第4話

 無人の町を自転車で並走する。僕は言った。

「世界は表と裏、二つの面を併せ持っている」

 表は、僕たちがいつも認識している世界。

 そして裏が、この世界だ。

「なんだか、ファンタジー映画みたい」

「ファンタジーじゃないよ。ちゃんとした根拠のある科学的な話だ」

 僕はそう嘯き、話を続ける。

「本来、僕たち人間が裏世界を認識することはできない。脳の機能が、そんなふうに働いていないからね」

 赤信号を無視して直進する。これはちょっと癖になる、アブナイ快感だった。

「ところが、脳のあるスイッチを切り替えてやると、こんなふうにちゃんと裏の世界を認識することができるんだ」

「スイッチ?」

「さっき言ったろ、ちゃんと根拠のある科学的な話だって」

 スイッチの切り替えには、大脳の言語中枢が密に関わっている。

「言葉が重要な鍵になっているんだ」

 言葉の鍵――つまり、パスワードだ。

「裏世界、シラトは特定の姿かたちを取らない。これが表世界との一番の違いだ。ほら、当たり前だけど、表の世界は、誰が見ても同じように映るだろう?」

 たとえば二人の人間が、同じ劇場で劇を見ていたとする。

「この場合、二人が見るのは同じ劇だよね?」

 当然だ。三澄は頷いた。

「それが表の世界なんだ。どの脳が認識しても、同じに映る。色盲の人なんかは例外だけど……それでも、色の概念が共通していない訳じゃないからね」

 ところが、『裏』は、それとは根本的に違う。

「裏世界にあるのは、あくまで舞台だけなんだ。そして、」

 ここが最も重要な所だけれど――

「人間の強い想いが、この上に劇を作り出す。その劇がシラトだ」

「想い?」

 自転車で走りながら、三澄は僕の顔を見た。

「前向かないと危ないよ」

「?――うわっ!」

 危うく電柱に激突しそうになる。僕はかまわず続けた。

「たとえば、この世界、いま僕たちが認識しているこのシラトは、君の想いが生み出したものだ」

 三澄の想い。

 つまり、死んだニックに対する、心残りのようなもの。

「劇場の喩えでいうなら、白戸神社は入場ゲート、パスワードはシラトを見るためのチケットってところかな」

 パスワード――つまり『』という名を白戸神社に提示することで、初めて劇を、シラトを観ることができる。

「……あの、さ」

 自信なさげに、三澄が口を挟む。

「正直、よく分かんないんだけど……」

「そりゃそうだろうね」

「つまり、ニックは幽霊じゃないってことなの?」

 僕は頷いた。

「それだけ分かってれば十分だよ」

 幽霊を作るのは死者の魂だが、シラトを作るのは、生きている人間の想いだ。

「頭の中に『ニック』という名が強く刻まれていたから、三澄さんは、このシラトのみたいなものを認識できたんだ。それを君は、幽霊だと誤認した」

 僕にニックの声が聞こえたのも、直前に『ニック』というネームプレートを見ていたからに他ならない。

 白戸神社のあるこの町では、パスワードが強く頭に刻まれていさえすれば、わざわざ紙に書いて奉納せずともシラトを認識することができる。もちろん、声だけであったり半透明であったりと、不完全な形にはなるが。

「でも――」

 三澄は難しい顔で考え込んでいる。ちょっと寄り目になっていて可愛かった。

「それなら、私のお父さんもお母さんも、ニックの幽霊――じゃなくて、シラトに気付きそうなものだけど。家族みんなで可愛がってたんだから」

 両親がニックを認識していた様子はなかったという。

「カンタンさ。子供じゃないからだよ」

「え?」

「シラトを認識するために必要なスイッチは加齢と共に鈍ってくるんだ。近くが見えなくなるとか、髪が薄くなるとか、そういうのと一緒だね」

「なんか……夢のない話だね」

「科学的だって、言っただろ」

 三澄はしょんぼりしてしまった。

「あとは?何か聞きたいことある?」

 三澄はしばらく考え、

「あの『ユキコさん』も、シラトだったの?」

 そう尋ねた。

 ユキコさん――乙淵ユキコさんのことだ。

「そうだよ」

 去年の冬、学校でちょっとした幽霊騒ぎがあった。そのこそ、他ならぬ乙淵さんである。

 『乙淵ユキコ』という名は恐怖とともに瞬く間に学校中に知れ渡った。名前が強く脳に刻まれれば刻まれるほど、シラトを認識してしまう人間は増えていく。そういう悪循環によって、乙淵さんは学校内に(意図せず)一大センセーションを巻き起こした。

「だから別に、僕はゴーストバスターとかじゃないんだ」

「じゃあ、シラトバスターだね」

 なんじゃそりゃ。

「言っとくけど、僕はべつに『ユキコさん』を退治した訳じゃないぜ」

「そうなの?」

 また僕の顔を覗き込む。前を見ろと言ってるのに。

「でも、日夏見くんがユキコさんをやっつけたんだって、みんな言ってたけど」

「違うよ。表の世界から乙淵さんが見えないように、ちょっと細工をしただけなんだ」

「細工?」

「乙淵さんに、別のシラトに引っ越してもらったんだよ。要するにシラトの名さえ知らなければ、表世界から認識することはできない訳だからね」

「別のシラトって?」

 興味津々の三澄に釘を差す。

「名前を聞きたい?知ればまた乙淵さんの幽霊を見ることになっちゃうけど」

 はっとして首を左右に振る。

「とにかく――それだけのことで騒ぎは収まったんだ。大したことをした訳じゃない」

「でも、日夏見くんがシラトのことを知ってたから、何とかなった訳だよね」

 冷たい風を切り、坂道を駆け下りる。

「日夏見くん、どこでこんなこと知ったの?」

「前を見ろって」

「あ、ごめん」

 ハンドルをきちんと握り直す。僕は少し迷って、応えた。

「こういうのに詳しい知り合いが、一人いるんだよ。そいつに教わった」

「お師匠さんがいるんだね」

「……ま、そんなとこだ」

 師匠というか、幼馴染というか。

 これ以上ハクの話を続けても、仕方あるまい。

「とにかく、今はニックの捜索だ」

 僕は話をまとめた。

「ニックはこの世界にいる。ちゃんと姿かたちも見えるはずだし、すぐ見つかるさ」


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