第8話 過去編③
ー3ー
2004年秋
何日も食事が満足に喉を通らない。
理由はわかっている。説明することもできる。こういう事情で、何もする気になれません、と。
ただそれは故人をだしにしているようで気が進まなかった。自分にそういう言い訳をさせるために友人が死んだわけではない。松浦春海は何も言語化せず、何も言い訳せず、ただ部屋の中でひたすらじっとしていた。
ゴミのように蹲っている部屋は空気が淀んでいた。どこもかしこも腐った植物のような、不快で絶望的な匂いがする。実際に植物が腐っているのではないにせよ、春海の鋭すぎる嗅覚は己を含む様々なものから立ち上る諦念の匂いをしっかりと嗅ぎ取っていた。孤独死、という言葉が頭を過ぎる。健康体でそうなる人間は案外多い。災害に巻き込まれなくても、事故に遭わなくても、若い身空で死ぬ人間はいるのだ。自分がそうならない保証はなかった。漫然と選ばずにいるだけだ。
幼馴染の葬儀に出て、京都に戻ってきてからずっとこの調子だった。春海の幼馴染の日高宣諭は、十九歳の若さで土砂に呑まれて死んだ。山の斜面に面したアパートは紙屑のようにぺしゃんこになり、どこへ行こうとしたのか旅支度をしていた日高はあっと声を上げる間も無く窒息死したらしい。土砂を洗い流せはきれいな姿で帰ってきた、と面識のある日高の両親は泣きながら手を合わせたが、幼い頃からその動向を具に知っている腐れ縁とも言うべき存在があっさりと亡くなったことで、春海はすっかり生きる気力をなくしていた。
日高とは幼稚園から高校まで一緒だった。田舎の狭い集落の、やたら広い行動範囲の上で「近所」と呼んで差し支えない仲だった同級生は、春海の全てを知っていたし、春海もまた日高に関しては当然知っていることが多かった。のりさと、という厳しい名前をうまく呼べず、幼少期から呼び続けた日高という名字を、買ったばかりの携帯のアドレス帳に登録したのはつい最近のことだ。夏に帰省したときにも顔を合わせた。まだ先輩のことが好きだと言っていた。高校時代の先輩に片思いをして、春海にあれこれと相談を持ちかけていた日高。先輩も葬儀にはきていた。確か同じ大学の、理系の学部にいるはずの人。永遠に結ばれることはない。なんて不毛なのだ、と春海の方が泣きたくなる。日高はあんなに先輩のことが好きだったのに、先輩に彼氏がいても一度も諦めなかったのに。
秋も深まっているというのにどこか風が生温く重苦しい。台風でもきているのかもしれない。どうでもよかった。外界の情報を遮断し、始まったばかりの新学期をすっぽかして、春海はずっと部屋に引きこもっている。口元に触れると柔らかい産毛が生えていて、なんだか息も新鮮とは言い難い。誰の前にも出せない、ただ生きているだけの肉の塊だった。いっそ泣けたら、いっそ日高に会いたいと泣けるような感情の揺さぶりがあったなら、もう少し楽になるだろうに。
消化器官の蠕動が耳障りな音を立てる。生きているのが煩わしい人間に、こんな音を聴かせても食事を取る気にはならない物だ。だが自分がここで餓死すれば、素直に泣いてくれるような人間が何人いるだろうか。サボったゼミの教授も、口うるさい大家も、春海が死んだところで倦むことはあれど悼むことはないだろう。死んでまで悪口を言われるのは癪だ。だから死なない。死んでたまるか。そう思うと途端にお腹が空いてくる。単純な物で、空腹を活字にして脳内に思い浮かべると、途端に全身が渇望を主張してくるのだった。そういうわけで、まだ生きている。心中するほどの仲でもない古い人間が死んでしまった孤独は、薄情な物だが、極限まで空腹を感じた瞬間だけ少し和らぐのだった。だが、同時にそれは、少し栄養分を補給するだけでもう十分と、春海の欲求以下の水準で頼りなく音をあげるのだった。
近所には餃子の有名チェーン店がある。大好きでよく行っていた。しかし、一度外に出るならもっと遠くへ行きたくなった。春海は化粧もせず、歯を磨くだけ磨いて、産毛と眉を剃って、シャワーを浴びて家を出た。防犯上あまり褒められたものではないが、腐ったような空気がいやで網戸にして開けっ放した。台風かもしれない、と直感させる強風が吹き込んでくる。幸いにして3階の物件で、周りに足場になるようなものもない。両隣は面識のある同じ大学の女子学生だ。心の中で言い訳を色々と連ねて、滅多に乗らないバスに乗り込んだ。この時間の馬鹿みたいに混雑する大通りを、路線バスは期待通り随分のんびりと走った。観光客ならいざ知らず、京都駅に行くのにバスを使う地元の人間などまずいない。地下鉄は早く着き過ぎるのだ。
強い風が散々噴き散らかしても空は灰色に曇っていた。五条、七条と数字の数が大きくなるたびに京都駅が近くなる。このバスはどのみち京都駅行きで、ふらふら出歩くにはやや行き先が近過ぎるのだが、駅に着いてからどこへ行くのか、まだ南に行くのか、それもよく考えていなかった。京都駅から南は、春海にとっては未知の領域だ。もともと、京都に縁があったわけではない。本命の大学は大阪の方だったが、残念ながら受験に合格しなかったのでこちらに来たというだけに過ぎない。京都は狭いように見えて非常に広いところで、人が密集するエリアが無数にある。京都駅の南側はなんとなく、京都市と宇治市の境目も曖昧で、「よそ」の土地であるような気がしていた。だから、ふらっと思い立ってどんどん南へ行こうとしたのが、今くらいでないとそうはならない気がした。相変わらず何も食べていないのでお腹は空いていたが、目的が定まると消化器官の活動も少しはマシになった。
東本願寺の横を通り、タワーのすぐ下を大袈裟に回ってロータリーに着いたとき、他の人間に比べて遥かに軽装の春海は浮いていた。観光客くらいしか利用しないバスは誰も彼もが大荷物だ。財布の底から小銭を掘り起こして運賃箱に入れ、タラップを降りると絶えず工事を繰り返している巨大な駅ビルが目の前に現れる。古代から続く大都市と、昭和の残り香と、近未来を予感させる複雑な建造物を全て視界に収めてこの国際観光都市の底力のようなものを痛感するとき、春海は漠然と「生きていたい」と思う。歴史の中に身を落とすほんの一瞬の命が、あと百年足らずでなくなってしまうことを悔やむような気持ちになる。ただ人間には限りがあるもので、そしてその限りをつい最近目の当たりにしたもので、なすすべもない己の限りが疎ましく惜しい。再開発の進む京都駅前は忙しなく、春海は迷わず地下に降りた。
結局京都駅まで出てラーメンを食べただけだった。帰りは地下鉄で、10分足らずで家についた。感傷旅行は長続きしないのだ。
春海は自分の中の感情に疎い方だった。もしかすると、言語化していなかっただけで日高のことが好きだったのか、とすら考えた。だが肝心の日高が生きている間、薄情なことに「会いたい」と思ったことは一度もなかった。家の近い、年も同じ日高宣諭という男を、触れたい手に入れたいそばにいたいと思う日がほんの少しでもあったなら、もう少しこの感情に名前がついただろう。
最寄駅に帰り着き、路地に入る前にコンビニを物色していると、見覚えのある影が目に入った。それはまさしく人見知りの、日高の好きだった先輩だった。
「先輩」
「あ……松浦さん」
「先日はどうも」
社交辞令めいた文言を口にすると女の表情がやや暗くなる。うまく笑えていないのはお互い様であるような気がしたが、想定したよりは元気そうだった。春海は何度紹介されてもこの先輩の名を覚えることができなかった。ありきたりで、しかし読みと漢字が一致しなくて、さらに日高が呼ぶ以外は耳にしたことがなかった。つまりはそれだけ関心の薄かった存在だが、顔だけは覚えるのが得意だった。ただ進学してからは、化粧のせいで却って印象が薄かった。今日は何の化粧っけもなく、伏し目がちな二重目蓋も心なしか重く見えた。
「元気そうね」
「さっきラーメン食べてきたんで。先輩は今帰りですか」
「うーん。何もする気になれなくて、頑張ってコンビニまでは出てきた」
似たようなものだった。春海は女の持つカゴに入った様々な惣菜と弁当を見ながら、絶対に腐らせると思ったが何も言わなかった。尋常でない分量を買い込む、現実逃避の一環。もしくは暫く外界との縁を切るつもりかもしれないが、春海が言える気の利いたことは何もないように思えた。
「一緒に食べていいですか?」
「さっきラーメン食べたって」
「食べ足りない気分で」
「松浦さんって結構食べるんだ」
嘘で胃が膨れる。春海は胃をさすり、まだいける、と己に言い聞かせた。誰に言い訳をしているのか、もはや自分でもわからない。
女はカゴいっぱいの食料を会計に突き出し、レジを待つ間ポケットに手を入れて俯いた。俯くと目の下の隈がよくわかる。彼女はもう限界に近い。もしかすると、春海が知らなかっただけで、二人は交際していたのかもしれない。そうでなければ彼女のこの表情に説明がつかない気がした。
「いこ。ここのすぐ近く」
「大学一緒ですもんね」
半分、ビニール袋を持つ。春海のもう半分の痩せた腕は、頼りなく食料の入った袋を吊り上げた。
整頓の行き届いた部屋の机の上だけが散らかっている。
もう何日もそこから動こうとして動けなかった痕跡のように見えた。女は部屋に着くなり、なんか臭いね、と誤魔化すように笑って窓を開けた。
そろそろ夜は肌寒い季節に差し掛かっている。上着を脱がないまま春海は彼女の片付けを手伝った。人が生きるとそれだけで何がしかの痕跡を残すもので、つまりこの部屋には彼女の生きた痕跡がありありと残っている。逆に言うなれば、彼女の消え入りそうな存在感はこの散らかった卓上にしかなかった。動けないまま気力だけを消耗して、時間が過ぎていくのを待っているようにも見えた。
「ごめん。すぐ掃除する」
「自分も似たようなもんなんで。人あげられるだけすごいですよ」
「松浦さんも?」
「いや……なんていうんでしょうね。やっぱり幼馴染なので。この歳でいっちゃったかあ、っていうのが一番大きくて」
まだ二十年足らずしか生きていない人生は、ここまでで果たして正解だったのか、失敗だったのかすらよくわからなかった。現実主義者な春海と違って、幼馴染は夢見がちで空想家で、地に足ついたようなふりをしながらいつもふわふわしたことを考えていた。でもまさか、だからと言ってこんなに早くいってしまうとは、考えもしない。思いもよらない。ただ事実として、あの人間がもうこの世にはおらず、連絡もつかず、この後で何をどう為すか、その可能性の全てが摘まれてしまったということである。
「笑われるかもしれない話していい?」
「はい?」
「実は、日高が死んだって連絡もらった日、私は日高と一緒にいたんだよね」
女の突拍子もない発言に春海はどう返答するか迷った。頭ごなしに否定すると、その場で彼女が取り乱しそうな、鬼気迫るものがある妄言に思えた。
「貴船神社に行ったの。松浦さん行ったことある?」
「や、まだないですね」
「叡山電車に乗って、出町柳から鞍馬方面。切符も買った。写真も撮った。日高が案内してくれたの。でも、その一緒にいた日に死んだって、地元から連絡もらった。変なんだよね。記憶が混濁してるっぽくて」
「会いに来た的な」
「死んでからね。クソ迷惑じゃない? 生きてるうちにこいよって、思うよね」
クソ迷惑だ、と彼女は繰り返した。繰り返しながら、両目に涙をいっぱい浮かべる。腫れぼったい目元はこんなふうに何度も、何かに触れるたびに一日に何回も泣いているからだ、と春海は理解する。わんわん泣いて感情を言語化するのではなく、発露させるにも躊躇いと戸惑いが常に入り混じり、引きずって荒れて、時間をかけて落ち着かせて、また内側から迫り上がってくる感情に揺さぶられるからこんな泣き方になる。死んでから思い出を作る方が辛いはずだ。そしてあいつなら会いに来かねない、それくらい先輩のことを好いていた、と春海は述懐する。人の恋心を剥き出しで、間近で見た春海にはわかる。そして日高が、先輩には己の感情を決して言語化しなかった、美学のようなものも春海にはまたなんとなく理解できてしまう。
「先輩は日高のこと……」
「わかんない。いなくなってから感情に名前つけてもさ、私が辛いだけじゃない?」
「そうですね」
「後輩が死んじゃっただけでもめちゃくちゃ辛いのにね、特別な人になんてこれ以上、できないな」
日高が振られている。春海は心の中で悪態をつく。他ならぬ、もう言語化の術を持たない者に。
終わりがあるから美しいなんて、終わりに納得できた者の言い草でしかない。終わりなんてない方がいいに決まっている。限りはできればない方が良いのだ。
「あー。なんかごめん、つまんない話した」
「いえ」
「食べよう。松浦さん、好きなのどうぞ」
女の目元に涙の滴が浮かんでいる。何度も泣いて、この人は自分を慰めるのだろう。春海はこの先輩のことが嫌いではなかった。ただこの人が目に涙を浮かべるとき、春海はうまく日高を想って泣くことができない。そういうときにやはり、憎からず思っていたのかもしれない、と思いあたりもする。わからなかった。感情に名前をつけ、人間をカテゴリの枠に当てはめるのは非常に困難な作業だ。恋愛経験も殆ど皆無に等しい。なんとなく嫌いじゃないところから、全身で相手を求めるような熱情へとシフトした例もまだ、春海の生涯にはない。それはとても怖い現象であるように思えた。今の自分からはとても想像がつかないからだ。
「やっぱり死なない人がいいですね」
「何の話?」
「一緒にいるなら。死んじゃったら、辛いですもん」
「松浦さん面白い。人はいずれみんな死ぬんだよ」
「そうですよね」
仲良くならんだ安物の缶チューハイを見ながら誰しもが死ぬ、と春海は繰り返した。死なないでほしい。置いていかないでほしい。私は死なない人と一緒になりたい。まるでかぐや姫の無理難題のようで、春海は自分の中の空想家な一面に気づいて苦笑した。そういう意味では日高という人間が、己の中にまだ部分的な命を持っているような気がした。
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