5.豪華な地獄、金にならない天国
こどもはグズりながらプリントを埋めている。
妻の話によると、俺が帰ってくる時刻になっても勉強が終わってない時にだけ、こんな風になるという。暗記科目をグズりながらやって意味あるのか?
と思いつつ、机の横に座りながら監督する。あと2ページだ。あとちょっとだ。でもあとちょっとが長いんだよな。大丈夫、一問一問解答欄を埋めていこう。
泣きながらごはんを食べたり、泣きながら勉強しているのを見ていると、こどもが俺たちを捨てない根拠について考えてしまう。
こどもは一人では生きていけない。第一に金がない。第二に金を稼ぐ手段もない。親権について調べてみたら、民法の818条に「親権に服する子は成年に達しない子である」とあった。
さらに調べると戦前の民法では「独立ノ生計ヲ立ツル成年者」以外の者は父の親権に服するとあった。なるほど。
では子の側から親をクビにできる仕組みはないのかと思ったら、2011年に親権の停止措置について法改正があって、こどもから親権の停止審判の請求ができるようになったと書いてあった。とは言え、ほとんどのこどもは民法なんか知らないので大人にいいようにやられてしまうのだ。
親権の停止を訴え出たら、今までの家に住めなくなって、未成年後見人という親代わりを探す必要があるのが日本のルールなのだ。なるほど。
で、親権とは何かと調べると親権とは監護権である、とある。いきなり言葉の言い換えが出てきたことに嫌な予感を感じつつ調べると、監護権とは懲戒権、職業許可権、身分上の行為の代行権、居所指定権を含むとある。含むということは、それ以外にも何かあるのか。ともあれまた言い換えである。
言い換えられた5つの権利の概要が目に入るだけでクラクラしてきたので、そこで調べるのを辞めた。懲戒権があるから親が子どもを叩くことは合法かまたはグレー……なるほど。
こどもの勉強を見る時、手を見てるとイライラするが、顔を見ているとイライラしない、という話を聞いたことがある。何かを考えているのがわかるからだと。
では問題を解いてる最中に鉛筆から手を離して手遊びする場合は?
体を掻き始めたり、爪と指の間をほじくったり、机の木目を気にしていじりはじめた時は?
あと一問解いたら食事にしようという時にそうなって、料理がどんどん冷めていく時は?
俺は正解を知らない。その時その時の試行錯誤しかない。その場がうまくいったとしても、受験が終わったあとに通う学校ではどうだろう? 金を払ってるから先生は辛抱強くやってくれるだろうか? ほかの生徒も金を払っているから、俺のこどもを排除することにもスジが通ってしまう。結局は先生の人柄次第だろう。分が悪い賭けだな、と思う。
俺も妻も途方に暮れている。
俺のこどもには特性があって、落ち着いて座って黙っていることがなかなかできない。一歳半の検診で引っかかって、その時の診断は自閉症で一生喋ることができないかもと言われていたので、落ち着きがないことなんて、全然へっちゃらで贅沢な悩みなのだ。……中学受験をしようと思わなければ。
で、ウチが中学受験をする理由は、中学で忘れ物や授業態度などの内申点で削られると、高校進学が危うくなると思っているからなのだ。
将来の不安を埋め合わせるために、今こうして無理強いする弊害はたくさん出ている。
親が見てないうちにプリントの答えを写して終わらせてしまうのとか、親がどちらも居ない日は塾があってもサボっちゃうとか。
学校には行かなくなった。疫病が流行したせいで特例が出ていて、一瞬だけでも登校すれば出席としてカウントされるようになったので、朝起きてゲームした後はずっと家で勉強。帰りの会だけ参加して登校完了、また帰って勉強という生活を送っている。
こんなに受験に特化していいのかと思いつつ、学校で傷ついて帰ってくるよりはマシかもという中途半端な状態。
学校からは疫病をめちゃくちゃ怖がってる家族と思われている。
でも俺は電車に乗って出社している。会社がそれを望むので。
一貫した行動の説明はできない。
こどもには家以外の居場所が必要だと思う。学校がそうなったらいいなと思っていたがもう諦めることにした。
塾が日曜日に、ブラタモリのように街歩きしながら歴史の舞台を解説するという、素晴らしい社会学習をしてくれるハズだったのだが、疫病でオンライン学習のみになった。ので塾は辞めた。
塾の代わりに動画授業を受講している。その選択は間違っていないと思う。俺も動画の社会の先生の授業は好きだ。社会の先生のマネをしてふざけたりとかもする。
そうこうしてるウチに、こどもがYoutubeを見る時間が増えた。こどもが見た動画を見ると、ゲーム実況者が複数の友だちと騒ぎながらゲームをしている動画だった。
「これ見てるとホントの友だちと遊んでるような気がしてくる」のだそうだ。
俺はどうしていいかわからなくなった。
無力感が俺を支配している。俺が飯を食って遊んでつまらない仕事をして金をもらうことで、後の世代にどんな悪影響があるのか、それがうっすらとわからないわけじゃないのだ。今の社会に貢献することは、今の社会の存続に手を貸すことで。
今の社会が薄っぺらで公正さを欠き、存続させるだけの価値を感じないものだったら?
自分の取り分を大きくするゲームに邁進しているやつは考えることがシンプルで済むと思う。
でも俺には無理だ。
で、なんとか生きて行けてるけど毎日幸せだよ、と素朴に言うことももうできない。つまらない仕事をして家に帰って、子どもに無理強いして勉強させる毎日を送ってて、それはそれで楽しい消費生活、なんて言えるほど俺は恥知らずじゃない。
土日も勉強の監督と、部屋の掃除で終わる。
中学受験は不安ビジネスなんじゃないのかという疑念が離れないまま、ひとまず、とりあえず、タイムリミットがあるから、と勉強をさせている。勉強だけをさせている生活なので、こどもも俺も不安は増す一方だ。
俺は元親友に合わせる顔がない。
毎日大変だけど楽しい、と目を見て言える自信はない。
夜、家を出て、こどもからリクエストのあったコーンポタージュを買いに行く。コンビニまでは公園を抜けた方が近い。
アメリカで陰謀論が流行った。
流行っただけで終わらなく、大統領選挙の結果を不正だと言ったり、実際に訴訟を起こしたりもしていて、ついには議会を暴徒が遊び半分で占拠するようなことが起きた。アメリカ大統領選挙に関しては、日本でも馬鹿なデマを平気で撒き散らしているヤツが色々なところで見られた。俺自身はトランプは、トランプ以前から起きていた問題を、皆の前に可視化しただけなんだろうなと思っている。
それは経済的な格差や、産業構造の問題が背後にあるように見えるが、もっと本質は「俺たちとあいつら」のようなコミュニケーションスタイルの問題が表面化したのだろうと思っている。
敵と味方に分けたコミュニケーション。敵の言うことは全てフェイクと断定する。これはインターネットだけに限った話じゃない。たとえば、今歩いている公園でも似たことは起き続けている。1993年の都市公園法の改正から変化が起きたのだと専門家は言う。俺の実感としてもそう感じる。都市公園法が改正されると、公園は児童のものからみんなのものへと変わった。その法律で何が変わったかと言うと、公園の遊具で危険があるものはどんどん撤去されていった。ボールを使った遊びも禁止。他人のせいで損失を被る可能性が最小化されていく。なぜなら他人は隣人ではなく風景と同等だから。
時々風景には金を払ってサービスしてもらう。
客と店員。俺と風景。
金を間に立たせた円滑なコミュニケーション。
金がないと何もできないけど、その代わり風景から何かされることもない。
地域やコミュニティなんてない。
俺と金。金と客。金と店員。
便利で面倒がなくなって快適になって、それが当たり前になって孤立した。
そのツケが暴徒の議会占拠や、地球平面説を信じるようなアホの増加なのか。
俺自身が被ったツケは、金が無くなることを恐れて、無意味な繰り返しの仕事を続ける日々なのか。
疲れた。
俺はアホと関わりたくない。俺は意味を感じられない繰り返しを辞めたいと言いたい。
こんなにツケがデカくなるなんて思ってなかったんだ。誰か助けてくれ。
俺は物事の辛い部分、都合の悪い部分にばかり目が行くのだと、そういう風に思うこともある。コンビニからの帰り、公園のインターロッキングブロックを歩きながら俺は思う。インターロッキングブロックはブロックとブロックの噛み合わせに砂を挟んでかみ合わせたブロックだ。平らで歩きやすく、雨が降った時には砂の部分から水が抜けるので、水浸しにもならない。排水溝の蓋、グレーチングは網目が細かくなって、ベビーカーのタイヤなんかが溝に落ちないように改良されている。こういうモノを作る仕事だったら俺は悩まずに済んだか?
俺の言ってることは、こういう、気付きづらい優しさを全部無視して世界は暗黒だと言ってるようなものなのだろうか。
ある意味そうだ。
俺が見つめる暗黒にとって、優しさは都合が悪い。おはなしが一貫して繋がらず、わかりづらいものになる。俺が見つめる暗黒は、おはなしに過ぎない。でも、このおはなしには力がある。おはなしが行き詰まったり、どうにもならなくなったりすると、人は発狂したり、死を選んだりさえしてしまう。俺は「俺が見つめる暗黒のおはなし」は好きだが、そのおはなしが俺に心中を強いるようになると、流石に都合が悪い。
だから気をつけよう。
そんな風に都合よく、見つめる世界を切り替えられるものなのか、とは思うが。
都合がいいことだけを書けるブログでは、ゲームを遊んで楽しかったことばかり書いてる。
今時ゲームレビューかよということで、ページビューは増えない。こうなりゃ好きにやろうということで、古いゲームの紹介記事ばかり書いている。
うまく書けた時は楽しい。読み返すと、一緒に遊んだ友だちの顔を思い出す時もある。
ブログの繋がりで出来た友だちを家に呼んだことがある。なんと大人を六人も呼び、俺とこどもを合わせて八人の大所帯だ。で、八人で昼過ぎから夕方までずっとゲーム。あれは楽しかったな。大学の頃を思い出した。
家に行ったり家に招いたり。
疫病の流行った今では、そういうことはなかなか贅沢なことになった。
またあれやりたいよとこどもは言う。俺だってそうだ。
金にならないこういうことだけが、意味があるようにさえ感じる。
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