第2話
「ごめん」
「いや……俺こそ申し訳ない」
謝るときの気まずさを考えると喧嘩なんてすべきではないなあと思う。毎回のことだ。お互い学習しないものである。
今日は珍しく私が休みで、彼が昼だけ仕事。夜はまた一緒にいられるわけだが、あまりにしょうもない(この場合、つまらない、よりも数段つまらないの意である)喧嘩をしてしまったせいで、夜までどうして過ごせばいいのか一気にわからなくなり、せめてもの罪滅ぼしと玄関までお見送りをした。
嵐山に住んでいると言えばとても聞こえはいいが、現代文明と人間の暮らしを殊の外気に入っている夫は、稼いだお金で嵯峨野のちょっとした大きさのマンションを買って、私と一緒にそこに住んでいる。年がら年中人型をとっている神仏なんてありがたみも何もあったものではないが、そもそも生まれて30年そこそこの小娘(自分で言うのもどうかと思うが)と極めてくだらない口論をしている時点で彼にはそもそもありがたみというものがないのである。天気しか弄れない龍神は、故に大概無害である。屋内にいる限りは。
「今日何時ごろだっけ」
「4時には終わるから、5時には帰る」
「……お買い物でも行きましょうか」
「そうだな……」
歩み寄る姿勢、友好的な態度。何も取り繕うわけではなくて、5年も夫婦をやっていると日常の中から消えていく恋人だった時のような接触を思い出しているだけだ。仕事用の作業着に身を包み、ドアノブを握る夫の手は並の人間より少し大きい。指を包むようにそっと握ってみた。
「そんなに怒ってないからな」
「わかるわ。いいお天気」
「……どうもなあ……甘えが出るのかなあ」
「いいわよ少しくらい。夫婦ってそういう物でしょ。悪い気はしないわ。毎回、馬鹿みたいだなあとは思うけど」
「それな」
「覚えたての若者言葉を使わないの」
どうも最後まで甘い雰囲気を作れないのはしかしながら、付き合っていたころから変わらないのだった。私はじっと夫を見つめ、そっと距離を詰める。そのうち触れるだけのキスが降ってくる。先日彼が見ていたドラマで似たような手口のキスをしていたから、その通り再現しただけだった。
「行ってらっしゃい」
「おう。行ってくる……あ、今日、そっちはどうするんだ」
「四条まで出る。ジュンク堂に行って、お茶でもしてくるかな」
「そうか。好きだなあ、また行くのか」
「今日はお迎え来なくていいからね」
夫は神様ではあるが、何らかの神通力を意図的に行使することはできない。そういう意味では極めて人間的だし、私の予定を訊くのだって、吉方でも占ってくれるのかと最初は思ったけどそういうわけでもなく、『大阪へ行くなら梅田のデパ地下でフロマージュを買ってきてくれ』だの、『神戸へ行くならクマのケーキ屋でチョコレートケーキを買ってきてくれ』だの、単に各地の美味しいものを強請っているだけだった。四条では強請るものもなかったのだろう、何も言わなかったが、私も鬼ではないので何か乾菓子でも買って帰ってやるか、と内心で密かに企てた。
神様の足音が遠ざかる。歩いて会社へ出勤していく、他の男と何も変わりのない神様。不可解な雨がこの都に降るたびに、逆に言えばそのときにのみ痛切に、彼がひとではないことを思い知らされる。老いることを知らない私の身は、たかだか5年では実感の仕様もないが、これがあと5年経てば実年齢に比して若々しさだけが独り歩きするようになるのだろう。彼と永久を添い遂げるために年を取ることをやめた身体で、こうして人と寸分違わぬ暮らしを営んでいる。俗世の娯楽を享受し、人並みの夫婦のようなまねごとをしながら。
「にしたって、夜中の録画失敗したからって、あんなに不機嫌にならなくてもねえ。私も素直に言いすぎたけど」
朝起きて、挨拶に返事もせず不機嫌を極めていた彼に、休みの朝から不機嫌を振り撒かれるのは鬱陶しい、と言ってしまい、早朝は土砂降りになった。ご飯を作っているうちに雨は止み、コーヒーを淹れたところですっかり止んだ雨は、彼自身の怒りに対する恥じらいを表すようでもあった。彼は私と結婚してから感情の起伏が激しくなったという。桂川の神様にも、大きなお寺の仏様にもそう耳打ちされたので、要は甘えているのだろう。神様仏様は俗世に交わらないから、あれが世間の夫の甘えなのだということをしらない。困らされておるならすぐに言うのやぞ、人の子を娶って粋がったはるんや、わいらはあんたの味方やで、と大層まろやかな京言葉で口々に言われたのを思い出す。本当は私が愛されているのではなくて、彼自身の人徳、いや神徳なのだろうけど、理由もなく嬉しかったので曖昧に笑っておいた。好きなものが肯定されるのはいつだって嬉しいものだ。
出掛けに悔恨と共に謝罪してきたのは可愛かった。と言ったらまた雨が降るだろうか。私も大概、夫のことがまだまだ好きなようである。
本屋には後で行くことにして、先に行きつけの和菓子屋へ入ったのは完全に思いつきだった。もしかしたら私が知らないだけで、大いなる力のような何か、に突き動かされたのかもしれないが、知ったことではない。案の定席は混み合っていた。秋の京都は何処も大概こんなものだ。秋とはいえ、まだ紅葉も始まっていないのに御足労なことだ、と思う。程なくして運ばれてきた濃い緑の器に黒く浮かび上がる鉤の紋は、江戸に遡る老舗の自負を感じさせる。勿論味は折り紙付き。京都で、いや日本中探してもこれほどの葛切はそうない。
ぱき、と湿気に反して気味の良い音を立てながら箸が割れる。半透明の麺を掬いあげたところで、聞き覚えのある声がした。
「おや、なんだ。誰かと思えば嫁殿じゃないか」
昨日もこんな声をこのあたりで聴いたような気がした。嫁殿、と私を呼ぶのはそう多くもない。絶対関係者だ、と思いながら顔を上げる。狐面。げっ、昨日の当人じゃないの。
「あら、先生。奇遇ですね」
「またここの葛切を食べているのか。君も好きだな」
「先生こそ。今日はお一人じゃないんですね」
一人だと流石に他人の振りをして相席を断るが、あちらにもお客様がいらっしゃるのなら徒に恥をかかせるのも良くない。私が促すと、その女性は控えめにも迷っていたようだったが、先生に椅子を引かれて漸く座ってみせた。あの狐様が気に入るにしては随分と謙虚なお嬢さんだ。これは早急に夫に報告しなくては。
注文を終えると彼女は私と先生の関係を測りかねるのか、頻りに視線を寄越した。まあ、気にはなるだろうな。見たところ、まだ縁付いてはいないようだけど、少なからず憎からず想っているようだし。ここは率先して身分を明かしていった方が得策と思えた。
「はじめまして、春海と言います」
フルネーム風にするなら龍神春海、ではあるのだが、りゅうじん、という単語は固有名詞のように読むとイントネーションが気持ち悪いのであまり気に入らない。なので意図的に端折った。こういう時に名前でも苗字でも通用する音は有り難い。
「雨森明子です」
謙虚で控えめで、しかし……手際の良さというか、歯切れの良さというか、初対面の人間に好感を与える振る舞いをする人だな、と思った。意外にも先生はこうした女性がお嫌いではないらしい。てっきり人間には興味のない、夫のような人外を埒外の者と見ているのかと思っていたから、当然意外だったし、自分自身驚くほどに親近感を持った。きっとこの女性は未だ何も知らされておらず、連れられるがままに彼と行動を共にしているのだろうが、覚えておくといい、神の路線変更は驚くほど突然である。気まぐれ、などという生易しいものではない。
私は場を繋ごうと名刺を差し出した。当然、既婚者であることもそこで告げたわけだが、龍神という単語を不思議そうになぞる明子さんの反応が気になった。
「どうかしたのか?」
「あ、いえ。なんだか昨日から龍に縁があるな、と思って。ほら、昨日のお話とか」
「龍?」
全力で嫌な予感がする。そっと視線を走らせると、無駄に堂々と先生が応えた。
「ああ、この古都で降る雨は、大抵は龍が降らせているという話をしてね」
やっぱりかこの古狐。
「先生、人が悪いですよ」
「昨日、電話を切られてしまったからね。仕返しだ」
「どうして貴方たちは、そう変なところで子供っぽいのかしら」
「人間の基準がよく分からないんだ」
人の基準に染まりすぎて子供っぽい奴もいるにはいるのよ、と言おうとしたが、黙っていた。ここで夫の稚気を露わにしたらそれこそ先生の思うつぼではないか。それでなくとも来月には出雲行きが迫っている。そんな美味しい酒の肴が看過されるはずがない。そしてまた都に雨が降る。季節を考えれば、下手をしたら雪でも降らされかねない。
口の中で黒蜜と程よく蕩け合う葛切を咀嚼する。漆黒の器に揺れる大きな氷は、そのへんの製氷機では為し得ない透明度と大きさだ。こういう霙も降らせようと思えば、出来る気がする。それしか能がない、は、言い換えればその分野であれば何でもできる、に近い。
録画予約を失敗して大雨を降らせたなんて失態は、それこそ墓までもっていかなければ。今のところ死ぬ予定はないけれど。
そうこうしていると急に電話が鳴った。鳴るはずのない番号からかかってきている。大体こういう時はろくでもない用事なのだ。無意識にうんざりした表情が顔に出てしまう。
「お気になさらず」
「すみません」
私は携帯を持って席を立った。そのまま店の前へ小走りで出ながら回線を繋ぐ。
『遊んでるところに済まん』
「遊んでるんだからいいわよ。どうしたの」
『来客の予定が入った。もう近所まで来てるとか言われて……申し訳ない、名刺ファイル、家に置いてきちまった』
「ええ。家の鍵持ってないの」
『照れくさくてすぐさま出てったから……』
「ああ……」
やはり慣れないことはするものではない。私は電話をしながら時計を見た。この分では帰宅も遅れることだろう。こういうことは誰を責められる、といった性質のものではない。朝のことには半分私も責任あるしね! 馬鹿みたいだ。これも墓への持ち込み案件だろう。
「わかった。届けに行けばいいのね」
『すまん。ほんっとうにすまん』
「買い物には付き合ってくれるんでしょう」
『どこへでも』
店の前は晴れ間が広がっている。アスファルトを照らして眩しいほどの良い天気。予想外なトラブルに不機嫌なはずなのに、この晴れやかさは一体何なんだ。それについても、顔を見たらツッコミを入れることにしよう。そう思いながら私もまた、晴れ間の太陽のようにニコニコと笑ってしまっていた。似た者同士なのだ。いや、ここまで似てきてしまっては、もはや取り付く島もないのかもしれない。
葛切はあと一掬い、二掬いくらい残っていたが、仕事の用件とあれば急いだほうが良いだろう。タクシーを捕まえれば存外家までは早く着く。伝票を掴みながら、「呼び出しがきてしまったので、今日はこれで……」と、弱弱しく申し訳なさそうに言うと、明子さんは心配そうな顔をしてくださる。もっと話していたかった。それは唯一、心残りかもしれない。
「やはり夫殿だったか。仲睦まじいことだ」
先生は大体色々と把握しておられるので訳知り顔で煽ってくる。いや、たとえこの人が相手でも事情は告げるわけにいかない。というかこの人にこそ言ったら終わりだ。出雲が暴露大会になる。
「バタバタしてしまってごめんなさい。旅行中、何か困ったことがあったら連絡してください」
「ありがとうございます。こちらこそ、お話出来て楽しかったです」
欲をかけば私と同じ状況になってほしい。同じ状況のお友達はひとりもいない。この謙虚で美しい女性が同じような生き方を選んでくれるなら、と一瞬想起し、気が早すぎると自嘲気味に笑うしかなかった。
「私も。また機会があったら是非」
「はい。私も名刺を持ってれば良かったんですけど……なんだか名残惜しいので、あとで着信入れてもいいですか?」
「喜んで。それと、本当に縁があるのは、龍じゃなくて狐だと思いますよ」
うっかり心の中の願望のようなものが漏れ出てしまい、今度は先生に咎め立てるような視線を向けられてしまった。まずい。そそくさと退散しつつ、忘れずに乾菓子も買っていった。
すっかり晴れてしまった四条の通りを往来するタクシーを捕まえる。住所を告げ、急いでほしい旨を伝えるとあとは数分の間、座り心地の良い背凭れに体を預けていればいい。食べ損ねた最後の一口と、謙虚でうつくしい生身の人間の彼女が私の心を占める。はやく、早く会って夫に言いたい、今日のことを全て。いつも揶揄われてばかりの彼が、どう喜々として先生を揶揄うのか、彼女には今度いつ会えるか。取らぬ狸の皮算用ばかりしている私だが、不思議なことに私の勘はよく当たるのだ。まるで夫にはない神通力が使えるかのように。
そう遠くないな。明日当たり天気雨が降ったりして。そんなことを想いながら、うっすらと雲がかかり始めた北西の方角を見遣った。
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