第6話 過去編①

身を知る雨


ー1ー


1983年8月


 いやに冷えた夏の朝だった。

 河原町から阪急に乗り、梅田を経てさらに西へ向かう。国鉄を使えば一本で行けるが、先方の居住地を考えると阪急の方が便が良かった。三路線がほぼ平行に競合する日本でも有数の住宅街は、その居住地によって重用する路線も異なる。

 人の姿をとるのが久々だった。男は着慣れない背広に袖を通し、ぎこちない歩みで切符を大事に握りしめながら窓の外ばかりを見ていた。洛中でも外れの、人里からさらに一線を画した嵯峨野の山の中に一人、息を潜めるようにしてただ「在る」ものとしては、こうして人里のど真ん中、行き交う人の足を踏みそうなくらいの密度を歩くこと自体が異質であるかのように思えた。男の窮屈さを癒すのは、漸く大阪を出て淀川の川を超えた辺り、武庫川からまだ更に先へ進んで普通列車に乗り換えた、この周辺の落ち着いた景観だった。

 男の気づまりさは面持ちに現れる。比較的空いた、ゆとりある普通電車の座席に腰掛けることも忘れて、山の稜線ばかりを眺めている。左手に持った手土産の干菓子が重いからではない。友人が、この人ならざるものにとって数少ない「友人」と言うべき人間が、その人間としての務めを終えようとしている寂寞。千年生きてきて初めて、存える己の命が煩わしいと思う。男は無力だった。人でないというその一点は、特に何がしかの力を持つわけではないのだ。


 電車を三本乗り継いで漸く辿り着いた門扉は、こうした状況下には些か不似合いなくらい立派で、重厚な作りをしていた。

「わざわざ……」

「水臭いことを言わなくていい」

 男は家主の言葉を遮った。家主は言葉に惑いながら、しかし二の句を告げずに声を詰まらせた。緑の眼の、白い部分が腫れぼったく赤く染まっている。きっと寝ずの看病を続けているのだろう。男にとって数少ない人間の友人夫妻は、今そうして今生の別れを迎えようとしている。今日明日が峠だ、と聞いて居ても立ってもいられなくなり、不慣れな乗り物を乗り継いでここまで来たのだった。

 男にとって、この夫妻は友人、と形容できる数少ない存在だった。超特急が開通し、鉄道網も異様に発達した昨今、移動はさして苦難を伴うものではなくなってきているにせよ、男は自らの立場の故にそう易々と地元を離れるわけにもいかなかった。こうして手土産を携えて訪ねる程度には、この男とその連れ合いを悼むような、重んじるような心持ちがあったのだ。

 家主は男を母屋に通し、縁側から上がらせた。玄関周りは散らかっているからと言い訳をして。家主の風体に不似合いな純和風の邸宅は、この近隣であればさして珍しくもない。阪神間に広がる住宅街の中でもとりわけ閑静で、まるで眠っているかのように喧騒から離れた街並み。緩やかな坂の両側に等間隔で立ち並ぶ穏やかな街のつくりは、男の住む洛西のそれとは全く違った趣を湛えている。縁側に腰掛けて不慣れな革靴を脱ぎ、既に死の気配の濃い床へ目をやる。影さえも薄くなったかつての溌剌とした女は、男の姿を見ると無理をおして状態を起こした。

「朱鷺子、寝とけ」

「有久さん。龍神様きたったで」

「俺が呼んだんや」

「ほんまに。えろう、失礼して」

「寝ていていい。そのままで」

 男は家主に倣って声をかけたが、女は頑として聞かなかった。昔から堅気なところのある女だった。昭和初期の、女学校を出た女の矜恃とでも言うべき頑なさは、夫の後ろに控えながらも決して鳴りを潜めることがなかった。龍神と呼ばれた男を押し拝むようにして頭を下げる。歳よりもずいぶん老けて見えた。それは宿命的な病人の床の姿に相違なかった。龍神はかける言葉を必死に探しながら、ご無沙汰しています、とまた頭を下げた。

「神さんが、頭なんか下げたら、あきません」

「……あんたたちは友人だ」

「なんぼ、お友達や言うてもね」

 女は啖呵を切ろうとして咳き込む。もう長くない。呼吸のたびに喘鳴が耳障りな程だった。いっそ意識を失っていたらどんなに楽だったかしれない。それでも淡々と、見舞いの礼を述べた。女は龍神が自らの足で、鉄道に乗って我が家まで来たことを明らかに悔やんでいた。神さんにいらんことさせた、と嘆いてさえ見せた。

「うちほんまに死ぬんやなあ。有久さん」

 家主は何も言わなかった。死ぬとも、死なないとも返せなかった。

 ただ女が臥せる床の傍で、俯いて小さくなっていた。海を渡り、縁あって異国に住みついて、長きにわたってこの地に行きようと懸命に足掻いてきた努力の人が、自らのままならなさを言葉もなく悔やんでいた。畳に滑り落ちた汗は暑いからではない。脂汗だ。憔悴し切った人間の、絶望の淵で流す汗だった。龍神にもはっきりと感じ取れる。この世の涯で手を取り合った、生まれも育ちも異なる二つの魂が今、永遠に分かたれようとしている。どうにもならない力で、どうにもならない理によって、命よりも大事なものを失おうとする番を見ているのだ。

 男は人ではない。人の似姿を取ってはいるが、その実は全く異なる生き物であり、生き物として普遍的に持ち合わせるはずの「果て」を持たない。果てがないからこそ、愛おしむ気持ちにもまた違いが生じている。少なくとも、妻の死に瀕して憔悴し切った友人である家主の感情に同調することができているわけではなかった。それでも、人の世の側にわからないなりに千年ほど暮らしてきた経験が、死を前に淡々とそれを受け入れる女の肝の太さを痛切に理解させた。

「有久さんが、死にたなったら、言うてね」

「何を」

「うちが迎えに来るさかいに、勝手に一人で来たらあかんで」

「許してもらえるまで、あかんか」

「ほうよ。絶対に来たらあかん。追い返します」

「俺は朱鷺子と同じところへ行けるんかな」

 朱鷺子は大きく咳き込んだ。返事はない。ひゅうひゅうと苦しそうな息をして、天井を見つめている。龍神は言葉を持たなかった。虚空を見つめる朱鷺子の目には、泣き濡れる有久も映っていない。表の方が騒がしくなった。大方、夫妻の息子たちが到着したのだろう。有久は朱鷺子の細い手を握って動かなかった。龍神は二人に断ることもなく、門扉の前まで子供達を迎えに行くことにした。もはや一刻の猶予もないと判断したのだ。


 かくしてその日の夕暮れ、ひぐらしの声に紛れるようにして、黒越朱鷺子はその生涯を終えた。

 夫妻の子供たちは着いたばかりの、着のみ着のままでさめざめと泣いた。すでに人の親になっているとはいえ、兄妹はまだまだ年若い。朱鷺子は結婚が早く、逆に有久は結婚が遅かったため、誰もが先に旅立つのは有久だと思い込んでいた。

 龍神は有久と子の手伝いをすることにした。率先して台所に立ち、家の女がやるはずのことを担った。山奥に祀られていた神はふらふらと出歩かない分、奥向きのことに詳しくなるものだ。人間の家族たちは、警察に葬儀屋に役所に、と煩雑な手続きを手分けしてやっているようだった。晩年の朱鷺子は当然、料理など日常的にこなせるはずもなく、冷蔵庫の中には貰い物と思しき容器や作り置きが大量にあった。

「……腐ってんな」

 龍神は冷静に、それらの容器を捨てていった。有久に台所は任せると言われていたのだ。有久はこの国の男ではないが、男というものは普遍的にそうなのかもしれない。厨に立つのを嫌がった。それはまるで女の聖域であると言わんばかりに、妻の息遣いのない厨を忌避した。客ではあるものの、しかし客人ではない龍神は、有久によって結果的に厨の仕事を与えられたに等しい。水臭いことを言ってのけたあの友人だが、根底的には立っているものならば親でも使う傍若無人であることを、龍神は長い付き合いの中で理解していた。

 朱鷺子は妻としてあまりにまめまめしく、そしてできた女だった。主人の居なくなった台所ひとつとっても、その痕跡は実に明白だった。

「龍神さん。明日、通夜なんやけど」

「うん?」

 大方冷蔵庫の中を掃除し終えた頃、夫妻の下の娘が声をかけてきた。有久の血が色濃く出たのか、この国では過分に目立つ容貌の娘は、昔から龍神によく話しかけたがった。

「やっぱり、お母さんがたの人、誰も来おへんらしいわ」

「……頭おかしいな」

「しゃあない。駆け落ちやから」

「でも、有久は、立派に家を守ったじゃないか。朱鷺子さんに不自由させなかった」

「うちとお兄ちゃんのこと、見いたないんやって。日本人ちゃうから」

 淡々と語る娘は、乳飲み子を抱えての帰省だった。くだらない。龍神は初めて、この家で感情的になった自分を自覚した。有久がずっと泣くせいで、感情という感情の起伏が消えてしまっていたような気がしたが、怒る元気はまだあるらしい。国に生まれた者を、風土に育った者を、いやそうでなくても、不思議な区切りで虐げる発想が人ではない龍神にはわからなかった。同じ人間ではないか、と思う。まだ少なくとも、己と有久よりは近くにいるもののはずなのに。

「馬鹿なことを」

「ええのよ。あほと付き合わんで清々する」

「……これ。冷蔵庫を片付けたが、有久は食うだろうか」

 娘は龍神が手に持った分厚いガラスの容器を懐かしそうに覗き込み、多分食べるわ、と言った。酸味の強いさくらんぼのジャムは、甘すぎても酸っぱすぎてもよくない。有久の故郷の味だ。日本では滅多に手に入らないから、朱鷺子が手ずから作っていた。他ならぬ有久のために。

「そうや食べもんんで思い出した。明日、通夜やから、今日はお父さん連れ出してもろてもええかな」

「連れ出すって、飲みに行くのか」

「頼むわ。放っといたら死にそうなんやもん」

 龍神は難色を示しながら頷いた。愛するものとの離別など想像の範疇を出ないが、きっと飲み食いするような気持ちに持っていけはしないだろう。しかし確かに、不寝の番など任せた日には翌朝まで生きていない気がする。

 龍神は冷蔵庫の掃除をする前に脱いだ背広にもう一度、袖を通した。すでに夕闇は傾きかけている。明日の通夜までには、喪服を買ってまたここへ戻ってこなくてはならない。

「お父さんまで連れていかんといて。って」

「俺はそういう伝言を伝えるものじゃない」

 龍神にも分かっていた。祈りだ。これは祈りなのだ。龍神は娘の目元にもまた、有久とよく似た隈があるのを見つけた。満足に寝られていない家族の喪失感に、寄り添えるとすれば己の立場しかないこともまた、よく分かってしまった。


 阪急を使って三宮まで出ると、目当ての店はすぐ見つかる。騒々しいビアホールは、今の口数が少ない二人に非常に見合った場所であるように思えた。

 龍神はウエイトレスになるべく静かな席を、と伝えたが、残念ながら元気な学生の団体が来ており、それも難しい話だった。有久は力なく笑い、ここでええから、と龍神を制した。だだっ広いビアホールの奥まった席からはシャンデリアの照明が遠い。薄暗い手元に紙のコースターと最初のジョッキが運ばれてきて、ウエイトレスはまごついたように有久に視線を送った。どうやら言葉が通じるか心配しているようだった。

「お姉ちゃん、灰皿くれるか」

「あ……かしこまりました」

「日本語でええからな」

 もう何千回とこの街で繰り返したであろう言葉を、有久は嫌味もなく述べる。本人の人徳だろうと思う。間も無く運ばれてきた中ジョッキを持ち上げて、朱鷺子に、と龍神が言った。有久は何も言わなかった。返す言葉がないように、龍神には見えた。

「近頃の方が却って通じひんねん。まあ、一昔前は居留地や、なんやと仰山おったんよ。よそもんが」

「そうだな」

「別に俺らも必要ないさかいな。死ぬか、国へ帰るか。新しく来るやつはそんなに多くはない。おるんは、年寄りと二世ばっかり」

 龍神にとって戦後間も無くのことはそれほど昔のことではない。年数にして約、四十年弱。有久が日本に来てからの年数もその程度のものだった。人と神の知られざる交流は、実はそのころに起源を持つ。有久には「そうでない」ものがよく見えた。見なくても良いものを見る目は、故郷にいた子供の頃からずっと彼の一部だった。

「結局お前は帰らなかった」

「当たり前やろ。帰るところもあらへん」

「ドイツの実家は?」

「家自体は空襲であれへんし、妹の嫁ぎ先頼るわけにもいかんし。敗戦国いうのは辛いで、龍神よ」

「違いない」

「朱鷺子は国で死なせてやれてよかった」

 龍神は、有久が語る故郷のことを、二つとも知らない。流石に気ままな立場とはいえ、外国に行ったことはないし、これから先も行くことはないだろう。有久が生まれたのは、遠く西の方にあるドイツという国だった。物心つく頃に父と二人で渡米し、アメリカ人として育ってアメリカの軍人として従軍した。太平洋戦争のゴタゴタを利用して、終戦後に日本へ。口頭でそう言ってのけた有久の長い旅を、龍神は何も体感できたわけではなかった。ただこの国の外側には海があり、海の彼方にはまた別の国があることを、知識として知っているだけの話だった。

 有久の帰る場所はない。帰る場所がないからこそ、帰る場所を作った。そして今日、こうして帰る場所をまたひとつ無くした。

「膵臓は見つからんらしいわ。見つかった時にはもう遅かった」

「……そうか」

「あいつ、俺より十五も若かったんやで」

「知ってる」

 ビールが空になる。空のジョッキを回収する代わりに、お食事はいかがですかとウエイトレスが問いかける。名物の唐揚げを頼み、あとは適当にウエイトレスの好みで決めていい、と言うと怪訝そうにしながら若い娘は去っていく。龍神は有久が紡ぐ言葉を拾うのに必死だった。何かしら拾ってやらねば、何も残らないような気すらした。

「俺、変やろか。死なへんあんたに、死んだ女房の話聞いてもろて、なんとか生きてる。今晩ふらっと死なずに済んどる。意味がわからへん」

「死ぬなよ。死んでもどうにもならない」

「頭ではわかってるんやけどな」

 龍神は覚えている。有久が死にそうな顔をするのは、何も今に始まった話ではない。

 しかし前にこの顔を見た時も、俺の目の前で死ぬな、穢れが溜まる、とわざと冷たい物言いをしたものだが、今となってはそうした悪口雑言すら打てない。神であるが、人の情が心地良い。人の情に引きずられ、人の世と交わりたいと願ってしまう。龍神にも代々仕える神職の家系があり、彼らは人でありながら神と口をきく不思議な力を持っていたが、彼らもまた独特の感覚でもって龍神と関わった。だから、友人と呼べる存在は少なかったのだ。人の身の遣る瀬無さも、人の身の脆さも、龍神は彼らから教わったようなものだ。

「まだ死ぬ時じゃない」

「あんたそういうのわかるん?」

「わからないが、死ぬな、とは言える」

「そうか」

「本当に死ぬなよ」

 有久は二杯目のビールにはほとんど手をつけなかった。喧騒と一線を画すように、虚な目をして妻の幻影を追っていた。

 龍神の心に去来する喪失感は、きっと有久の抱える喪失感とは限りなく異質なものだった。同じ人間を悼んでいるのに、こうも異なる心映えが不思議でならない。

「伴侶とはまさしく片割れなんだな」

「あんたはずっと一人なんか?」

「そうだな。考えたこともなかった」

「カミサマは、そういうのいらんもんな」

「できなくはないのだろうが。まだ知らないと言った方がいい」

「千年近く生きとって?」

「言っておくが……俺は極めて人間好きな方だ。同種から疎まれる程度に」

「へえ」

 有久は力のない相槌を打ち、断りもなく煙草に火をつけた。片方の目から音もなく涙が伝う。煙が目に染みたのではないだろう。

 龍神は有久の手をつけていない酒を勝手に飲んだ。有久は涙を拭い、唐揚げを食べて、ゆっくりと咀嚼してまた煙を吸った。

 死ぬなとは言ったが、死んでしまった方が幸せなのかもしれない。

 しかし死ぬな、俺を置いていくな、立て続けに友を亡くしたくない、まだこの世にいてくれとわがままを言語化するには、龍神は些か歳をとりすぎていた。

 その時の有久の目には何が見えていたのか。龍神はそれを聞く言葉を持たなかった。そういう時に、まだこの世は俺には難しい、と心の内で呟くしかなかった。



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