2.俺の住む街

 頑張りは続かなかった。

 天国の日を過ごした次の日、こどもは約束を破って塾に行かず、家でYouTubeを見ていた。帰宅した俺と目が合うとこどもは言う。

「なんか疲れちゃって……」

 叱らない。

 叱って許す。

 叱ってペナルティを与える。

 ……どれも何度となく試したが、目に見えるような成果が出たことはない。こどもは同じ漢字を間違える。間違えるたびに大袈裟に悔しがってわめく。

「わめいても意味がないし、心を騒がせると覚えにくくなるぞ」と俺は暗記についての専門家のような顔をして言う。

 知能テストの結果、こどもの言語と暗記分野は平均の半分程度の数値だった。その分他が人より優って、結果トントン。向いてない作業だからこそ繰り返して補うしかない。わかっちゃいるが、三十分トレーニングし続けて『足利尊氏』の漢字が書けなかった時には俺も心が折れた。

 折れたらまず寝る。寝て起きたら少しだけマシになる。これはあらゆる時に使えるテクニックだ。俺はたくさん折れてたくさん寝てるうちに、これは虐待だと思うようになった。

 受験の社会科目では「高句麗」を漢字で書かなければバツになる。一方、小学校の国語では「麗」の字は習わないので書いたら△かバツ。狂ってるだろ。

 受験では点数の差別化をするためにこんなことがまかり通る。なので「誰からも文句を言われないやり方」に注力する。「正解は相手や状況によって異なる。今は受験だけ考えて小学校ではバツをもらおう」と教える。

 でも受験勉強では「高句麗」と「後高句麗」と「高麗」の関係は教えないからわからない。それはテストに出ないので。マジか、なんだそれ。

 俺は中学までに習ったことなんてほとんど忘れている。教科書を読めば一度理解したものなのですぐに理解できるが、自在にその知識を使うことはできない。街でマンホールの蓋を見ても東京の下水道が今の形で整備された年を思い出したりしないし、電信柱を見ても、それがいつの計画で建てられたものなのかはわからなかった。それらは大人になってから興味を持って調べてわかったことだ。近代式の下水道は1922年から始まり、戦争で一度中断し、1961年から1978年に下水道普及率は20%から70%まで上がった。ほぼ100%になったのは1995年のことだ。国民的漫画『ちびまる子ちゃん』のコミックスでは、作者さくらももこの少女時代のエッセイが載っているが、それには汲み取り式トイレを恥ずかしがるエピソードが出てくる。さくらももこは1965年静岡生まれ。1970年代に地方においても下水道の整備が進行していたことが伺える。

 興味を持って調べたことは忘れない。それらは有機的に繋がって血肉となり、人格を構成する一部にすらなる。細かい数字は忘れても、調べ方は覚えている。仕事で数字が必要な時は、都度調べて最新の数字を使う。

 詰め込まされたものは忘れてしまう。楽しくないことは忘れてしまうからか。

 子どもの教育には金がかかっている。義務教育で二千万円。これは国が払っている小、中学校の運営予算を生徒の人数で割った金額だという。つまり、学校に行かないこどもは二千万円のサービスを受け取ることができない。義務教育が始まる時にこどもに聞いたらどちらを取るだろう。「これから十五歳まで学校で勉強しますか? それとも二千万円受け取って好きな勉強をしますか?」

 ……考えても仕方のないことだろうか。今の世の中はそうなっていないから考えても仕方のないことなのだろうか。


「学校休みたい」

 毎朝こどもを起こすと言う言葉だ。

「そうだな」

 俺はうなずくと着替えを渡す。

「まずはゲームで遊ぼう」

 朝飯は片手で食べれるものが多い。焼きおにぎりとか焼きもちなど。俺はいい父親ではないのだ。栄養はきっと偏ってる。仕事に使う時間や、こうして文章を書いたり考える時間を削れば、もっと美味くて栄養のある料理を食わせられる。でも俺はそれをやりたくないからやらない。やりたくないことを続けると見返りや成果を求めるようになるからだ。

 こどもとゲームをしながら話をする。対戦では勝ちすぎないようにではなく、リードを広げすぎないように気をつける。これについては持論があって、リードが広がった時点ですぐ勝負を終え、次の勝負へ移行する方がストレスが少ない。なのでリード幅が大きくなりようがないルールで遊ぶ。遊びながら遊び終わる時間を告げる。で、食べながら遊び、終わりの時間が来る。こどもは怒る。

「なんで学校に行かなきゃいけないの?」

 俺は答えられない。

「家で一人で勉強してるのじゃダメなの?」

「ずっとYou Tube見ちゃうからダメだ」

「そんなことしない」

「そんなことを何度かしたので、信じるわけにはいかない。動画は面白いから見張ってる人がいないとやめることは無理だと思うし、見張ってる人を雇うお金はない。わたしが仕事に行かず見張った場合、ウチは破産して今の生活が出来なくなる」

「どうしたらいいの?」

「学校に行ってくれると助かる。実を言うと、休日に勉強させるために、きみを見てるのもツライことなのだ。もっと自分のことや部屋の掃除に時間を使いたい」

「学校に行ったら何が学べるの? 勉強の動画だっていっぱいあるよ。……動画だけで暗記するのは難しいけど」

 俺は答えられない。

 本当に言いたいことは以下の通り。

「学校で集団生活を学べる。集団生活を学ぶというのは、座って先生の話を口を挟まず聞いて、周りがやることに合わせて動くことを学べるということだ。それを22歳まで続けるとリクナビに登録して企業に新入社員として雇ってもらえる。企業では使えないヤツ扱いされながら、先輩の雑用を手伝わされることで仕事を覚える。2、3年すると一人で仕事が回せるようになる。そうなったらその会社で出世を狙ったり、独立して自由に働いたりできる。どうしてこんな仕組みになってるかというと、ナポレオンの時代に国民国家が成立したことから始まっている。国民国家とは要するに素人を徴兵で兵隊にする仕組みのことだ。日本は明治維新の時に富国強兵というスローガンと共にこれを取り入れた。兵隊は隊長の言うことを聞いて乱れず動く方が品質がいい。だからその時代の学校の意義はいい兵隊やいい工場労働者を育てるためのものだった。運動会の行進や卒業式の練習をしてビシッと揃えるのはその名残だ。今は戦争をしていないから経済発展とかそんなスローガンに言い換えて続けてる。学校教育がそんなんだから、企業も兵隊のようなヤツを求めている。いや、求めていた、と言うべきか。時代は変わって歯を食いしばって長時間働くやり方では稼げなくなった。休まず働くやり方では、機械やコンピュータには勝てない。だから働き方を変えなければいけないが、その指示を出す立場の人は今までのやり方を変えることが怖い。今までのやり方では企業全体が沈んでいくことがわかっていても、自分がいるうちには沈みきらないだろうという計算をしているヤツもいる。大学を無事卒業して就活まで頑張ったとしても、上司が無能な判断をしてる会社に入ったら機械と競争するようにコキ使われて終わり。体も心もボロボロになる前に転職することになる。じゃあ伸びる業界は何かというと遊びの業界だと俺は思ってる。コンピュータは遊びを考えられない。なので遊びを思いついたりするチカラをカネに変えるようになることが、生き残って儲けられる唯一の道だと思う。だから学校は面白い授業の動画を見て、先生は生徒と対話する場になればいいと思う。興味があったら付き添って一緒に調べてくれる大人がいる場所になればいいと思う。学校に行けばごはんがあって、安心して眠ることができて、友だちと遊ぶ時にいじめが起きないようにしてくれる大人がいるところになればいいと思う。一人二千万の予算があればできる。でもやろうとするには色んな人を説得しないといけない。それには時間がかかる。だからきみのこども時代には間に合わない。だから現実の俺の選択はというと、こどもにはひとまず新入社員になれる程度の学歴が欲しいと思う。俺が商売を興してこどもに残すことが出来なかったという失敗は置いておくとして、人と違う道を選ばせることが怖いのだ。だから学校に行きながら受験勉強をして、空いたほんの少しの時間で何か好きなことをやれという。学校に行って自分は無力でモノを知らなくて自由に喋ったらダメなやつなんだと小さくなって席に座ってろと言う。俺は普通のヤツだし、それほどひどい親じゃないだろ? わかったか」

 文字にして書くと地獄のようだと思う。

 まだ学校や学歴を盲信している方がマシかもしれない。

 だからこのことはこどもには言えない。言わないことが分別なのか。言うことが分別なのか。わかっていることは言ったことは消えないということだけだ。

 俺の仕事のことを書く。俺は朝九時に家を出て、二十時ごろに家に帰る。仕事中は打ち合わせで決まったことを元にプログラムの設計書を書く。アプリに変更を加えることでユーザから見てどう便利になるのか、運営者にとってどんな利点があるのか、開発者にとってどこをどう変更しなければいけないかをそれぞれの立場に合わせて書く。企画が進んで開発者がプログラムを書いている頃には、テスター向けにテストパターンも書く。同じものについて視点を変えながら何度も書いていると、意味のないことをしている気分になるが、この作業がカネを産むのだから我慢する。俺は心の声を押さえつけて画面に文字を打ち込む。表を書いて○×でパターンごとの動きを表現する。しばらく時間をおいてもう一度チェック。ミスがないか、容易に意味が読み取れるかを確認する。仕上げの工程はいつも緊張する。なので終わると少しほっとする。

 最近会社の時間管理システムが変わり、何にどのくらい時間をかけたかを入力するようになっていてそれにはうんざりしている。会議、同僚のサポート、移動時間、休憩時間など事細かな分類に合わせて時間を入力する。入力はタスク管理システムと結びついているので、ことあるごとにタスク管理システムでチケットを発行しなければならない。時間管理システムに入力するために使う時間を入力する欄まで設けてあるのを見た時、俺は管理者の頭がすでに狂っていることに気づいた。狂っているヤツがまともな施策を打てるはずもないので、早晩管理者は失脚し、この狂ったシステムは撤回されるだろう。なので俺はアクションを起こすことをやめた。

 華々しい職場とは言えないと思う。とは言え給料はいい。仕事の大半が手持ちのスキルで間に合ってるところも悪くない。そんなわけで俺は1日の大半の時間をこのオフィスで過ごす。休日はカレンダー通り。十時出社十九時退社。疫病が流行ってからは電車の時間をズラすために二十分遅刻しているがそれも許可が出ている。疫病の影響で会社が傾いている様子もない。恵まれてるのだと思う。

 それでも時々考えてしまう妄想がある。

 日本人一人当たりの米の年間平均消費量は年間六十キログラム。消費が多かった年で百三十キログラム。一ヶ月の給料で家族四人五年分の米が買えるのだ。では俺はなぜ十三年もこの会社で働いているのだろう。

 首都のハズレにあるマンションの家賃を払うためか? 

 ちょっと物珍しい店にメシを食いに行くためか? 

 ネットで話題の新製品をいち早く買うためか?

 そんなことのために俺は毎日こんなことに時間を使ってる?

 カネを得る手段をキープすることで、さまざまな状況に対応できるようにするため?

 おいおい、疫病が流行ってるのに電車で出社させられておきながら、何に対応してるって言えるんだよ。

 ネットを使って地方の安い家を検索する。ここを買って、一万三千キログラムの米を買えば俺のこの疑問は消えるだろうか。

 わからない。

「具体的なモノが深層心理に影響し、万事うまくいく」そんなこというやつは大抵詐欺師だ。

 具体的なモノには具体的な効果しかないことを俺は知っている。だから俺は思いとどまる。

 大人はもっと世界を良くするために働いていると思ってた。俺は自分でも説明不能な理由で働いていて、そのうちに俺は死ぬ。ホントか? ひとまず十三年は経った。こどもが十一年育つ間、俺はこんなことを続けてしまった。俺とこどもと妻の十三年は豊かに暮らせて、そして大半の時間が死んだ。いいのか。このままで。

 これは単なるミドルエイジクライシスかもしれない。人生の先が見えて、これでいいのかと考えてしまうという、アレだ。俺は特別なやつじゃないのでミドルエイジクライシスにだってなるだろう。俺の悩みはミドルエイジクライシスの要件を満たしていて、ミドルエイジクライシスでないことを証明するだけの科学的根拠はない。だから俺はこの猛烈な焦燥感に蓋をする。で、たまに蓋の中を覗いて考えてしまう。

 考えない方がいいのか。

 考えてるからマシなのか。

 考えても行動しないからより悪いのか。

 俺は決めることができないまま退社時間を迎え、家に帰る。


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