第3話



 カーテンを開けるとそこは雪国だった。確かに週末は寒波が訪れると聴いてはいたが、春海の予想を遥かに上回る異様な積雪量は、古都の朝を潔いまでの銀世界へ変えている。降る雪は音もなく、風に散らされることもなく、朝凪の中に重力だけを反映してはらはらと積もっていく。この分じゃ交通機関は役に立たないな。春海の判断は速かった。そして携帯を確認すると、案の定会社からは可能な範囲で出勤しろ、無理な場合はもういいから安全第一、という旨の業務連絡が入っていた。歩けば30分、いや雪道を考慮すれば45分。遅刻するが出勤する、と返信して、春海はさっそくクローゼットを漁った。雪に降られても構わない寒冷地仕様のコートが、確か此処に仕舞ってあったはず。

 夫は既に彼女の隣に寝ていなかった。この雪だ、予定が変わって先に出勤準備をしたのだろうとさして深く考えていなかったが、よく見ると枕もとに彼の携帯が置かれたままである。夫の泰貴は根が真面目な性質だ。携帯電話を置いていくような失敗はしたことがない。リビングにでもいるのだろうか、それにしては静かだと思いながら春海は扉に手を掛けた。が、扉は容易に開かなかった。それどころか勢いよく何かにぶつかった。

「あ」

 春海は察した。……というか、数年前の正月にも似たようなことがあったのだ。恐らくこの扉の向こうで夫は蹲って倒れている。ああ、せめて人型のままであってくれ……ぶつかった感触からではなにもわからないので、心の裡でそう祈った。


 龍神春海は元々何の変哲もない(ちょっと人と違ったものが見えるだけの)人間だったが、縁あって龍神の妻となった女性である。

 龍神はれっきとした神の眷属であり、古都京都の北西、嵐山に古来より棲みついていた。どれくらい昔から棲んでいるかと言うと、記憶している限りでは人がこの地に都を開いて以来、などと嘯いていたが虚実は計り知れない。天気を左右し、主に雨を降らせることに長けた龍は長い歴史の中でひとに興味を持ち、ひとの世に混じって生きることを決めた。龍という生き物は本来そうして好奇心が旺盛なものであるらしく、彼のように人の世に混じる龍はひとが想像するよりもはるかに多くいるらしい。

 そんな彼が人間を妻に迎えたのはある意味では当然のことであり、同時に異例のことでもあった。人間社会に色濃く混じって生きようとする神は、そう数が多いこともない。会社まで持って、龍神が社長に収まるなどと、いくら零細企業の清掃会社であっても滅多にない話だろう。ちなみに春海は社長夫人として夫の仕事を支えつつも、ちゃんと定職として配送会社の事務所で働いていた。大学を卒業してすぐ就職し、3年ほどしてから龍の妻になった。龍神は彼女が働きに出て、俗世と混じることを一度も否定したことがない。他ならぬ彼自身が人間と俗世を深く愛しているからである。

 そんな彼は、当然龍神と言うからには、本体はうつくしく光る白銀の鱗を持つ龍である。普段はひとの世界に混じって生きるがゆえに、とりわけ春海と番になってからは滅多にその本来の姿に戻ることはない。足の生えた蛇、と形容される長い身を持て余し、天高く昇る様は幻想的ではあるが安易に人に見られるわけにもいかないのだった。だから普段は何の変哲もない若夫婦の仮面をかぶっているのだが……

「大丈夫?」

「……はるみ……おはよう」

 のろのろと動く気配があった。絞り出したであろう声音は倦怠感と脱力を多分に含んでいる。ああ、この声には覚えがある、あの時と同じだ。春海は覚悟を決めてリビングへ踏み込んだ。案の定、床には抜け殻のような夫のパジャマと、力なく横たわって浅い息をする大きな龍の姿があった。

「あー。この雪のせい?」

 夫は答える気力がないようだったが、その苦悶に満ちた人外の横顔が頷こうとしているのを見てやんわりと動きを制した。これは悪ふざけではない。そして人型を保てなくなるほど弱っている。理由ははっきりしていて、この大雪が原因だ。大方、鞍馬か貴船あたりで酷く降ったのだろう。それこそ人間社会のインフラ設備が滞るほどの積雪があったに違いない。

 龍という生き物は、多かれ少なかれ生きている土地の流れ、これを龍脈と言うが……そういったものの影響を受けやすいらしい。春海も夫に伴って少しずつ龍に近い生き物になってはいるが、幸か不幸か元が人間であるため悪影響に関しては耐性が強かった。大雪でたとえば寺社の建物が倒壊したり、倒木によって何らかの流れが堰き止められたりといったトラブルが彼女の身体に直接悪影響を及ぼすことはなかったが、純粋な龍である夫にとってはそうもいかないらしい。積雪による電線の切断、送電の停止、それに伴う気の停滞……雨を司るくせに雪ばかりはどうしようもない、変なところで無力な夫が春海はどうにも憎めずにいた。

 春海は苦しそうに息をする龍の頭に手を当て、空いた手でリモコンを探った。テレビをつけると大題的に貴船一帯の停電と建物の倒壊を報道していて、ああ間違いなくこれだと得心がいった。

「今日はおとなしく寝てるのよ」

「……ああ」

「会社は私が連絡しとくから。予約は?」

「名刺、財布。連絡して、くれたら……」

「するから。とりあえず、もう少し体畳んで。熱いのはわかるけど踏んじゃいそうだし、急に床で冷やすのも良くないわ」

 なんてことはない、対処法は人間の風邪と同じだった。ただそれが成人男性か、異様に大きい蛇のような生き物かという違いしかない。……最大にして、普通は受け入れられそうもない差異である。

「こればっかりは仕方ないわ。復旧待ちましょうね」

「う」

「どうしよう。私今日仕事休んだ方がいい?」

「いい。行って来い。ちゃんと、寝てる」

 確かに付きっ切りでいても出来ることなどたかが知れている。恩着せがましく休んだのでは治るものも治らないだろう。伸びきった龍の絞り出した言葉に、春海は小さくそう、と返事をした。それきり龍は何も言わなかった。押し黙って、そのまま寝息を立ててしまう。

「変温動物にあるまじき体温」

 春海はそっと龍の額から手を放し、そのかわりすぐに濡れたタオルを持ってきて、丹念に龍の体を拭いた。おかしい、爬虫類みたいなのに、ちゃんと目を閉じるなんて。こんなことを言ったら怒られるだろうが、春海は龍の瞼が閉じられることをとても不思議に思っていたし、その要素があればこそ彼とカナヘビの見分けがつくのだくらいに思っていた。カナヘビと一緒にされる龍神も気の毒な話である。暫くそうして漫然とテレビを見ながら支度をして、春海は寝息を立てる夫を置いて家を出ることになった。滞った気の流れが彼の神気を蝕んでいく。はやく復旧すればもう少しましになるだろうに、参拝客を足止めする程度の雪害がどんなものか、春海にはまだよくわかっていなかった。


 傘を持って外へ出る。視認できる程度の綿雪が車を覆い、信号を覆い、アスファルトを覆っていた。転ばないように細心の注意を払わなければならないが、歩き方を損ねると手痛い筋肉痛に苛まれるだろう。ヒールのないブーツは実年齢を考えるとギリギリだが、神の妻となってから肉体はゆるやかに年を取ることをやめていた。20代半ばの外見で中身は割と年嵩なのである。

 雪が普通に降るだけであれば何の悪影響もない。それによって要所の流れが滞ってしまうのが良くないのだ。だが雪が降ればそれも不可避と言うことで、夫は雪をあまり好いていない。雨とは根本的に勝手が違うのだとぼやいていた。龍は冬と言うものに本来的に不向きな生き物なのだろう。この古都では冬には必ず雪が降る。寧ろ、正常に流れが回っているからこそ四季の訪れがあるのだし歓迎して然りなのだが、日頃から良くないものが溜まりやすい街であるのも災いして、何か大きな停滞が生じると身近な龍がこうして弱ってしまう。

 こういう時は夫が人ではない、ということを実感させられる。清掃会社を営み、現代日本のポップカルチャーを積極的に享受し、その辺の女性よりも甘味を好むようなあの夫が、気高き龍であり神であるということを視認できてしまう数少ない瞬間。春海に声をかけたときからずっと、龍は人の型を保っていた。数年前の正月、同じように折からの大雪に見舞われて龍の姿に戻ってしまった時、初めてだった春海はひどく動揺してしまった。なんとなく普通の人間のような錯覚をしていたのだ。はじめは鱗に触れることすらできなかった。ざらざらと、指先を掠める人ではないものの質感と、ひどく熱い体躯に言いようのない無力感を覚えた。妻なのに何もできていない。苦しんでいるのがわかるのに、どう寄り添えばいいのかわからない。そう煩悶した挙句、夫は自力で回復し、また人の型に戻った。あの時と同じように日にち薬なのだ、でも何もできないのは嫌だ……春海はざくざくと新雪を踏みしめながら、か細い前の記憶を懸命に掘り起こした。

 職場には予定していたより少し早く着いた。案の定、営業所内に従業員は少ない。本社から派遣されている管理職の社員と、ごく近所に住むパート職員が緩慢な所作で仕事をしている。今日は配送流通も機能しないのだろう。おはようございます、と挨拶をすると、春海ちゃん本当に来てくれたのねえと親のようにパートは喜んだ。

「無理してないですか?」

「大丈夫です」

 上司の春日野はこの大雪にもかかわらず普段と変わりのない品の良いスーツを着ていた。彼の迅速な業務連絡は従業員の勤労意欲を削がないが、いったいいつ休んでいるのだろうと春海は内心不思議に思っている。この人こそ普通の人間なんだろううか、と思わなくもないが、ただ仕事が出来て紳士的で指示も的確な春日野がいなければこの営業所は恐らく回っていない。

「今日は集配も最低限度に留めます。お客様にもそれはご理解いただかないと……」

「貴船がすごいことになってましたね」

「ニュースでやっていましたね。暫くは参拝も出来ない有様だそうで。いつ止むんでしょう、この雪も」

 実際の集配自体がなくとも、出勤可能な人員が少ないため仕事は山積みだった。微かにぼやくような春日野の口ぶりに同調しつつ、春海は自らのデスクに堆く積まれた資料と格闘しなければならなかった。嘆くより先に捌かねばならない。仕事をしていれば、夫の不調とそれへの懸念も少しは和らぐだろうと思った。





 昼になっても雪は止まなかった。それどころか分厚い灰色の雲に覆われて太陽も一向に姿を見せず、ただ塊のように大きな雪が重力に従って積み上がっていくばかりである。昼休憩で斜向かいのコンビニに入った春海は、いつもなら考えられない静かな大通りに積もっていく雪を漫然と見つめていた。何かのピーキングが壊れてしまったような降り方である。雨であれば、冗談めかして夫を詰ることも出来よう。夫は機嫌が悪いとすぐこの都に雨を降らせる。雨ならば、髪の先まで濡れて帰っても彼を詰って胸元に飛び込めば何もかもが平和に解決した。彼も苦しんでなどいないし、自分も雨に濡れるのは嫌いではなかった。春海は雪の重さに辟易していた。湿り気を帯びた雪がその自重で建物を壊し、神威を脅かし、流れを堰き止める様を黙って見ているしか出来ないなんて。日本の神というものは、全知全能ではないし、万能でも無比でもない。出来ないことの方が多いのである。そうした個々の神の力が複雑に織り成すのがこの世であり、それを凝縮したのがこの街だ。

 シンプルに考えれば考えるほど、泰貴のことが気にかかった。コンビニで具だくさんのスープを買い求めながら、向かいの棚に陳列するシュークリームやプリンを見て泰貴に何か買って帰ってやりたいと思った。人間の甘味、とりわけ外来のスイーツを好む夫である。でもせっかく買って帰るならコンビニよりもちゃんとした店のものがいい。コンビニのスイーツなら、いつも仕事の時に買っているから。そう思いなおして春海は延びた手を引っ込めた。滅多にいかないが、そう遠くない立地に美味しいと評判のパティスリーがあったはずだ。こういう時はプリンがいいだろうか。風邪をひいたようなものと言っていたし、生クリームよりはするんと食べられるプリンの方が良さそうだ。

 事務所に戻り、温かいスープを啜っていると、漫然とついたままのテレビから大雪の警戒情報が絶えず流れてくる。夜になってもおそらくバスは通常運行とはいかないだろうし、帰りもこれは歩くことになりそうだ。春海は少し張った脹脛を宥めるようにさわさわと揉んでみた。体は若いが気持ちはそうではない。運動不足が祟っている。

「龍神さん、今日はもう手持ちが上がったら帰っていいですよ」

「え。いいんですか?」

「帰れるうちに帰っていただかなくては」

「有り難いですが、春日野さんもちゃんとお休みになってくださいね」

「それはもう。こんな大雪は滅多にありませんからね」

 紳士的な上司は恐らく女子社員を帰した後も黙々と仕事をするのだろう。いつ休んでいるかもわからないが、有り難くその勧めに従うことにして春海は黙々と作業を続けた。きっとここで責任が問われれば、春日野に全ての責が課される。自分たち従業員の不手際でこの紳士的な上司を貶めるような真似だけはしたくなかった。

 春海は元来、集中すれば手際のよい方である。何か処理しなければならない事柄が複数ある場合、順番に優先順位をつけて片づける習慣があった。今日もまたそうだ。新規の仕事が来ないので、過去に割り振った順番に仕事を片付ければよかった。16時ごろには大体机の上が綺麗になっていて、新規の案件もないようなので報告を済ませ、退勤する運びとなった。

「お疲れ様でした」

「お疲れ様です。あの……本当に宜しいんですか、先に上がってしまって」

「いいんですよ。何か心配事がありそうなお顔ですし」

「へっ」

「旦那さんに何かあったんですか?」

 上司は慧眼であった。春海は旧来そんなに顔に出やすい方ではないと思っていたが、それほどわかりやすく何かをダダ漏れにしたまま仕事をしていたのかと思うとあまりに恥ずかしい。社会人としてあまり褒められた行いでもない。

「すみません……ちょっと体調を崩しておりまして」

「早く帰ってあげた方がいいですよ。そんなときに出勤してくれてありがとうございます」

「とんでもない。寧ろ私の方こそすみません、仕事中にだらしのない……」

「いいえ。龍神さんは集中されてましたよ。いえ、集中されてたから余計に見えやすかったと言うか」

 上司は珍しく言葉を濁した。それって普段は却って集中していないってことだろうか? 春海は内心ぎょっとしたが、努めてそれも表には出さず頭を下げた。


 夕方になって雪は少し小振りになっていた。だが相変わらず溶けることもなく、事務所のあるビルを出てすぐガードレールに積もった雪がトラックの振動でがさがさと音を立てて崩れていた。いつまで降るんだろう。春海は手袋をした両手に息を吐きかけ、雪の降る方へ傘を向けながら歩き出した。

 北山にあるパティスリーは、価格帯の高さと観光客の多さから常用するような店ではない。だが幾度か足を向けたことがあるので、営業時間内に辿り着くことを祈って歩くしかなかった。真っ白な空は少し陰りを見せ始めていて、冬の夕暮れの早さを痛感させる。いつもは観光客で賑わう北山一帯だが、水を打ったように静まり返っていて逆に不気味だ。雪の日の静けさは都まで静かにする。彼女の故郷の丹波篠山では、必ずと言っていいほど冬に雪が降った。野山が真っ白に染まり、バケツの水は凍りつく。そうした朝は決まって鳥の声すら遠い。静寂の中で雪が音もなく降り続く。春海はどちらかというと雪が嫌いではなかった。すぐそこにある、あるのが自然な故郷の一部だからだ。でも今は違う。夫を苦しめる要因だと思えば無邪気にはしゃいでもいられない。

 車の往来も少ない。人の棲む世界にしては随分静かで、それが異様でもあった。いつの間にか騒がしい古都に慣れ過ぎていたのだろう。

 パティスリーに着く頃には雪が止んだ。漸く、と安堵の息を吐く。既に閉まりかけていた店は、春海の影を見つけてわざわざクローズの札を出すのを待ってくれた。

「もうほとんど残ってないんですけど」

「プリンをふたつ。ありますか?」

「ちょうど2つあります! どうぞ」

 ショーケースを覗くとモンブランも残っていた。これは明日あたり、回復したときに2人で食べたい。春海は葛切が大好きだったが、洋菓子の中ではモンブランが一等好きだった。

「……それからモンブランも、2つ」

 威勢のいい店員は恐らく大学生だろう。丁寧に箱詰めし、今日はもう閉めますからとこっそりクッキーまで袋に忍ばせてくれる気遣いに春海は泣きそうになった。

 店員といい、春日野といい、自分の周りに居る人は随分と優しい。これだから人間をやめるのは惜しい、そして人間ではない夫もまた人間のことが好きなのだろうと思う。今度からこの店はもう少し頻繁に利用しよう……せっかく近所に住んでいるのだから、今日のように帰り掛けにお土産を買って帰るのもありかもしれない。

 春海は横倒しにしないように慎重に袋を持ち、もう片方の手に傘を持って家路を急いだ。ヒールのないブーツが重い水音を立てて雪に沈んでいく。夕方の一瞬だけ姿を見せた太陽が少しずつ積もった雪を溶かしているのだ。溶けかけた雪が氷点下の気温に晒されて凍ってしまったらそれはそれで翌日が大変である。アイスバーンだけは嫌だ。そうなると本格的に明日は引き籠りだろう。


「ただいま!」

 家に辿り着いた。外出した時と何も変わり映えのしない玄関は泰貴が外出していないことを物語る。傘を立て掛け、ブーツを脱ぐと急ぎ足でリビングへ駈け込んだ。泰貴はまだ人型を取れておらず、銀の鱗を床にぴったりとくっつけて寝息を立てていた。春海はそっとプリンを持たないほうの手で泰貴の頭部に触れる。朝ほどではないが熱はまだ高いらしい。すっかり乾いてしまったタオルをもう一度濡らし、そっと押し当てると起こしてしまったらしく、ぐるると唸るように声をあげた。

「ちょっとは楽?」

「なんとか。朝よりは」

「よかった。雪止んでるわよ、もう日も照ってる」

「……なんというか……すまん、迷惑かけた」

 泰貴は気高い龍としか形容のできない頭部を春海の手に沿わせ、くったりと力を抜いた。龍神たるものが、こんなペットのようなじゃれ方をしてはいけないと、春海は常々思っているのだが……今日は格段に弱っている。これくらい好きにさせてやりたかった。さわさわと真っ青な鬣(たてがみ)を撫で返してやると、はるみ、と普段より掠れた声が彼女を呼ぶ。

「俺はふがいないな」

「え?」

「神ではあるが、大したことも出来ない。それなのに都の穢れは真っ先に被る。人間だったお前に迷惑かけてる」

 春海は龍の体躯を自らに寄り添わせるように抱き寄せた。まだ熱い、爬虫類の見た目に反して熱の篭った鱗を、一枚一枚冷やすように触れる。外から戻ったばかりの春海の手は手袋をしていたにもかかわらずひどく冷たい。互いにとって抱き合うのが最も効率的だった。そして幸せに思う。こうして言いにくいことを打ち明けられることを。

「ばかね。こんなの家族なんだから気にしなくていいのよ」

「家族」

「そうよ。好き合ってるだけなら恋人でもいいけど、あなた私の家族なんだから。いいことばっかりじゃないってわかってるし」

 神だから、龍だから、特別なんじゃない。一緒になってもいいと思ったから特別なのだ。

 それは春海が龍神である泰貴の本質を見抜けたからではない。きっかけは仮にそうであったとしても、連れ合って共生することを受け入れたのは、他ならぬ泰貴と家族になっても良いと思えたからだ。

 勿論初めからそうだったわけではない。前に同じようなことで泰貴が人の型を保てなかったとき、正直に言うならば春海は非常に怖かった。そして思い知らされたのだ。自分の夫が人ではないことを。人知を超えた存在であり、どうあっても本当の意味で寄り添うことなどできないと諦めてしまった。

 今は違う。人であっても、神であっても、夫は夫だし家族は家族だった。

「でも、はやく、その……人型には戻ってほしい」

「それは、極力努力はするが」

「……鱗の感触も悪くはないんだけど」

「お前変わってるな」

「誰のせいよ、誰の!」

 ぎゅうう、と音がするくらいしなやかな体躯を抱きしめて、春海は俯く。言葉にはしないが、細長い龍の体躯では彼女が一方的に抱きしめる形になるので、それが嫌だった。夫の人型はそれなりに骨太で肩幅もある。そうでないと落ち着かない。だがそれを直接言葉にして誘うのは彼女にとってはあまりにハードルが高かった。

「ええと。あと、お見舞い買ってきたから。食べる?」

「自宅なのに見舞いなのか」

「あげない」

「嘘だよ……何、コンビニでスイーツでも買ってきてくれたのか」

「違う。マールブランシュのプリンとモンブラン」

「は?!」

 京都北山の名店の名を挙げられ、デパ地下スイーツに目のない泰貴は……人型ではないので出しにくい声にもかかわらず、思わず叫んでしまった。

「春海、お前、どうした」

「……っ、どうもしないわよ! 食べるの、食べないの」

「ありがとうございますいただきます。ああ……ええと、匙が持てないんだが……」

「それくらい食べさせてあげるから」

 だからはやくよくなってよ。抱きしめられたままだったので視認できなかったが、恐らく今頃年甲斐もなく真っ赤な顔をしているのだろう。うちの、嫁は。泰貴は恐らく今頃もし自分が人型だったら泣いているだろうと思ったが、生憎龍の居姿だったため感情表現が上手くできない。くそ、可愛い。もうなんか諸々どうでもいいし、多少無理してでも人型になってめちゃくちゃ抱きたい、と凡そ神らしからぬ下世話な思考が一瞬頭を掠めたが、振り払って短く返事をした。頭や胴だけではなく、長い尾を彼女に沿わせたのは気持ちの問題である。暫くそうして春海が動こうとするまで、泰貴は全身を妻に寄り添わせていた。気枯れが緩やかに回復していくような錯覚に陥る。自分にとって何よりの神威の源泉は彼女であると、そう痛感する龍神は、龍の姿の自分が笑顔を作れないことを心底惜しいと思った。



 なお、翌朝無事に人型になるまで力を取り戻した泰貴が、春海の起きる前にモンブランをふたつとも食べてしまって大げんかをしたせいで、古都には季節外れの冷たい通り雨が降ったと言う。



END

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