいなかった。固辞する理由もまたなかった。

 斎場へ向かうバスは手狭だった。喪主の有久とは口をきくこともかなわない。夏の終わりの日差しに焼かれる住宅街を眺めながら、これから焼かれる朱鷺子のことを思った。つい三日ほど前、まだ辛うじて命のあった姿が物言わぬ骸となり、灰になって土へ還ろうとしている。それが綿々と繰り替えされてきた生き物の営みであるということは龍神も理解している。理解はしているが、実感を伴わせることが難しい。人の世との交わりは、他の「そうでないもの」たちに比べればずっと好ましい方だと思っていたが、学んでも学んでも人の機微というものは龍神にとって複雑怪奇なことばかりだった。朱鷺子の喪失と、有久の落胆もそうだ。伴侶をなくして辛い気持ちは想像がつく。想像がつくが、実感が伴わない。実際、龍神とて友人の朱鷺子が二度と目を覚まさず、炎に焼かれることを当然好ましくは思っていないが、どこか生き物はそういうものだと受け入れている節があった。実際、置いていかれることばかりなのだ。小倉山の神職は先祖代々、龍神の祠を守ってきた神職の家系だが、その当主を何人見送ったかわからない。きっとこれからも同じだ。別離はつらいが、また巡るのも事実だ。命のそうした廻を目の当たりにできるからこそ、一度の離別を苦しくは思わない。また必ず、形は変われど縁が繋がる。不可知なものであったとしても、事実としてそうなのだ。

「龍神よ」

「……お前は」

「おう。せんどぶりやのう」

 一つ後ろの席から声をかけられたが、龍神はそれが誰であるかを認識するのに手間取った。見慣れた姿と目の前の出立があまりにも乖離していたためである。しかし考えれば、夫妻の子とその家族の他に、朱鷺子の葬儀に出る部外者がそう多いわけではない。同じ立場であればこそ、その風態が気になった。

「こっちも自信あらへんさかい、声かけられなんだ。お前、嵯峨野の龍神やな」

「全くわからなかった。明石の海蛇」

「ここでは蛇島で通っとるんよ」

「蛇島さん。……有久と知り合いだったのか」

「あいつが溺れたんを助けて以来やな」

 スキンヘッドで喪服に身を包む、蛇島と名乗った海蛇。龍神はこの蛇島に出雲で何度か会ったことがある。嵯峨野に住まう龍神にとって、海のものとは深く交わる機会がない。そもそも、異なる土地の人ならざるもの同士が打ち解けて話をするようなことは滅多にない。つい洛中や、その近隣のもの、使役される獣などと気安いため、面識があったところで言葉を交わす段まで及ばない。世間は狭い。有久のように、見えないものが見える不思議な力を持った人間を介さなければ、こうした縁も無きに等しい。

「溺れた」

「二十年ほど前やったかいのう。嫁はんやボン、嬢ちゃんともその時のう」

 マイクロバスは斎場に到着し、二柱の神はなんとなく雑談をやめた。ゾロゾロと降りて係の説明を受け、待機室に通されるといよいよ家族のみの団欒となる。見たところ、有久とその息子一家、娘夫婦の他に浮いているのは龍神と蛇島のみであった。蛇島は龍神を誘い出し、斎場の表で堂々と煙草を吸った。

「いるか」

「いや、吸わない」

「ほうか? 案外、悪ないど」

 蛇島の出立は意外なほど、少なくとも龍神にとっては衝撃を受けるほど、普通の人間と変わりなく見えた。海蛇の名に違わぬ細身は喪服でも様になる。歳のころは、龍神の見た目よりやや年嵩に見える。顎の無精髭をさすりながら、咥えたままのタバコを実に不味そうに傾けた。まずい、という表情は崩さなかった。

「普段からそうなのか?」

「何どい」

「あんたの、その……」

「人になるんがいやなんけ? よう見たらケッタイやな、その歳でその見てくれ。擬態っちゅうもんが出来とらん」

「何か変だろうか」

「サラリーマンみたいや」

 蛇島はベタベタと龍神を触り回り、髪を乱し、ネクタイをやや緩めて満足そうに頷いた。着こなしの話はどうでもよかったが、「フォーマル」な場なのにやけに崩すことを要求される。残念なことに「人間」の世の指南役とも言うべき存在が、龍神にとってみればいないのも同義だった。

「ほれ。十人並み」

「すまない。蛇島さんは慣れてるな」

「慣れとるっちゅうか、フツーに生きとったらわかるもんやないけ? 嫁はんはなんも言わんのけ?」

「……連れ合いはいない」

「は」

 今度は蛇島が首を傾げる。そんなにおかしなことを言っただろうか。龍神は蛇島の真似をして小首を傾げたが、マネすな、とすぐに戻される。

「あんた神さんなんやろ? どないしょんの」

「別にどうも……」

「嵯峨野て京やろ、都、上方! そのケッタイな標準語も気にくわんのお」

「市井に紛れたことがなくて……気に障ったなら人語はやめる」

「アホけ? ワイがいじめたみたいになりょん、おかしやろ」

 蛇島は灰皿に煙草を揉み消し、不貞腐れたように頭をかいた。強面の風態に似合わない所作である。龍神にとっては、その姿が極めて人臭く映った。きっと先に声をかけられ、正体を見ぬかれなければこちらが気づかなかっただろう。同じような身の上であるのに、この差はなんだろう。当たり前のように笑って、当たり前のように揶揄して、当たり前のように悲しむ普通の人間のようにすら見える。龍神にはない。姿だけではなく、彼を構成する全てがそう見えた。

「そう言うからには、奥さんが」

「これまでに四人おった。今は五人目の嫁がおる。誰も彼もええ女やったど」

「……そう何人もいるものか?」

「村人が寄越してくるんよ。追い返す方が気の毒なで」

「そういうもんか」

「ワイも何人も看取った。あいつの気持ちはようわかる。ただ、人間と俺らはちゃう。別に生かしてもええけど、生かしてずっと一緒におりたいわあて、勝手やろ。終わりがあるからええねん。みんなほんまにええ女やったけんど、それは別のこっちゃ」

 龍神は蛇島に手渡されたタバコを持て余し、そのまま蛇島に返した。蛇島は龍神の不器用そうな所作を気に召したようで、ええ、と撥ねつけるように拒んで見せてから、ライターを寄越す。見様見真似で吸い込んだ嗜好品はどこか湿気ているような気がした。龍神はそれが、そのうち降らんとしている雨の気配によるものだと気がついた。

「女はええど。まさか、今どき独り者がおるとは思わなんだわ」

「俺の周りには結構多い」

「ええ、京て陰気なんかえ」

「そんなこともないと思うが」

 龍神の脳裏には何人かの同族が過ぎったが、面倒なので名は出さずにおいた。人の生き死には自分たちにはどうしようもできない。考えたこともないから、おそらく何もしない。

 人間の女を娶る、という発想が龍神にはなかった。女、という存在を意識したのもつい近頃のことのように思う。長く歴史の上で、男とだけ関わってきた。男しか歴史に名を残してこないのだから当たり前といえば当たり前かもしれないが、別に龍神とて名を残すような所行を働いてきたわけでもない。ただそこにあり、ただその流れを保ち、ただ必要に応じて雨を降らせてきただけだ。それ以上でも以下でもない。自我というものの芽生えが遅かった自覚はある。龍というのは概してそうした生き物らしい。市井の流れを正し、人の世を保つための存在であり、そのための信仰であるが故に情や欲といったものとどこまでも無縁にいられる。自分に仕える小倉山の一族が、まるでインフラだ、と言ったことを龍神は思い出していた。インフラ設備が自我を持つようなもの。長い歴史の中で、人の集めた信仰が「当たり前」のものとなって、龍が形成される。人とどちらが先かはしれない。だが、人がなければまた龍もない。龍が流れを正さなければ、人の世は脆く滅びてしまう。それも今や、人の中心が遠く東の方へ移ってしまって「必要」の側面はかなり薄れた。だがこうして龍はまだその姿をこの世に留めており、人語を解する。自我もある。人との交わりも希薄ながらある。それでいいと思っていた。

「黒越朱鷺子様のご親族の皆様……」

「いくで」

「あ……もう」

 係の呼び出し。それはすなわち、この長い一連の儀式の終わりを意味している。蛇島はライターをくたびれたスーツのポケットにしまい、龍神を伴って屋内へ戻った。龍神が建物に入る前、突然降り出した雨が、コンクリートに染み入って嫌な匂いをさせた。




「ああ、それは恙無く終わって……旧知に誘われた。明日には帰る」

 阪急三宮の公衆電話はいつでも人が列を作っている気がする。今日は雨が降っていたから尚更だ。龍神はどこか疎外感を覚えながら慌てて受話器を置き、映画のポスターを物色する蛇島のもとへ戻った。電話口の小倉山は意表をつかれたような生返事だったが、それもそのはずだ。龍神が外出先に長く止まることも、龍神が外出先から連絡をよこすことも初めてだった。

 お骨あげを終えてから、有久に声をかけたが今日はもう休むとのことだった。若く見えても高齢は高齢だ。疲れが出たのかもしれない。取りつく島もなく、真っ直ぐ地元へ帰ろうとした龍神に、うちくるか、と蛇島が声をかけたのは不思議なことではなかった。

「お前、映画とか見ぃひんのやろな」

「……存在は知ってる」

「そんなもん、あっかえ」

「だめか」

「ドラマとか見んのけ? おもろいで。かわいい子もようけでとるし」

 三宮の人の往来は龍神を辟易させた。大阪の繁華街にはここ二十年ほど行ってないが、それに匹敵する騒々しさだ。先日も有久を連れて飲みに来たが、なんとなく飲み屋街と駅前の騒々しさは異種のものであるような気がする。寂れ、くたびれた三北の空気感が龍神は好きだった。しかし今日は阪急からさらに南へ、阪神電車に乗り換えなくてはならない。

「まずは興味持てや」

「そうだな」

「うちの嫁はあかんど」

 龍神はようやく蛇島の冗談に笑えるようになっていた。というより、笑いどころとそうでないところを識別できるようになっていた。そして蛇島の冗談に笑いながら、有久のことを考えた。有久は今、骨になった朱鷺子を携えて家に戻り、何を考えているのだろう。

「有久のことは、また帰りにでも寄ったれや。今は放っといたらええ」

「死んだりしないだろうか」

「落ち着いとったで。あいつも頭のええ人間やさかい、二度と会えんことなるような真似みすみすせえへん」

「二度と?」

「生きとってこそチャンスはあるもんやろ。生まれ変わりいうてな、そないに都合のええもんちゃう」

 再び地下道へ潜り、改札前で蛇島は律儀に切符を二枚買った。明石、と記された地名には聞き覚えがある。有名な歌枕だ。これから明石に行くのだ。少なくとも、出雲以外の海に出向くことはそう頻繁なことではなかった。

「国鉄でもええけど、ワシは山陽が好きなんよ。ほれ」

「すまない」

「ずっと座っとれるし、海も綺麗やさかい、見て行ってや。嵯峨野に海はあれへんやろ」

「さすが、海蛇」

 蛇島は龍神のことも気遣っているのかもしれない。切符の印字を見つめながら、龍神は唐突にそう思った。そして人の世に熟れた蛇島に比べれば、龍神は恐るべきほどに人の世のことを何も知らなかった。電車に乗ったくらい、葬儀に立ち会ったくらいだ。着慣れない喪服はすでに窮屈だった。

 地下鉄というのか、真っ暗闇の中を走る電車に龍神も最初は辟易していたが、走行しているうちに電車はまた再び地上を走り始めた。海の眩しい波が光を反射している。出雲の波打ち際より随分穏やかに見える。

「嫁の前では言われへんことやさかい、先に言うとくと、先の嫁はんがこの海にいてる」

「え……海って」

「前は人間やった。死んで、次の世が魚」

「……それはまたすごい」

「言いなや。今は別に二心があるわけやないど。もう他所の人やからな。人ちゃうわ」

 自分の発言を律儀に訂正しながら蛇島は遠い目をした。五人の妻は、そうして死んだり生まれ変わったりしているらしい。龍神は思わず身を乗り出した。

「一人目はもう前すぎてよう覚えてへん。ええ女やったし、どこぞで元気にしとるやろ。魚言うんは二人目の嫁はんな。五百年くらい前かいなあ。信心の深い女で、徳も高かったから何度か生まれ変わってな。近くにおるからわかるんよ。三人目は体弱くてすぐ亡くなって、あんまり深い縁も結べとらんかった。気の毒やったわ。四人目は七十年ほど前か……流行病で亡くなった。みんな供養も終わって、生まれ変わって元気にやっとる。もう俺のことは覚えてへんけど、それでええ。次の世まで誓いあえるわけやない。俺だけ覚えとってもしゃあない」

「そういうものか」

「ああ、お前は別に、誓い合いたいんやったら誓ってもええんちゃうか。そういう相手が見つかって……人間が滅ぶまで一緒におろういうような人が見つかったら。俺は、俺の嫁はんらぁはそういう人やなかったというだけの話や」

 蛇島は情に厚いのか、淡白なのかよくわからない性格をしていた。神と言ってもそれぞれだ、と思う。龍神は考える。添い遂げる、という選択を持ち得ない自分たちのような存在にとって、仮初の休憩のようにそうして誰かと時を過ごすことは、不誠実なのではないかと、心のうちで思った。ただ、そうした情報をほぼ初対面の龍神に衒いなく打ち明けた蛇島を見ていると、どうやらそれも恥ずべきことでもないような気がしてくる。龍神は人間を好ましく思っていた。しかし、それだけだった。解ろうとした、交わろうとしたかと言われると自信がない。幸いにして、長らく居を構えてきたあの土地は、人の世の擾乱に何一つ煩わされることなく、よく言えば安寧を謳歌し、悪く言えば呑気に生きながらえることを可能にしてきた。ただそこにあり、ただ生きた時代を考えると、ここ二百年ほどの目まぐるしい変化が急激に過ぎるだけだ。だが、長く生きてなお、これほどまでに怠惰で、これほどまでにただ流れるままの時間を受け入れてきたことが、龍神にはにわかに耐えがたいほど恥ずかしいと思えた。

「俺は何をしていたのだろう」

「これからやったらええんちゃうんけ」

 先を見い先を、と蛇島は龍神の背を叩いた。遠くに巨大な島影が見える。噂に聞く国産みの島だ。明石はもうすぐそこだった。


「あんた、お客さん呼んでくるんやったら、電話くらいしいな」

「あれ金かかるんやど」

「わかっとるわ。ご飯の用意なりなんなりあるやないの」

「うるさい奴やろ。堪忍な、龍神」

 赤子を背負った婦人にどやされながら蛇島が飯をかきこむ。龍神は彼の隣に座り、窮屈そうに身を屈めた。

 海沿いの小さな一軒家は、文字通りの荒屋だった。てっきり何かの社に通されるのかと思っていた龍神は、そのあまりの人間ぶりにまたもや驚かされる運びとなった。蛇島は赤子を抱き、幼い娘を小脇に座らせ、妻とやり合いながらビールを傾ける。龍神にとってはカルチャーショックに近い。斎場で見た姿よりもよほど人めいたその姿は、本当に言われなければただの人間だ。

「その……奥さんは知ってるのか」

「何を? 俺のこと? なあお前、俺が海蛇やって前に言うたよな」

「またアホなこと言うとんの。あんた、お客さんにビールも出さんと」

「いえ、お構いなく」

「ビールも飲んだことあらへんのけ」

「さすがにある。そんなにはないが……」

「えっ。お酒飲まへんの?」

「そういうわけでは」

「毎晩ワイン? ごっついお金持ち?」

「そんなわけあるか、こんな吊るしの喪服で」

 ぽんぽんと飛び交う夫婦の会話に龍神は全くついていけない。夫婦の緩急というものは、他社の介在できない独特の間がある。同じ夫婦でも有久と朱鷺子はこうではなかった。あの二人の間はあの二人の間で独特だったが、もっと全体的にゆったりとしていた。人間、いや片方は人間ではないのだが、その関係性のありようは全く定義できないものだ。龍神は恐縮しながらビールをコップに受けた。泡を注ぎ終わるより前に、女は泣き出した背中の子をあやし始める。

「子供もできるんだな」

「当たり前やろ。やることやったら」

「やめて、あんた、何いうとんの」

「かわいいで。こいつら何も、普通の人間やしな。わしだけが歳とらん」

「聞き流してくださいね。酔うたらいっつもこないなるん」

 言ったと言っていたが、怪しいものだった。この分では真面目な話だとは思われていない。何より、村人が生贄に寄越すとは何だったのか。少なくとも、この「五人目の妻」にはそのようなことはなかっただろう、と龍神は察した。戯れて膝に登ってくる幼い娘は、有久と朱鷺子の娘を彷彿とさせる。幼い頃は誰も彼も似たようなものだ。

「わしだけでええ。子どもに先死なれるん、かわいそうやろ。でも子供まで歳とれんて、それもかわいそうやろ」

 ふと小さく呟いた蛇島の言葉に龍神は何も言えなかった。おそらく、蛇島はそうやって、今までの妻たちを慮って、長命種を冗談めかしてやってきたのだろう。本人はいい、しかし子供は? 親のせいで死ねないとしたら? それを生まれる前から定めていたとしたら? 蛇島はおそらくそれができなかった。できない、それもまた優しさなのかもしれない。人と交わる難しさは、つい先日龍神も身にしみて学んだばかりだ。

「蛇島さんは立派な人だな」

「なんや急に。参考にせえよ」

「あんたなんかなんも参考にならんわ」

「やかましいど、お前、ビール持ってこんかい」

「自分で持ってき! なめとんのか」

「おおこわ…」

 怒鳴ったはずが怒鳴られ返し、やや縮こまる蛇島の姿に龍神は笑った。朱鷺子が亡くなってから、有久の涙を見てから、初めて笑えた気がした。

 自分もいつかこういう人に出会うのだろうか。出会うとして、こうした間柄になれるだろうか。

 答えてくれるものは誰もいなかった。ただ、蛇島の妻が炊いた蛸のご飯、たこめしを食べながら、確かにそれを美味いと思ったのだった。


 



「律儀なやっちゃな。神さん言うんは」

 蛇島の家を発ち、再び阪神から阪急に乗り換えて、龍神は再び甲陽園の邸宅を訪れていた。

「迷惑だったか」

「水臭いこと言いなや。感謝しとるんよ」

 龍神が買ってきた一匹丸々のタコは、有久に渡すと手土産とわかってはいてもやや苦渋の表情を浮かべられたので、台所を借りた。俎上でなお動き続ける複数本の足を、有久は頑なに見ようとしなかった。だだっ広い邸宅の厨房部分に長身の男二人が揃う不自然さ。この家にはすでに、生きた人間は有久の他にはいないのである。家事手伝いで通ってくれていた女性も、この一週間は休みを出したらしい。そうしてゆっくりと向き合う時間が、有久には必要だった。

「タコ、切られて原型がわからんことなってからやったら食えるんやが」

「外つ国の人間は皆そうなのか」

「うちの国だけかもわからんけど。そもそも食わんのよ、俺は美味いと思うが、しかし姿そのものはやはりな……抵抗が強いねん」

「なるほどな」

「……朱鷺子は好きやったな。蛇島、覚えとってくれたんやな」

「葬儀の時にはそんな余裕もなかっただろうと。今朝、俺を送るついでに、市場まで連れて行ってくれた」

「なんやろなあ。神さん言うんは、ほんまに律儀な奴やね」

 そうなのかもしれない。神には打算も、欲らしい欲もない。気に入った人間にはこう、と執着が過ぎるのかもしれない。

 有久は葬儀の時よりやや血色が良いように見えた。彼なりに朱鷺子との別れを受け入れてこられて今に至っているのだろう。龍神は切り落としてなおウネウネと動くタコの足を必死に俎板から引き剥がし、俺も妻を探す、と誰に向けてでもなく呟いた。

「どないした、急に」

「いや。お前たちを見ていると、それも悪くないなと思った」

「蛇島はわからんでもないけど、俺?」

「お前みたいに誰かを愛せるかはわからないが……」

 それでも、悪くないと思った。

 長い時の一端、もしくはその長い時の全てを、誰かと一緒に生きるのは悪くない。

 龍神の言葉に、有久は一呼吸おいて、そうやな、と返した。

「確かに……悪くなかったわ、何も」

 誰宛でもない独り言をやり取りする。まるで神の前で何かに祈るように。

 龍神の目にも、有久の目にも、何も見えてはいなかった。しかしその場に残る誰かの「記憶」とでも言うべき実態のない何かが、二人のやりとりには確かに存在していたのだった。二人は確かに同じ影を感じていた。有久は人と違うものが見える緑の目を潤ませ、ええ人見つかったら紹介せえよ、と戯けた。厨房に差し込むやけに強い西日が龍神の手元を照らしていた。

 


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