第6話
神社の境内には貧しい蛍光灯の光が落ちていた。その向こうの人影に呼びかける。
「よお」
いたんだな、と僕は続ける。
「人の家に上がっといて――」
若い声が応える。
「『いたんだな』とは、ご挨拶だね」
「さっき来たときは留守だったからさ」
「乙淵さんのところに行ってたんだよ。退屈してるんじゃないかなーと思ったんだがねぇ、なんか、そうでもない感じで」
賽銭箱に腰かけた白髪の少年がニヤニヤと笑う。
黒のTシャツに目に痛いほど赤いジップアップパーカー。色落ちしたリーバイス512。やたらにゴツいデザートブーツ。
神社の主の格好ではない。
「明日はレイちゃんと遊ぶんだーなんて、かなりメロメロしてたけど、レイちゃん、あれってどーいうこと?今も違う女の子連れてるし、久留橋さんにはもう飽きちゃったのかなぁ?」
そう言い、僕の隣に視線を移す。
「初めまして!三澄桜子ちゃんだっけ?うちのレイちゃんが仲良くしてもらってるようで、どーうも」
三澄の身体が強張る。
「どうして――」
「『私の名前知ってるの』って?君、レイちゃんの新しい友達だろ?僕が知らないわけなーいよ」
両手をパーカーのポケットに突っ込んだまま賽銭箱から跳び下り、つかつかと三澄に歩み寄る。
「僕はハクっていうの。よろしくね」
軽やかに右手を差し出す。三澄がおずおずと握手に応じた瞬間、二つの手が激しく上下した。
「きゃっ!」
「ハクっていうとよく、『千と千尋のパクリじゃん』とか怒られんだけど、あれが公開されたのって二○○一年、つまり僕が生まれたのが先なんだよね。いい迷惑だったんだよむしろ、全然ハクじゃないとか言われちゃってさ。『知るか』って話だよねぇ?あっちはあっち、こっちはこっちなんだからさ!」
「ハイそこまで」
ハクの腕を掴んで、三澄から引き離す。三澄は目を白黒させて、まだ握手の姿勢のまま固まっている。
「……あんまりヘンなことするなよ」
「おーっとそうだった!早いとこ話を進めないといけないんだったねえ。こーりゃ失敬」
大仰に肩をすくめ、パーカーのポケットから白い紙を取り出し、僕に突き付ける。
「ん?」
受け取って目を落とす。裏返す。何も書かれていない、ただのメモ紙だ。
「それ、レイちゃんにあげるよ。毎回手帳のページを破くのは、感心しないからねぇ」
夏が来る前にペラペラになっちゃうよ、と笑った。
「はあ?」
「僕の貴重な意見を賜りに来たそうじゃないか?」
「……聞いてたのか」
「聞いてたさー、僕を誰だと思ってんだ?レイちゃんにとってシラトは専門分野かもしれないけど、僕にとっては家なのさ、庭なのさ。知らないことなんて(あんまり)なーいよ」
その通り。
シラトに関して、ハクが知らないことは(あんまり)ない。それは十五年間、こいつの傍に居続けた僕が誰より知っていることだった。
「ニックって犬を捜してんだね?」
「話が早くて助かる。で、ニックはどこにいるんだ?」
白い歯を見せ、ハクは言った。
「分かるでしょー、レイちゃんなら。カンタンだよ。二人があんだけ探し回っても見つかんなかったんだぜ。ニックはもう、この世界にはいないんだよ」
三澄が息を呑む。僕は不意を突かれて言葉を失った。
「お前――」
「いないからと言って、」
面白くてたまらないといったように、僕の顔を覗き込む。
「会えないわけでは、ない――そんなのレイちゃん、僕たちにとっては常識じゃないか」
「……何が言いたいんだよ」
「さーてね?これ以上言っちゃうと、レイちゃんの大事な見せ場である推理パートに食い込んじゃうからねぇ。脇役の僕はそろそろ退散して、自分のおうちに帰るとするよ。ソー・ロング、レイちゃん」
右手を掲げ、ひらひらと振る。それから三澄に視線を投げかける。
「――んじゃまたの機会に」
取って付けたような笑顔を残し、ハクは消えた。
僕も三澄も呆気にとられたまま、三十秒間ほど無言の時間が続いた。
「……変わった、お友達だね」
どうにか、三澄はそれだけを言った。
「忘れてくれ、アイツのことは」
握ったままでいた白い紙に、改めて目を落とす。
ハクの異様さに気を取られてはいけない。そんなのは今に始まったことじゃないし、そもそもまともに答えてくれる期待など、最初からしてはいなかった。
――分かるでしょー、レイちゃんなら。
ハクはそう言った。そして、恥ずかしながら、その言葉で、やっと分かった。
僕なら、分かる。
推理ものとして見た場合、この物語は明らかにインチキだ。なぜか?僕だけが知っている、明示していない情報があるからだ。
つまり、僕なら分かるし、僕以外には分からない。
「……三澄、やっぱり家に帰るのは、もうちょっと待ってくれるかな」
僕は鞄からペンを取り出しながら言った。
「え?」
「あと十分――いや、十五分」
しばらく考えて、言い直した。
「あと……二十分、くらい」
結局テンポの悪さは我慢して、僕たちはいったん表の世界に戻り、それぞれの家に連絡を入れることにした。
僕の方は何の問題もなかったが、やはりというか、三澄の家ではちょっとした騒動が持ち上がりかけていたようで、五分ほどの通話を終えた三澄は、これまでの疲労感を二乗したような顔をしていた。
「……家に帰ったら、追加オーダーがきそう」
「ご愁傷様」
『ニック』と書かれた紙を再利用して、再び白戸神社に参拝する。
目をつむると、一瞬で、あたりに静寂が降りた。
「おんなじことを僕の字の下に書いて」
三澄に差し出した紙にはこんな言葉が記されている。
一日前の世界
三澄はもの問う視線を僕に向けた。
「よーするに」と僕は言った。「僕たちはこれから、タイムスリップをするんだ」
「……タイム、スリップ?」
急にSFかよ、みたいな顔をしている。
「そんなことできるの?」
「できるよ。正確には、一日前の世界そっくりの世界を見に行くんだけどね」
『一日前の世界』はその名の通り、出発地点の一日前の世界を映し出すシラトだ。
「そういうのもあるんだね、シラトって」
「何も幽霊モドキばかりがシラトじゃないからね。ただ、亡くなった人のことを強く想う人が多いってだけで」
「ってことは……それも誰かの想いなの?」
『一日前の世界』という文字を指さす。
「『昨日に戻りたい』とか、そういうことなのかなぁ」
そうだろうね、とできるだけ軽く応える。
「でも、『一日前の世界』に、何しに行くの?」
「ニックに会いに行くのさ。時計を見てごらん」
現在の時刻は午後九時四十分。
ニックがいなくなったのは、昨晩の午後十時前後だったはずだ。
「つまり、昨日の今頃なら、ニックはまだ三澄の家にいるはずなんだ」
そう考えると、すべての辻褄が合う。
なぜニックが家を出たのか、なぜ僕たちがニックを見つけられなかったのか――
僕が説明しているあいだ、三澄は一度も口を挟まなかった。
☆
誰もいない夜の街。
『一日前』の、『ニック』という名のシラト。
僕たちは、ずいぶん長い間何も喋らず、道路の真ん中を並走していた。僕は三澄の心の中で起こっている出来事を想像していた。
「心残りがシラトを作るって、日夏見くん言ったよね」
ふと思い出したように、三澄が口を開いた。
「言ったな」
「たぶんね、そんなにすごい心残りがある訳じゃないの。たとえば、ヴェニスを見ず死んじゃうとか、そういうのとは違う」
「心残りか、それ?」
まるで憑き物が落ちたみたいに、三澄の声は軽かった。ちょうどハクが軽い口調で意味のないことをベラベラ並べ立てていたみたいに、何でもないことを語るように、三澄は話しつづけた。
「ニックがきつそうにしてるのは知っていたからね。もう若くもないし、もともと、そんなに長生きするような犬種じゃないの」
だから、こんな日が近いことは分かっていた。
坂道を駆け下る。地面を滑るような車輪の音が心地よい。
「それでもさ」と三澄は言った。「いざその時が来ちゃうとね」
声のトーンを上げる。
風の音に負けないように、誰より自分自身に、ちゃんとその声が届くように。
「あたりまえで、生きてるものはみんな死んじゃうんだって……そんなことずっと、ずっと前から知ってたのにねっ――」
長い坂道が終わり、僕たちは住宅街に入る。三澄の家はもうすぐだ。もう迷わない。これからはスマートフォンの助けなしで、三澄の家にプリントを届けることができるだろう。
その必要があれば、の話だが。
「……学校ね、休めばよかったって、思った」
しずかに三澄は言葉を続ける。灯りのない家々の姿が後方へと消えてゆく。
「私が学校行ってるときに、死んじゃったから。……そのことが何だか、けっこうショックだったの」
簡易郵便局の前を通り過ぎる。三澄とニックが何度も通ったはずの道だ。
「だって私は、漫画の主人公とかじゃないから。ニックが死んじゃうのに、予感とかなくて。テレパシーが届いて、授業中、トイレ行くふりして早退したりとか、そういうこともなくて」
「ないよ、普通」
「そう、ないの」と三澄は言って笑った。「ふつーに学校行って、ふつーに帰ってきて。ぜんぶぜんぶ、普通に起こっちゃうんだ。そーいうことが、なんだかすごく、ショックだったんだよね」
だけど、と三澄は言ったが、その先の言葉は続かなかった。どこからか聞こえた犬の鳴き声が、彼女の言葉を遮ったのだ。
いや。
どこからか、ではない。
僕たちは三澄の家の前に着いていた。
「――せめて、その日くらい偶然に、おなか痛くなったり、すればよかったのにって」
それで学校なんて、偶然に、休んでしまえばよかったのに――
もう一度犬が鳴いた。まるで大切な友だちに、いっしょに遊ぼうと催促しているみたいに。
「行けよ」と僕は言った。
両手で自転車のハンドルを握ったまま、三澄はまだ僕の方を見ている。
「行けよ」とふたたび僕は言った。「友だちが待ってるよ」
街灯の光が三澄の濡れた瞳をきらめかせた。それが一瞬だけ揺らぎ、彼女の頬に、大きな涙の粒が流れた。
僕は鉄柵に寄り掛かり、一人の少女と一匹の犬が、たった一秒の時間さえ惜しむように触れ合うさまを眺めていた。
死は単純な事実だ。冷淡に、日常的にやって来ては、たくさんの心残りを生み出して去ってゆく。
そこに偶然性や幸運はない。そんな例外は、物語の主人公にしか認められない。
――ならば。
この物語の主人公たるこの僕が、ときにはこういう例外を作ってもいいのではないか――
泣いているようで笑っている、そのどちらなのか分からない、三澄桜子の顔を眺めながら、僕が考えていたのはそんなことだった。
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