禊の雨

juno/ミノイ ユノ

第1話

 些細な喧嘩をしたからって物にあたる男は最悪だ。自分の力を誇示したいのだろうか、それとも私を脅したいのか。そういう稚拙な真似は本来大嫌いだし、不機嫌だからって知ったことではない。だからなんだ、だからどうなんだと思いながらだんだん私も不機嫌になって、とうとう平手打ちを食らわせて出て行ってしまった。大人げないのだ。要は私が。そして彼が。

 結婚をしてから大げんかをしたのはこれが何度目だろう。叩いて出てきた掌がじんじんと地味に痛くて腹立たしい。バケツをひっくり返したような雨がアスファルトに跳ねる。きっとあと数十分もすれば風が吹いてきて、この街に警報が出ることだろう。ばか、バカバカバカ。ただの夫婦喧嘩なのに、どうして私ひとりに真っすぐ怒れないのよ、この意気地なし。天気さえも左右してしまう強大な怒りを前にして、私は舌打ちをした。聴かん坊の夫は、まるで子供だった。癇癪持ちの子供か。そう毒づきながら暗い空を見上げる。唸るように雷が鳴っていた。そのうち掛かってくるであろう電話を見越して、私は携帯の電源を切った。




 突然だがこの京都、千年の都には龍が棲んでいる。

 それも一匹や二匹ではない。有象無象の龍、龍だから象ではないのだけど、わんさかそのへんをうようよしている。といっても浮遊霊みたいなものではなくて、びっくりすることに人の形をとっているのが大半だ。音楽を聴いていたり、絵を眺めていたり、ひどいものだと八つ橋を貪り食っていたりする。私は地方から大学進学のために出てきたのだけど、1年も住んでいると龍とそうでないものを識別できるようになっていた。勿論京都には龍でない、人でなし……人の姿すら怠惰にも取ろうとしない、不届きな妖しがたくさんいるので、そういったものに比べたら龍の場合は認識しやすい。

 そんな中で偶然目が合ってしまった。そうだ、あれは一目惚れだった、と私の愚かな夫は述懐する。ばかじゃないのかと思いながら、間違いだらけの思い出を訂正するのが私の仕事だ。

「きみがな、俺の方を見てふにゃっと笑うんだ。目が合うだけでも奇跡なのに、更に笑いかけるんだぞ。ああこんなところに嫁御がいたのかと幸せな気持ちになったもんだ」

「笑ってないし、見たのは本当だけど、愛想笑いよきっと」

「そんなはずがあるか。今こうして俺の隣で笑う顔と同じだ」

「今も愛想笑いだもの」

「ひどくないか?」

 愛し合っているとは到底言い難い。と思う。嫁だなどと、初対面で言われて首を傾げない女がいたら見てみたい。ただ一等綺麗だと思ったのは本当だ。心底美味しそうにぜんざいを啜る横顔が綺麗で、なのに独り者のようでこの観光地においてひとりぼっちで、珍しいなと思ったのが最初だ。目が合ったから笑いかけた。赤ちゃんと一緒なのだ、要は。

 なのにその相手は人でなしで(文字通り)、我儘で、人間社会の倫理観みたいなものをまるっと欠いていて、愛だけが重くて、私にありえないほど執心する。面倒くさいと一言で言ってしまえば楽なのだけど、それがこうして人間社会を左右するからあの男は本当に。

 龍神を夫に持ってしまうなど、私もよほど前世の業が深かったに違いない。体のいい生贄じゃないかと詰め寄ると、目を逸らされたからたぶん間違っていない。


「こんな雨降るなんて聞いてないよ!」

「雷鳴ってるし!!」


 道行く女性たちが果敢にも傘を差しながら豪雨の中を進もうとする。私はそれを喫茶店の中から眺めて、あと30分は止まないからおとなしく休憩すればいいのにと思っていた。他人のことだからどうでもいいけど、どれだけあがいてもこの急な雨には時間くらいしか対処できない。物に当たり散らす男は最悪だ。しかしこの天候を左右するのは、怒りからそうなっているのだから半分無意識と言うか、花粉症の人間がくしゃみをするようなものではあるのだけど、花粉症の免疫反応と違って怒りはある程度自分で制御できるものなのだからもう少し温和になってほしい。私と喧嘩したくらいで癇癪を起して雨を降らすな、と毎回言ってるんだけど。

 そうこうしていると、再起動したばかりの携帯電話が鳴った。夫かと思ったが、別の神様だった。神様は最近携帯依存が激しい。

「もしもし」

『この降り方はどうせ君の夫殿だろう』

「切りますね」

『待て。詰っているわけじゃない』

「でも今近くに居ませんよ。喧嘩して出てきちゃったから」

『またそういう……君も堪え性がないな』

「夫婦喧嘩の仲裁なんて犬も食いませんよ。先生もほどほどに、では」

 先生と呼ぶのは揶揄のようなものだが、実際賢く長寿の、そして都の南東部を守る狐の神なのだからそう呼んでも嘘ではないと思う。嘘ではないが、本人は全く嬉しそうな顔をしない。まあそれはそうだろうな。だって夫の方が年嵩なのに、その嫁に先生などと呼ばれては。

 私と夫が喧嘩をするたび、京都の町はひどい雨に見舞われる。荒れ狂い、川は氾濫しそうになり、色んな穢れが禊を終えた後のようにきれいさっぱり流されてしまうのだ。それを揶揄して夫は自分で「掃除屋」と名乗っているし、実際人間社会で溶け込むために清掃業者としての看板を出している。龍神にして社長。そして私は人間にして社長夫人である。食っていけるほどまじめにやってはいないので、私の定職は別にあるけど。

 電話を切ってすぐ夫に電話をした。彼は3コール目で律儀に出た。

『いまどこにいるんだ』

「花見小路」

『は? 四条まで行ったのか、この雨の中を』

「迎えに来て。角の喫茶店にいるから」

『あ、ちょ……』

 私だって機嫌が悪い。あんただけじゃないわよ、バカバカバカ。そう内心で毒づきながら、すっかり冷めてしまったウィンナーコーヒーを口に含む。

 人前なら暴力に訴えることもない、私が。人前なら物騒な脅し文句を口にしない、彼が。

 だからいつも仲直りは外でする。そうして手を繋いで家に帰る。京都市民全員に謝らなければならない。この盛大でくだらない夫婦喧嘩に巻き込んでしまうことを。

 でもそうしてガス抜きをしないと私たちは正面切って愛情をぶつけ合うことも出来ないのだ。


 夫は思ったよりも早く来た。地下鉄は天候状態に左右されないとはいえ、2杯目のコーヒーを飲んでいるうちに来るとは思わなくて、そっと向かいに座るように促した。雨足はだいぶ弱まっている。というか、ほぼ小雨にまで落ち着いていて、機嫌直りすぎだろうと思うとちょっと笑ってしまった。

「濡れた」

「タオル使う?」

「きみが迎えにこいっていうから……ああ、すみませんヴェネツィアンコーヒーを」

 正面から見るとやはり、やはりと言ってはなんだけど、顔は好み。というか人外の美しさだ。ただ人でないもの特有の紛れ方でひとには深い印象を与えないと言うだけで、だから街中をふらふら歩けるのだろう。神と名の付くものはだいたいこうだ。腹立たしいくらい美しくて、傲慢で、我儘で、癇癪持ちで……それなのに私に執心して、なりふり構わずこんなところまで迎えに来る。愛してくれる、という基準で言うなら、人間の男など遠く及ばない。

 だから結局、私の選択は間違ってなかったと思うところでいつも喧嘩が終わる。喧嘩が終わると、雨が止む。

「でも来てくれたじゃない」

「そうだな」

「文句言いながら」

「嫁が来いって言うなら地の果てまででも行くのが夫だよ」

「……重いわよね、本当に」

「許せ。人間の色恋の基準はまだわからないんだ。これでもかなり勉強してるんだぞ、ドラマとか」

「ドラマに描かれる男性像は女にとって都合のいい男性像だから鵜呑みにしちゃダメだってずっと言ってるのに」

 滑らかに言葉が回る。きっとこれが心を許している証拠で、私にとっても幸せなことであると言う証明だ。彼はコーヒーが運ばれてくるまで冷にひっきりなしに口をつけている。視線が泳ぐ。恥じらうように私から視線を剥がす。それが面白い。

「先生から電話かかってきた。喧嘩するなって怒られたわ」

「なるほどな。あいつも堪え性がないなあ」

「ねえあなた」

「なんだ?」

「もう怒ってない? 雨、止んだけど」

 摩るようにビンタした頬に手を延ばすと、まだ痛いと笑われた。なので軽く抓っておく。

「いてて……きみ、本当に嗜虐癖が過ぎるんじゃないか……」

「本当に怒ってないみたいね。私もごめんなさい、甘えちゃってたわ」

「いいよ。俺の方がどう考えても馬鹿だった。きみに甘えられるのは悪くないから、反省はしなくていい」

「あなたがバカなのは知ってたけど、馬鹿に馬鹿って言うのはやめるわ」

「だからひどくないか? 照れ隠しにしたってもうちょっと……いてててだから抓るなと」

 龍の妻は忙しい。ツッコミをし、軌道を修正し、謝るところは謝って、前の瞬間よりも少しだけたくさん愛情を注ぐ。龍の機嫌を損ねると雨が降り、町が水浸しになり、その後私に少しだけ優しくなる。私もまたそうだ。雨は禊なのだ。怒りを押し流し、感情をリセットし、綺麗になって更に深く、想いを伝えるための。

 運ばれてきたコーヒーに一口、口をつける。目が合う。愛想笑いを向けるとまたそれか、と笑われた。この瞬間極上の笑顔が向けられていることを、知っているのは私だけでいい。



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