第5話

 僕たちは三澄家の前にやって来た。

 ニックはあまり遠出を好まない犬だったという。ならば家の近くにいるだろうということで、生前のニックが好んで散歩した道を中心に探すことにした。

「時々ね、普段と違う道を通ってみたりするじゃない」

 あちこちに目を配りながら、三澄が言う。

「そうするとね、分かれ道のところで、うーうー唸って、動かなくなるの。それくらい、普段と違うところに行くがの苦手な子だった」

 少しでも動くものは見落とさないよう、目を皿にしつつ、二人ゆっくりと進んでゆく。

「臆病でね――だから知らない人が家に近づいたりすると、もうワンワン吠えて」

 やはりというか、ニックの話をする三澄は、真剣な顔をしていても楽しそうだった。言葉が止まらない。

「臆病な犬ほどよく吠えるっていうでしょう?小学生の時とか、みんなうちの前通るの怖がってたんだよ」

「そーいえば、僕が行ったときも、ワンワンワンワン吠えてたな」

 ということは、臆病であっても、番犬としては優秀だったのだろう。

「うーん、でも、うち、空き巣に入られたことあるんだよね」

 優秀じゃなかった。

「犯人のひと、日ごろからニックによく声かけたり、エサあげたりしていたんだって。だから、いざその人が入って来ても、全然吠えなかったみたいで」

 駄犬だった。

 僕にとって、ニックといえばヘミングウェイのニック・アダムスである。しかしそのイメージと現実との間には、大きな乖離があるようだった。

「あ、それ、お父さんも言ってた」

「ニック・アダムス?」

「べつに、そこから取った訳じゃないんだけどね。『ニック・アダムスとは正反対だ』って、お父さんよく言ってたの。どういう人なの?ニック・アダムスさんって」

 端的に答えるのは難しかったが、僕は答えた。

「勇敢で、野性的で、孤独な男だ」

「うわっ、正反対」

「似ててどうするって話でもあるけどね」

 空の赤は藍色に取って代わろうとしていた。少し肌寒い空気も混じり始めている。夜が近い。

「このあたり、散歩でよく通ったの」

 三澄は簡易郵便局の前で止まり、左から右へ、道路を指で示した。

「向こうにちっちゃい公園があって。だいたいいつもそのあたりで折り返してた」

 公園を目指して進む。まだニックの姿は見えない。

 住宅街の道は狭く、やはりごちゃごちゃとして分かりにくい――けっきょく三澄の先導で進むことになった。

「三澄さんはずっとこの辺に住んでるの?」

「うーん、元々は隣町の社宅に住んでたんだけどね、でも、小学校に入る前から、ずっとこの辺だよ」

 しんとしたスーパーの前を通り過ぎる。

「ニックはね、今の家を建てたとき、お父さんが、私と一緒に大きくなる犬が欲しいって、それで飼い始めたの。あの犬小屋も、お父さんが作ったんだよ」

 どちらかというと父親の方がニック・アダムスのイメージに近い気がする。

「お父さん、犬好きなんだね」

「散歩とかには全然連れて行ってくれないんだけどね。そういうのは私の仕事で。日夏見くん、犬飼ったことある?」

「ないな」

 キライな訳ではないが、考えたこともなかった。

「犬って本当に散歩が好きなんだよ。雨が降ってても外に出たがるんだから」

「まさか」

「ほんとだよ、すごいでしょ。うち、ニックのレインコートまであるもん。お父さんが作ったんだけど」

 さすがニック・アダムス、万能だ。

「毎日毎日、さすがに台風の日とかには行かないけど、でも、それ以外はほとんど毎日」

「逃げ出したりってのは、しょっちゅうあったの?」

 そんなに外出が好きな犬なら脱走癖があったのではないか――もしそうなら、そのときの話がヒントになるかもしれない。

 そう思ったのだが、

「ううん、一回も。臆病だもん。あんまり家族から離れたがらなかった」

「そうか」

 となると、少し妙だ。なぜニックは家から逃げ出したのか?シラトになる前となった後で、ニックの心境に何か変化があったのだろうか?

「あーっ!」

 突然――本当に唐突に――前を進む三澄がブレーキをかけた。僕は前につんのめり、危うく玉突き事故を起こしかけた。

「あっぶ――!」

「忘れてた!日夏見くん、まだニックの写真、見たことなかったよね?」

「そんなことでブレーキかけたのかよ!」

「だって、ホンモノ見つけたときに、分からないと困るから」

 笑いながら、明らかに口実めいたことを言う。

「ほら、これ」

 三澄はポケットからスマートフォンを取り出し、僕に向って掲げてみせた。

 むくむくとした、白い中型犬が画面に写っていた。人のよさそうな顔でヘラヘラ笑っている――と、別に笑っているのではないか――元々そういう顔なんだろう。

 三澄は僕の側に回り込んで、スマートフォンをまじまじと見つめた。

「可愛いでしょう」

 誇らしげな口調だった。僕は頷いた。

「頭は悪かったけど、可愛かったの」

「ああ、可愛いな」

 画面を眺めたまま、なかなかスマホをしまおうとしない。

 僕は付け足した。

「――ふわふわしていて、しっぽがくるっと巻いてるところなんか、特に可愛い」

 三澄はくすぐったそうに笑った。

「そうでしょう?冬の寒い日とかにね、膝に乗っけてぎゅーってすると、あったかくて、ふわふわで、すごく幸せな気持ちになるの。頭撫でたりしてるだけでもね、嫌なこととか、ぜんぶ忘れられて……」

 どうも三澄は親バカならぬ、飼い主バカであるようだった。

 僕は動物を飼ったことがないので、その辺のところはピンとこない。何なら単なるバカに見えなくもない。

 ただ――

 親バカの気持ちなら、何となくわかる。

 僕の母親が、超ド級の親バカだからだ。

 そう置き換えれば三澄の気持ちは、シラトを生み出すほどの彼女の心残りは、理解できないこともない。

「もう一回」

 三澄が不意に呟いた。

 まるで現実に返ったみたいに。

 音のない、電燈がともる前の藍色の町の空気が、冷たく、じんわりと、身に染みた。

「――頭、撫でてあげたいな」

 三澄の肩を叩き、僕は自転車に跨った。

「はやく捜そうぜ。もうすぐ会えるよ」

 三澄は頷いてスマートフォンをしまった。



 もうすぐ会える――という僕の予言は、何というか、かなり無責任なのものだったということがすぐ明らかになった。

 公園にニックの姿はなかった。

 隅々まで、茂みの中やトイレの中まで捜した。だが形跡さえ見つからない。

 散歩コースを引き返す。家を中心に、ひと区画ずつ、しらみつぶしに回る。


 街灯がともる。夜の色が濃くなってゆく。風向きが変わる――表世界では、あちこちの家庭から、夕飯を囲む家族の声が聞こえ始めている頃かもしれない。

 僕たちは大声でニックの名を呼び始めた。

 どうせ誰もいない世界だ、考えてみたら初めからこうしていればよかったのだ――大声で呼んでは、何か反応が無いかと耳を澄ませてみる。物音ひとつ、犬の鳴き声ひとつ聞こえはしない。臆病でよく吠える犬じゃなかったのかと、今さら文句を垂れても仕方がない。

 気が付くと、走り回ったのと大声を出し続けたのとで、身体はすっかり疲弊していた。風に晒された頬がヒリヒリと熱を帯びている。

 住宅街と隣町を調べ尽したところで、

「三澄」

 と僕は声をかけ、自転車を止めた。

「日も暮れてきたし、もう家に帰った方がいい――あとは僕が捜すから」

 肩で大きく息をしながら、三澄はじっと僕の顔を見つめ、二度三度と、首を横に振った。

「そういう訳には、いかないよ。わたしも探す」

「……じゃあ、あと三十分だ。それで見つからなかったら家に帰る。いいね」

「――でも」

「いいか」

 僕は三澄を遮った。

「早く帰らないと、君の両親は心配する。そして、明日は学校がある」

「……」

 三澄はもどかしいような目で僕を見返した。強い想いがあるのだ。そんなものが、人をいつも良い方向に導くとは限らない。

「君が生きている世界はシラトじゃない、オモテの、現実の世界だ。疎かにしちゃいけない」

「……でも、だったら日夏見くんだって」

「僕は専門家だ。同じレベルでは語れないんだよ」

 捜索を再開する。


 ふと、こんな考えが沸いた。

 ニックは成仏したのではないか?

 シラトに対して成仏という表現が相応しいかどうかはともかく、三澄の『心残り』が無くなってしまえば、当然、ニックのシラトが存在する理由もなくなる。消えたのなら、いくら探しても見つからないのは当然だ。

 が、それでも疑問は残る。

 

「白戸神社に戻ろう」

 三十分が経過し、僕は三澄の背に声をかけた。三澄は自転車を止めたが、こちらを振り向うとはしない。

「……諦めて引き揚げよう、って言ってる訳じゃない。僕はまだ探す。必ずニックを探し出す」

 背を向けたまま三澄が言う。

「ホントに見つかるのかな」

「見つかるって、分かってて言ってるだろ」

 動かない背中に向かって、言う。

「今のニックを作っているのは君の心残りだ。会いたいと思っているなら、君は必ずニックを見つけだせる」

 ――頭、撫でてあげたいな。

 その想いは、まだ果たされていないのだから。

 三澄はずいぶん長い時間が経ってから、軽くこちらを振り向いた。

「……ごめん、ちょっと弱気になっちゃってただけ。ありがとうね、日夏見くん。こんなに一生懸命に、なってくれて」

「べつに」と僕は言った。「これが専門分野だからさ」

「専門分野?」

「つまりね、自分でそんなふうに決めたんだ。他のことは全然ダメでも、これだけはちゃんとしようって」

「……分かんないな」

 諦めたように三澄は笑う。

「分からなくていいよ。面白い話じゃない」

 それに、と続ける。

「ハッタリを言ってる訳でもない。だから、諦める必要はない。ひとつアテがあるんだよ、白戸神社に」

 気乗りのしない方法ではあるが、こうなったら頼るしかない。

「アテ?」

 人を当てにする、の、アテだ。つまり、

「さっき言った、僕のお師匠さんに、ご意見を賜るのさ」

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