第4話 Bonus Track
来るんやったら先言うといてください、とタヌキがらしからぬ慌ただしさで口走るが、知ったことではない。
俺は職場の作業着、愛用のツナギの胸元を寛げて堂々とカウンターを陣取った。不服そうなタヌキにメキシカンコークを注文すると、タヌキは客商売とは思えない不遜さで愛想笑いをした。親玉が親玉なら配下も配下だ。地獄耳の狐に聞かれたら面倒なので、何か言ってやりたいのをグッと堪えてタバコに火をつける。
このタバコというやつは、美味くはないが酒にはよく合う。メキシカンコークであっても酒は酒。酒を飲むのは、春海がいない夜だけだ。春海は近頃の生まれの人間らしく、あの煙を異様に嫌う。線香と似たようなものだと思うが、喫茶店でタバコを蒸すなど言語道断だと食ってかかる。匂いに聡いのは何も我々の領分に近付いたからというのでもないらしい。
「メキシカンコーク、メガサイズです」
「気が利くな」
「龍神はんにはメガ盛りで出せってオサキはんが」
「酒は質より量ってな。やかましいわ」
タバコを灰皿に置き、バケツほどはありそうなサイズのグラスを傾けた。どうやって飲むんだこんなもん。辟易しながら苦労して傾けた頃、ストローありました、と持ってくる。とぼけた顔で本気でやっているのか、俺をおちょくっているのか判然としない。こういうところもまた、あのふざけた狐に似ている。
「春海はん、家出ですか」
「アホ言え」
「でも、また今朝嵐山で土砂降りやったて聞きましたよ」
「あのなあ。雨だからって俺が何にでも関与してるわけじゃない、寧ろ最近は落ち着いてる方だろ」
「自分で言う人、ほんまに落ち着いとった試しがありませんよ」
「昔の友達が亡くなっただけだ。郷里の……昔馴染みだと言ってた。若作りが知れたら嫌だから、しれっと他人のフリをして参列してくるとよ」
「義理堅いですねえ」
その義理堅い女に、義理も人情も捨てて一緒になってくれと言ったのが俺だ。あれは小春日和の、今よりずっと寒い冬のことだった。目があって、愛想笑いをして、それで一緒になった。いろいろすっ飛ばしすぎだと春海には今でも文句を言われる。一緒になったことに後悔はないくせに、俺への叱責は日々留まるところを知らない。
「離れて大丈夫なんですか?」
「まあ……大丈夫だろ。今までもどうってことなかった」
「よその神さんのとこでっしゃろ」
「よそっつってもな。もともとあいつの生まれ故郷で氏子だし、平気じゃないのか。俺は嫁にもらう時、挨拶まで出向いたんだぞ。あそこの猪」
「猪なんや……」
タヌキが珍しいように言うのでおかしかった。自分自身はどう説明するつもりだ。有名な映画にもいるだろ、猪の神様、と付け加えたが、言ってから呪いでも受けそうでそれは縁起が悪いと思った。医療従事者が医療ドラマを見ないように、自分たちの界隈ではあの作品の評判はさほど良くない。
「春海はんにもたまには顔出して欲しいんですけどねえ」
「俺と同じで甘いもん好きだからな。酒は滅多に飲まない」
「タバコ吸えるから追い出してるのと違うんですか?」
ムカつくタヌキ。俺はムキになってグラスを持ち上げ、ストローを放って飲み干した。ギョッとするタヌキにグラスを突き出すと、自分で作っておくれやす、とボトルごと突き返される。職務放棄だ。
「今日は他の連中は」
「そのうち来ますやろ。あの神さんら、夜行性ですし」
「年寄りの宵っ張りはみっともねえな」
きっと天狗も猫も、果ては狐も「お前にだけは言われたくない」と口を揃えるだろうが、どちらの方が歳を食っていたとしても年嵩なのは事実だ。何度四季が巡り、何度正月を迎えて、何度朝日が昇ったかなど覚えてはいない。悠久の時を生きるものに年齢の概念はなく、しかし近頃、春海が言ったことが胸に引っかかっている。どういった見た目にでもなれるなら、年相応に歳をとってみたい、と。あいつも人間のままなら今の見た目より二十年は老けさせなきゃならない。ドラマなんかみてたら、人間にとっての「時間」というやつがいかに残酷か思い知らされる。同時に、その経年がいかに深刻な意味を持つかも。
残念ながら俺にはそんな器用な真似はできなかった。所詮は雨を降らせるか、雨を止めるか、その程度の技能しかないのである。台風が来れば、大雪が降れば、体調を崩す。もしかしたら並の人間よりずっと脆弱で、力のない神威なのかも知れない。
「あ、噂をしてたら」
「げっ。クソジジイ」
「なんだよヤンキージジイ」
「ジジイにジジイって呼ばれてたまるか」
「ジジイだから同じジジイのことをジジイって呼ぶんだろうが、そこ座れ」
「指図すんな」
下界に交わるのが嫌いな天狗はあからさまに嫌だ、という顔をした。見た目は若いが、実のところ俺とあまり歳は変わらない。数えてはいないが。周りに飛んでる有象無象もひっくるめて入店し、光ものの好きなカラスが内装のネオン電飾をつついている。一気に騒がしくなった。仕事に精が出てご苦労なことで。何も指示されずとも、タヌキは赤玉ポートワインを引っ張り出す。
「ポートワインか。懐かしいな」
「今はスイートワイン言います」
「お前にはやらん」
「結構。テキーラの瓶で間に合ってる」
「大半が安いコーラでバカ薄いテキーラな」
「黙れ」
話してるうちにタバコはすっかり短くなってしまった。慌てて最後の一口を嗜み、灰皿に押し付ける。普段は酒を飲まないから、こんな程度でも割と酔ってるな、と思う。俺も歳だ。老いない、朽ちない体でも、確実に慣れというやつはある。酒に酔うと甘いものが食べたくなるのだ。しかし、今日ばかりは何か小さなものを買って帰っても、相伴に預かると言ってくれるものがいない。
「甘いものが食いたい」
「果物やったらありますけど、切りまひょか」
「もっとこう、重くて硬い生クリームが食いたい気分だ」
「向かいのセブンイレブン行ってこいよ」
「ピエールエルメのコラボ商品はうまかった」
「もう食ってんのかよ」
「昨日春海が……いや、なんでもない」
テキーラを手酌で注ぐ。ついつい注ぎすぎて、ごまかすようにコーラを入れた。こういう甘味料じゃない、欲しいのは。確かに甘いんだが、俺にいま必要なのはおそらく、そう言った類のものではないのだ。
「遠距離恋愛の向かんお人ですねえ」
「うざってえ。何しに来たんだこいつ」
「あ、今からオサキはんが来るらしいですよって、龍神はん」
「冷やかしに来るんだろ……」
「とんでもない。奥方の不在を侘しく嘆く旧友を慰めようというのに」
噂をすれば影というか、基本的にこの狐は、洛中のことであれは大概、地獄耳なのだ。いつの間にかカウンターの隣席に腰掛け、肩を組んでいたとしても不思議ではない。フラフラと現れた高位の獣は俺の周りをスッと通り抜け、いつもの面越しに意地悪く笑った。ご高説は結構だが、俺は遠距離恋愛とやらを焦ったく続けられる性分ではない。雑で悪かったな。堪え性がないのも知ってる。すでにその辺りは、春海に重々指摘された後だ。
「お前に慰められるか」
「それはそうだな。可愛い嫁御の代わりなど、むさ苦しい我らには務まるまい」
「絡むな。なんで来た」
「テキーラは奢ってやろう。なに、遠距離恋愛も悪くはない。先達が教示してやろうか」
「いらん」
俺にはそんな甲斐性もなければ、根性もない。明日になれば戻ると言った妻を恋しがっている旨など、本人には決して伝えられない。
昔話の神が嫁入りしたものを里へ返さなかった気持ちがよくわかる。執心。随分と人間めいた心持ちは、悠久の時を経てようやく、実態を伴って我が身に降りかかるものであったと、俺は今更ながらに痛切に感じていた。
END
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