アネモネの囚人

楡野なの

アネモネの囚人



 「食事は朝晩二回だ。それ以外の時間は雑務をこなしてもらう」

掃除、洗濯、週に二回の外出可休養。ああ、お前の監獄はここだな。

 先を歩く看守の足が止まる。長い槍の先に繋がれた銀色の鎖の先は、俺の手首に巻かれている。

ゆっくりと顔を上げると、頑丈そうな鉄の柵が、茶色い土でできた床と天井を貫いていた。

看守は、柵に取り付けられた南京錠を開けると、首の動きだけで俺を中へ促した。

従って中に入ると、がちゃん、と鍵が再び閉じられる。

「じゃ、時間になるまで静かにしてろ」

俺は、両手に掛けられた手錠から目を離さずに頷いた。

「ああそうだ、鍵を壊すとか変なことでもしてみろ、そこの窓から人喰い犬が飛び込んでくるからな」

ガハハ、と笑いながら看守は去っていった。鎧どうしが当たる、ガシャガシャという音が遠ざかる。俺は力なく床にどすんと座り込んだ。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

そんなつもりじゃなかった。罪を犯すつもりはなかったのに。俺のとった行動の結果は、監獄行きだった。

 壁に背をつけ、天井を見上げた。すぐ上の壁は四角くくり抜かれ、外の風と日差しが入り込むようになっていた。ざわざわと、風に草木が揺れる音が聞こえる。


 ここは絶海の孤島につくられた、男たちだけの監獄だ。

 ここに辿り着くまでの道は、囚人の誰にも知られないよう、目隠しをされ、手錠をつけられた状態で船で運ばれる。この地に降り立った時は、リゾート地にでもなりそうな、随分綺麗な島だと思ったが、白い砂浜と透き通った海に、冷たく荘厳な石の壁が立ちはだかるその光景は、酷く不釣り合いなものだった。刑務所は、切り立った崖の上に建っており、誰の侵入も、逃走も許さない、絶対要塞だった。

 「おい、時間だ」

いつの間にかぼーっとしてしまっていたようで、外はすっかり暗くなっていた。呼びに来た看守の顔もよく見えない。開かれた鍵の音を頼りに、牢屋の外に出た。

 ひたひた、と音を立てながら、濡れた土の廊下を歩く。

「なあ」

「なんだ」

俺より一回りほど小さい看守が、歩みを止めずにこちらを振り返る。

「ここには何人くらい、いるんだ」

「そうだなあ、だいたい百五十人くらいだな」

なんでそんなこと聞くんだ、という問いには答えなかった。俺みたいなのが百五十人、この石の壁に囚われているのか。想像するだけで気が滅入る。

 食堂では既に、俺と同じボロ雑巾のような服を着た囚人たちが数人、黙々と食事を取っていた。何かを焼いているような、香ばしい匂いがする。

「食い終わったら呼べ。掃除だ」

看守はそう言うと、長い槍を突きながら出ていった。振り返った動きで、腰に取り付けられた鍵が落ちる。

「おい、鍵、落ちたぞ」

俺は拾おうとはせず、ただ声をかけた。看守は、おお、すまんすまん、と笑いながらそれを拾った。

食事はたいして美味くなかった。


 看守に案内された場所は、食堂よりもっと奥にある、外に繋がる通路だった。重い鉄の扉を開けると階段が続いており、正面から月の光が真っ直ぐに差し込んでいた。眼下には一面に広がる花畑。紫色の小さな花びらがひらひらと舞っていた。

「お前、恵まれてるぞ。明るい場所の掃除なんて滅多に任されないからな」

看守が俺の肩をポン、と叩いた。しっかりとして、肉付きのいい手のひらだった。

 渡された箒を手にすると、看守は中へ入っていった。意外と放任主義だ。

 それもそうか、と勝手に納得した。ここは絶海の孤島。の、監獄。逃げようにも、手段も道もない。ただ過ぎていく時間とともに波に揺られながら、絶望するだけだ。

 塵を集め終わり、立ち上がる。階段に俺の影が映った。月の光がこんなに明るいものだったことも、今まで知らなかった。

 ふと風が強くなったような気がし、振り向くと、小さな花びらと共に、白い帽子がふわりと宙を舞っていた。囚人たちが被るようなものでは無いと、一瞬で分かった。

 俺は階段を駆け下り、勢いをつけて飛んだ。広いつばを折らないように掴み、花畑へ着地する。

咄嗟に捕まえたは良いものの、これは誰のだろう。砂浜よりも白く、滑らかで柔らかい素材の女優帽。花畑とのコントラストが美しい。

 「あの…」

 鈴の鳴るような声がした。驚いて顔を上げる。

そこには、帽子と同じ色をしたワンピースを着た少女が一人、少し怯えたような顔でこちらを見ていた。その視線は帽子に落ちていた。

「帽子、ありがとうございます」

成程、真っ白な帽子がよく似合いそうな少女だ。俺にはあまり直視できず、ぶっきらぼうに渡してしまった。

「気をつけろ」

「すみません。お優しいですね」

話してはいけない、と思った。俺と彼女では、きっと身分が違いすぎる。

「たまたまだ」

わざと突き放すように返した。会話が終わって、何も無かったかのように去って欲しかった。

そう思っていた癖に、俺の弱い心は、俺を止めることが出来なかった。

「なんでこんなところにいるんだ」

え、と彼女は顔を上げた。透き通るような、美しい青色の瞳だった。

「ここがどんな場所か、わかっていないのか」

彼女は、ああ、と微笑んだ。その顔には少しの寂しさが宿っているような気がした。

「ここに住んでるんです」

「住んでる?どうして」

「この島、刑務所が出来る前は、一つの集落だったんです」

 彼女は語る。当時はおよそ百人がここで暮らしており、みんな親戚のように仲が良かったという。そして、今では彼女と、彼女の祖母しか残っていない、ということも。

「普段は、島の隅にあるおばあちゃんの家にいます。でもたまに、外に出たくなっちゃって」

ほら、ここって月が綺麗に見えるでしょう?

彼女が差した指の先に浮かぶ月は、確かに、白く輝いていて綺麗だった。

「季節ごとに咲く花も変わるんですよ」

足元に広がる紫色の絨毯も、今しか見れないという。

 俺は時間を忘れて、彼女との会話に浸ってしまっていた。

 「この花は、なんというんだ」

花に興味を示したことなんて今まで無かった。彼女の話題になるこの花が、少しだけ憎らしく思えてしまったから。

「これは、アネモネです」

彼女はそう言うとその場にしゃがみ、ぷつんとひとつ摘んでみせた。薄い紫色の、小さな花びら。

「可愛いですよね。儚くて、優しい紫色」

 突然、風が強く吹いた。彼女の、あ、という声と共に、一輪のアネモネは空へ飛ばされていった。

 もう時間だ、と言われたような気がした。

 それは彼女も同じだったようで、ゆっくりと立ち上がると、こちらに礼をして去っていった。

瞬き程の、幻のような時だった。


 それから幾度か、彼女は月を眺めにここを訪れていた。看守の言っていた通り、外の掃除は珍しいようで、俺と彼女があの場所で会えるのは月に一度だけ。満月の夜の密会だった。

 彼女は、監獄の中から出られない俺に、色々な話を聞かせてくれた。

「雲のない夜は、ここからたくさんの星が見えるんです」

「今日のお昼、おばあちゃんがブリオッシュを焼いてくれたんです。それがすっごく美味しくて」

「たまに、潮を吹いてるクジラが現れるんですよ。知ってます?」

クジラって、こーんなに大きいんですよ!

 両手をいっぱいに広げ、楽しそうに笑う彼女の隣に、どうやったらずっと居れるのかと、考えるようになってしまっていた。

 叶わない恋とはわかっていた。けれど心の何処かに、諦めきれない自分がいることにも、気付いていた。

 「なあ」

自分から声をかけることも増えていった、ある夜のこと。彼女の隣に並んで月を見上げる。

「俺、あと半年で出獄が許されるんだ」

俺の懲役は一年だった。時の流れは早く、彼女と出会ってからもう半年が過ぎていた。

「そうなんですね!おめでとうございます」

彼女は小さく拍手をする。そういえば、未だに名前も、歳も知らないままだ。

「半年経ったら、ここを出ていかなくちゃいけない」

その前に、伝えたかった。たとえ実らなくても、後悔はしたくないから。

「だから、」

「じゃあ、来年の五月」

俺の言葉を制した、凛とした声。彼女はあの時と同じ、寂しげな笑顔で言った。


「…アネモネが咲く頃に、迎えに来てくれますか?」


 信じられなかった。身分違いの恋だというのに。しかし、その言葉が嘘ではないということを、彼女の赤らんだ頬が物語っていた。

「…俺を、待っててくれるのか」

顔に熱が集まっていくのを感じ、勘づかれたくなくて顔を背けた。

「はい、もちろん」

背後で聞こえた嬉しそうな声につられ、吹き出して笑ってしまった。

その日を境に、彼女は俺の前から姿を消した。


 あの約束から、半年が経とうとしている。あれから俺は一日も怠けることなく働き、予定通りに五月、出獄が決まった。情に厚いあの看守は、俺の肩をばしばしと叩いて涙を流していた。

「元気でなあ、よく頑張ったよ」

「お前もな。今までありがとう」

これ以上言うと、看守が本気で泣き出しそうなので、最後の日にとっておこう、と思った。いつの間にかこの場所は、俺の居場所になっていたようだ。

 そして、その居心地の良さは、彼女という存在と切り離せない。

 俺は、彼女を信じ続けていた。

 もちろん、寂しくなかったとは言いきれない。不安になる夜もあった。だが、きっと彼女にも事情があるのだろう。今は会えなくても、ここから出ればどこへだって行ける。そう思えば、辛い労働も乗り越えられた。

 やがて、アネモネの蕾が顔を出し始めた。俺もここを出発する準備を整え、島外に出るための資金も手渡された。彼女は、一緒に来てくれるだろうか。

 出獄前日の夜、ふと外を眺めると、数輪のアネモネが花開いていた。明日、俺がここを出る頃には、満開のアネモネが見られるだろう。待ちに待った、再会の日だ。出獄することよりも、彼女に会えることの方が楽しみだった。

 そして、翌日。

 朝起きて、いつも通り看守に連れられ食堂に行くと、そこには仲のいい囚人たちが一堂に会し、俺の出獄を祝ってくれていた。食事もいつもより豪華で、心做しか、とても美味しく感じられた。

 囚人だと分からないように髪を整え、髭を剃り、服を着替える。パリッとした白いシャツは、俺には窮屈でなんだか着心地が悪かった。

 外は心地いい春の陽気に包まれていた。

 階段を降りた先で、彼女は、いつもの場所に立っていた。

「…待たせたな」

ゆっくりと近づき、後ろから声をかける。彼女は、ふふ、と笑い、あの凛とした声で言った。

「まるで、スーパーヒーローみたいですね」

彼女は振り返って、笑う。一点の曇りもない青空が広がっていた。


 街には、船で移動すると聞かされていた。崖下の海岸には既に小さな船が停められているが、肝心の船頭がいない。出獄許可証代わりのチケットを片手に、船頭を待つ。

 「出発まで、どれくらいかかりそうですか?」

「一時間くらいは余裕があるそうだ」

「なら、ちょっとお話していきません?」

ここに座ってください、と、彼女は崖の先端へ俺を誘う。

「危ないぞ」

「大丈夫です、お気に入りの場所なので」

そう言うと彼女は、特に怖がる様子もなく座って見せた。細くて白い足が宙ぶらりんに浮いている。俺も彼女にならい、隣に腰かけた。

 目の前に広がる海は、遠い水平線で空とぶつかっていた。境目が微かに揺れている。

「すみません、勝手にいなくなっちゃって」

「元気だったか」

「はい、ちょっと寂しかったですけど」

照れたように俯く。久しぶりの感覚に、初対面かのような気持ちになる。

「これからは、ずっと一緒だ」

「…はい。嬉しいです」

確かな幸せが、約束されたような気がした。

 「…こんな私と話してくれて、ありがとうございました」

「それはこっちの台詞だ」

「あなたと一緒に見た月は、今までで一番綺麗でした」

ここでの思い出を振り返っているのだろうか。ぽつぽつと彼女から言葉が溢れ出す。

 生まれ育った島なのだから、離れ難いに違いない。

「覚えていますか?風で飛んでいった帽子を捕まえてくれたこと」

「ああ、忘れないさ」

「摘んだアネモネが飛ばされていった時、帰らなくちゃ、と思いました。これ以上話したら、だめだと思って」

「俺と同じことを考えていたのか」

「でも、会話を重ねていくにつれ、あなたのことを好きになっている自分がいる、と気付き始めたんです」

いつになく流暢に話す彼女。直接好意を告げられたことはなかったため、少しだけ照れる。

「あなたとの日々は、幸せそのものでした」

「こちらこそ」

 少しの沈黙のあと、彼女は呟く。


 「…許してください。私はあなたを、いつまでも忘れません」

 彼女の様子がおかしいと気付くのが、少しだけ遅かった。

「おい、どうし」

「さようなら。…愛しています」

彼女はそう言うと、俺のシャツの襟をぐっと掴み、



そのまま海へと放り投げた。



 急転直下。みるみるうちに速度を上げ、俺の体は海へ向かって直進、落下する。

一体何が起きているのか、嫌に冷静な頭で考えても見当もつかない。

 耐えきれないほどの重力を受け、俺の意識は遠のいていく。消えかけの蝋燭のように揺らめく視界の中で、こちらに手を振る彼女の顔だけが、はっきりと捉えられた。



 何故、君は今、笑っている?


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