第5話

 天ぷらが得意じゃない。

 昨日、食卓でそんな話になった。

 春海の作る料理はいつも美味い。何をどうしたらというのはよくわからないが、自分も作るような簡単なメニューであればよくわかる。美味い。昨日はハンバーグだった。和風のきのこソースを絡めて、いかにも秋らしい風味だった。噛めば肉汁が溢れ、肉そのものにもしっかりと味がついていて、いつにもなく美味い、と心の底から繰り返した。俺は嘘がつけない性分だ、と春海がいうのもわかる気がした。特別口にあった時に、これほど大袈裟な反応をしていては。

 ミンチには生姜を入れた。玉ねぎは加熱せず、そのまま食感が残るように混ぜた。醤油で味を整えて、和風だからナツメグは入れずに。そういう拘りを訥々と語る春海がどことなく嬉しそうなのは、表情ではなく語り口から察することができる。

「料理が好きだから」

「いいことだな」

「好きじゃなかったらきっと、やってない。食べるのも好きだし」

「その点に関しては完全に同意する」

「食べる必要がないのに食べるのが好きだものね」

 生きるために食べるのではなく、食べることで生きる意味を知る。人でないものにはそういった側面がある。春海もかつて、俺と一緒になる時に、食べる喜びだけは奪わないで欲しいと言った。生き死にの断りは外れてもいいから、ちゃんとお腹が空いて、美味しいものをおいしいと言えるままでいさせてくれと。全く同意だった。俺とお前が、どこで出会ったか忘れたわけじゃないだろうに、と思った。俺は大いに頷いて、美味いものでも食べに行こう、と返したのを覚えている。食べることが根底にある状態は、俺にとっても心地いい。そうありたいと思う片鱗の一つだ。

「食べたいものはだいたい、自分で作るんだろう」

「それがねえ、どうしてもしたくないものもある」

「そうなのか」

「天ぷらは、家で一度も作ってない」

 言われてみればそうだ。俺は味噌汁を啜りながら唸った。たまの外食で何を食おうかという話になった時、確かに天ぷらを食うことが多かった。たまには、と前置きして。その「たまに」で満足していたのである。なるほど確かに家では出たことがない。油の処理もしたことがない。

「大好きなの。本当は」

「へえ」

「でもうまくできない。得意じゃないからやりたくない。だから作らない」

 筋は通っている。俺は曖昧に頷いて、炊き立ての米と一緒に咀嚼した。こんなに美味いハンバーグを作れるのに、天ぷらが揚げられないとは意外なものだ。いや、きっと揚げられないことはないのだろう。基準が高くなるから、できたと認識しないだけだ。おそらく。

「揚げてやろうか」

「え?」

「明日、午前中は仕事だろう。俺は休みの予定だから、昼は任せとけよ」

「やったことあるの? できるの?」

「なんとかなるだろ」

 春海は目に見えて呆れた、という顔をした。絶対にできないと思っている。確かにやったことはないが、やり方を教えてくれそうな心当たりはいくつもあるのだ。あまり侮らないでほしい。俺が料理をするのは確かにそう頻繁な話ではないが、たまに簡単なつまみや甘いものを拵えることくらいは春海も知っている。

「火事だけは勘弁してね」

 期待度はしかし、あまりに低かった。なんだその反応、と思いつつ、俺は恐ろしく口に合うハンバーグを大事に大事に飲み込んだ。


 明けて翌朝、春海を送り出してから小倉山に電話をかける。タピオカから怪しい揚げ饅頭までなんでも売っている、一応「プロ」である小倉山は、しょうもな、とまた一言目に毒を吐いてから簡単に手順を説明した。曰く、冷たい水と、冷えた卵と、小麦粉。たったこれだけだ。あとは揚げ物用に加熱した油。これはコンロの機能で調節できるらしい。

『あの嫁、天ぷらも揚げられへんの?』

「言い方に険があるぞ」

『アホでも揚げれるであんなもん』

「なら俺でもできるな」

『おっちゃん、鍋ごとひっくり返して大火傷しそうや。変温動物やのに、死ぬんちゃう』

 しかしこの口ぶりからすると残念ながら小倉山も日常的に天ぷらを作るわけではなさそうだった。これなら毒を吐かれた分、クックパッドでも検索した方が有益だった気がする。一品作るのにも一苦労。なんとなく春海の言っていた、得意じゃない、という文言がわかる気がしてくる。

『しかしあんたが人の子のために料理とはな。おとんが聞いたら倒れそうや』

「放っとけ。もう切るぞ」

『つまらん男になったもんやね』

 捨て台詞までいやらしい。氏子でなければ絶対に関わらない。気を取り直して俺は衣の作成に取りかかった。なんとか言われた通りのものを混ぜると、確かにイメージされる調理前の衣のようなものが出来上がった。次は具材だ。だが冷蔵庫の中には天ぷらの材料として有用そうなものがほとんどない。諦めて衣にラップをかけ、買い出しに出た。野菜のかき揚げを作ろうと思うなら、ゴボウは絶対必須だ。春海の好きな賀茂茄子も買っておきたい。エビももちろんだが、笹身も美味い気がする。近所のスーパーで一品ずつああでもないこうでもないと思案して、ようやく買い終えた頃にはもう昼になっていた。慌てて部屋に戻り、買った品を刻んで一つずつ衣につけて、コンロが勝手に設定した油の中へ潜らせていく。なんとかそれなりの見た目になった頃、春海が帰ってきた。パートタイマーである春海は、繁忙期以外はだいたいこういうスケジュールで午前の物流を捌いて帰宅する。

「わ、本当にやってる」

「ちょっと待ってろ。盛り付けるから」

「味付けは?」

 俺は黙った。味付け。そうだ、天汁を忘れていた。もちろん塩もない。俺が黙ったのを察して、春海は梅雨でもこしらえましょうか、と俺の隣に立った。

「すまん」

「謝ること何もないわよ。私は喜んでる」

「いかんな、詰めが甘くて」

「その気持ちが嬉しいから。小倉山さんにでも訊いたの?」

 春海は小倉山と折り合いが悪い。が、春海が小倉山を揶揄するようなことはない。いつも悪言は小倉山からだ。曰くこれは「正妻の余裕」だそうだが、意図するところは俺にはわからなかった。曖昧に返事を濁すと、春海は小さく笑った。

「火事にならなかったから、大成功なんじゃない」

「成功の閾値が低いな」

「私はやったことあるの。しかも賃貸」

「……生きててよかったな」

 春海は照れるように肩を竦めて笑った。揚げたての小さな、わずかにかき揚げの塊から外れた玉ねぎをこっそり口に入れる。あつい、とおいしい、を交互にいいながら、少し潤んだ目で俺を見上げた。十分だ。何が十分かは言わないが、とにかくこれでもう、心の底から満足している自分がいた。

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