第3話
三澄の指定した喫茶店は世界的に有名なコーヒーショップのチェーン店だった。どこにでもある、情緒性の希薄な喫茶店。
三澄は奥の小さな席に座っていた。
見るからに所在なさげだった――両手を膝の上に置き、うつむき加減に僕が来るのを待っていた。
「おす」
「――
僕はレジカウンターで三百円のホットコーヒーを購入した。安いのか高いのか、微妙な値段だといつも思う。
「悪かったね、待たせちゃって」
三澄の前にはクリーム色のコーヒーがあったが、口をつけた形跡はなかった。
思ったよりもまいっている――それが彼女を見た第一印象だった。小柄な身体が、さらに縮んでしまったみたいに見える。
僕は彼女の正面に座りながら、それほど深刻に響かぬよう気を遣いながら尋ねた。
「ニックの幽霊の話、だよね?」
三澄が身を固くするのが分かる。
「……名前、知ってたんだね」
「昨日、君の家に行ったときにね、犬小屋のネームプレートが見えたんだ」
しばらくして、三澄は言った。
「ごめんね、変なことで呼び出しちゃって」
「変じゃないさ、僕には慣れっこだ」
「……そうだよね」
小さく笑う。
「日夏見くん、あの『ユキコさん』を封印した、すご腕の『ゴーストバスター』だもんね」
本当に誰なのだろう、そんな通り名を広めた奴は。見つけ出して説教したいところだ。
「ゴーストバスターじゃないよ……けどまあ、大抵のことは一通りこなせるつもりだから、そこは安心していい」
ただ、と僕は言ってコーヒーを一口飲み、カップをテーブルの上に置いた。その傍らで両手を組む。「……三澄さんが僕に頼みたいことっていうのが、いったい何なのか、実はまだピンと来ていないんだ」
分からないのはその点だけだった――逆に言えば、他のことにはすべて見当がつく。
飼い犬が死んで、学校に来なくなった三澄。『おかしくなった』という妙な噂――そして『ゴーストバスター』の僕に、わざわざ電話をかけてきたという事実。
それらを踏まえて考えれば、おのずと導かれる推論はこんなところだ。
三澄は、この二日間、飼い犬の幽霊といっしょに家に引きこもっていたのだ。
三澄は小さく頷き、カップの縁のあたりで視線をうろうろさせた。
「……あのね、こんなこと、日夏見くんにお願いするのは失礼かもしれないんだけど」
「失礼?」
さらに体を縮める。
「なんていうか……すご腕の『ゴーストバスター』に、こんなことを――」
「……」
もっとカッコいい通り名が付けばよかったのにと、つくづく思う。
「気にしないで言ってよ。僕にできることならなんでもするから」
「犬が、逃げちゃったの」
思い切ったように、三澄は早口でそう言った。
マグカップを持ったままの姿勢で僕はしばらく固まった。
「……逃げたって……ニックが?」
「うん」
脳みそをくるくる回して、状況を整理する。
それは、つまり――
「――ニックの幽霊を、捜してほしいってこと?」
三澄はこれ以上ないほど小さくなっていた。
「……うん」
空はもう赤色だ。
「本当は、私一人で探すべきなんだろうけど――」
自宅に向かい歩を進める途中、三澄は申し訳なさそうに言った。「どうしても、私だけじゃ限界があって」
「そりゃま、そうだろうね」
依頼の内容に、拍子抜けしなかったといえば嘘になる。だが僕の推測は大体のところ当たっていた。
ニックが亡くなったのは一昨日のこと――これは久留橋が言っていた通りだ。その直後、ニックは幽霊となって三澄の前にふたたび現れた。そして昨晩の二十二時ごろ、三澄が風呂に入っている間に、いなくなってしまった。
「これは憶測だけど」
と僕は確信をもって言った。
「三澄さんにはニックの幽霊が、はっきりとは見えなかったんじゃない?」
数秒の間を置き、三澄は頷いた。
「はっきりどころか、ぜんぜん見えなかった――鳴き声も聞こえなかったし、肌触りも分かんなかった」
「……それでよくニックの幽霊だって分かったね」
それじゃあ空気と変わらないじゃないか。
「飼い主だから」
と三澄は笑った。
「ずっと一緒にいたんだもん。何となく、気配とか、暖かさとかでね、分かるよ」
そういうものだろうか。動物を飼ったことがないからピンとこない。
しかしまあ、見えないとなるとけっこう厄介である。透明な迷い犬を捜すなんて、新宿で六等星を見つけるより難しいのではないだろうか――どちらも未経験なので分からないが。
「日夏見くんは幽霊が見えるんだよね?」
「見えないよ」
「え?」
幽霊は見えない。
「……けど、ニックのことは多分、見えると思う」
三澄は不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。僕はその目を見返して訊ねた。
「ニックの行きそうな場所、心当たりとかあるの?」
「うーん……」
目を落とし、右手の指をぱたぱたと折り始める。
「……はっきりとは、分かんない。いくつか、思い当らなくもないんだけど……」
そんな話をしているうちに、三澄の家に到着した。
僕は玄関先で待機だ。三澄は自転車の鍵を取るため、いったん家の中に入った。
犬を探すなら、当然ある程度の足はあった方がいい。それに、三澄の家から白戸神社までは三キロほどの距離がある。女子が歩くには少々きつい――と、これは僕お得意の男尊女卑的発想だろうか。
以前、久留橋にそう指摘されたことがある。日夏見くんにはそういう、様々な面で女性を軽んじる傾向があると。
そんな馬鹿なと反論したのだが、どうにもそれ以来、何かが胸に引っかかっている感じがしてならない。確かに言われてみればそうかもという気がしてくる。僕は女子の能力を低く見積もりすぎるのかもしれない。そしてそれは僕の悪癖かもしれない。
「おまたせ!」
一分間ほどで三澄は再登場した。なんだか初めより、テンションも上がってきたようで結構なことだ。
「だって、ニックにまた会えるって思ったら、嬉しくなっちゃって」
ホクホク顔でそう言う――喫茶店での最初の印象、まいっていると感じたのは、幽霊に生気を奪われているとか、そういうヤヤコシイ理由ではなかったようだ。ただごく単純に、飼い犬に逃げられて、落ち込んでいただけだったのだ。
別に構わないが、それは問題を挿げ替えているということでもある。
要するに、と僕は思う。
三澄はニックの死を受け止めきれていないのだ。
僕が先を行き、自転車を漕ぎ出す。
「シラト神社、って言ったっけ?」
大きな声で、背後から三澄が訊ねた。
「ああ。ちょっと走るけど――まあ、そうだな、二十分くらいかな」
ちらと腕時計を見る。あまり帰りを遅くするわけにもいかない。
「――ことのはじめは必ず、あの神社に行かなきゃいけないんだ」
「霊力を高めるとか、そういうこと?」
三澄はあくまで僕を陰陽師的存在にしておきたいようだった。
僕は聞こえないふりをした。
人通りに気をつけながら商店街を直進する。
八百屋の角を右に曲がると、ゆるやかなカーブを描く坂道に入る。昇っていくと右手に石段が現れる。
件の白戸神社は、その石段を昇った先にあった。
自転車を停めると、三澄は石段の向こうを見上げた。
「あれかぁ」
そして、坂の下に視線を戻す。
「思ったより……町なかにあるんだね」
八百屋までの距離は50メートルもない。すぐ隣には一人暮らし用のワンルームマンションがあり、しょぼい洗濯物なんかも干してある。その向こうには新しいマンションが建設中である。
はっきり言って、神秘性など欠片もない。
「あれでも由緒ある神社なんだ」
僕は真顔で嘘をついた。
二人で石段を登り始める。
石段といっても、普通の神社にあるような石貫の階段を想像してはいけない。団地の一階から二階へ上がる程度の、短い階段だ。鉄製の手摺は非常に安っぽい。塗装の剥げた落ちた部分から覗く赤錆が、安っぽさに更なる説得力を与えている。
石段を登り終え、石の鳥居をくぐる。
しょぼい境内に出た。
「ぜんぜん盛り上がらないだろ」
「そ、そんなことないよ」
いや断言する。盛り上がらない。町中のしょぼさを集めて凝縮したらこうなった、みたいなしょぼさだから。
敷地面積は教室の半分ほどもない。一応神社なのでそれっぽいものは置いてあるが、手水舎の水は枯れているし、拝殿はほぼ朽ちていて、大きな地震がくれば即倒壊してお釣りがくるといった趣である。
僕は鞄から手帳を取り出し、白いページを開き、ボールペンと一緒に三澄に手渡した。
「ここに、君の犬の名前を書いて」
「え?」
「どこでもいいよ。――あ、僕も書くから、その分のスペースは空けといてね」
ふしぎそうな顔のまま、三澄は左のページの上方に小さく『ニック』と書いた。
「もっと大きく書いてよかったんだけど」
手帳とペンを受け取る。僕は三澄の字の下に大きく『ニック』と書き、そのページのミシン目を丁寧に切り離した。
「さて」と僕は言いつつ手帳とペンを鞄にしまう。「三澄さん、神社の参拝の方法は知ってるよね」
三澄はちょっと考え、
「えっと、二拝二拍手一拝――だったっけ」
「正解。ちゃんとやる必要はないと思うけど、まあ、こういうのはセレモニーだから」
僕はそう言い、ポケットから小銭を取り出し、賽銭箱に放り込んだ。ゴン、という音がした。木の板に当たった音だ。相変わらず貧しい神社だ。
「……幾らくらいがいいの?」
財布を手に三澄が尋ねる。
「いくらでもいいよ。一円でも五円でも」
ちょっと考え、三澄は財布から百円玉を三枚取り出し、賽銭箱に投げ入れた。
僕は先ほど切り離した手帳のページを賽銭箱の前に置いた。
三澄を促し、鈴の綱をいっしょに揺らす。ガラガラガラと貧しい音がした。あんまり強くやると拝殿がぶっ壊れるので、加減しないといけないのだ。
二人同時に一歩下がり、二度礼をした。
パン、パン――
大きく、ゆっくり、二拍を打つ。
目を瞑る。
僕はニックが見つかるように祈った。誰に祈っているのかよく分からなかったが、形骸であれ、祈ることは人間らしい行為だと、僕は今でもそう思っている。
目を開く。
ちらと隣に目をやると、三澄はまだ手を合わせたまま目を閉じていた。しばらくそのまま待つ。
ようやく目を開いた三澄は、ぼんやりと僕を見上げた。
「……これで、幽霊が見えるようになったの?」
「まあ、そんなところだ」
鞄を肩にかけ直し、拝殿に背を向ける。
「ほら、行こうぜ。もうこんな神社に用はないよ」
「あ、ちょっと待って」
僕に追いつき、何かを差し出す。
「これ」
先ほどの手帳の紙だった。
「――あ、悪い、忘れてた」
「それ……おまじない?」
ポケットに紙を突っ込みながら首を振る。鳥居をくぐり、石段を降りる。
「そうじゃないよ。ちゃんとした根拠のある、科学的な行為だ」
「どういうこと?」
「今に分かるよ――ほら、見てごらん」
石段を降り切って、坂の下を指さす。
「……べつに、変わったものなんてないけど」
「ないね」
三澄は疑問のこもった視線を僕に投げかけた。
「変わったものは、ない」
「……?」
二人で坂を下る。
「静かでいい町だろ、そう思わない?」
「そうだね、けっこう賑やかな商店街なのに」
何気なく言い、三澄はようやく、その不自然さに気づいたようだった。
「……あれ?」
「そ。賑やかな商店街なのに」
静かすぎる。
八百屋の前で止まる。
いない。
柴犬みたいな顔をした店主のおじさんも、ニンジンを手に取っていたおばさんも。
その向かいのコンビニで漫画を立ち読みしていたお兄さんも。
――誰もいない。
人が一人もいない。
「……うそ」
「ほんと」
三澄は商店街のど真ん中に立ち、くるくるとあちこちを見やった。
「――どうして?」
「ここが、僕たちの住んでいた世界とはちがう世界だからだ」
僕は反転し、自転車を回収するため坂道を引き返した。三澄の足音が僕を追いかけてくる。
「ニックはこの世界にいる。三澄さんにニックが見えなかったのは、そもそも住んでいる世界が違ったからなんだよ」
「……それって、つまり」
三澄は早足で僕に並んだ。
「ここが、死後の世界ってこと?」
「違う。死後の世界なら、人っ子一人いないなんてことはないさ。むしろ超過密になってると思うよ」
自転車の前に立つ。三澄はきょろきょろと周囲を見回している。
「――車とか、自転車は残ってるんだね」
あくまで、人がいないという点だけが異なっている。
「なんか、ゴーストタウンみたい」
言い得て妙な表現だった。
「こーいう世界のことを、シラトっていうんだ。本当はもっと正しい呼び方があるのかもしれないけど、まあ、昔からそう呼んでるね」
「白戸神社だから、シラト?」
「そう」
その安直なセンスは僕のものではないが、話がこじれそうなので黙っておいた。
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