第2話

 もちろん僕は幽霊退治の専門家などではない。

 むしろ、幽霊など存在しないと思っている。

 不可思議な現象は幽霊だけではない。みんなそれを知らないから、不思議なことはすべて幽霊のせいにするのだ。

 昇降口に向って歩きながら、僕はぼんやりとそんなことを考えていた。それが悪かった。曲がり角から現れた人影に気づかなかった。

 ぶつかる――そう思ったときにはもう遅かった。

 慌てて距離を取る。痛みはない。何かが触れたという感覚すらない。熱も匂いも感じない。何も感じない。

 でも彼女は僕の目の前にいた。

 乙淵さんは深く黒い瞳をまっすぐに僕に向けていた。

日夏見ひなつみくん」と彼女は言った。「廊下を歩くときは、気をつけなくちゃ駄目だよ」

「ごめん」

「わたしみたいに、足音がない人だっているんだから」

「それはたぶん特殊なケースだと思うけど」

 わずかに首を傾ける。「反省した?」

「超した」

「そ。ならいいの」

 そして不意に、淡雪のような笑みを浮かべる。右足をこちらに少し進める。音はしない。停滞した廊下の空気は揺るがない。

「ところで」彼女は僕を見据えたまま言った。「日夏見くん、これから暇?」

「まったく暇じゃない。今から仕事だ」

「そんなこと言って」暖かな微笑を浮かべたまま、左足を前に進める。僕を見上げる形になる。

「じつは巧妙な冗談なんでしょう?」

 僕は彼女の視線を避け、歩き出した。乙淵さんは両手を後ろで組み、僕のとなりを、僕とおなじスピードで歩く。

「そうじゃないよ。本当にやんなきゃいけないことがあるんだ。同級生にプリント届けなきゃいけないんだ」

「そんなの、明日でいいじゃない」静かに歌うように言う。「明日になれば、どうせその子も来るんでしょう?」

「そう単純な話じゃないんだよ」

 階段を降りる。

「病気とかじゃなくて、ショックで引きこもってるらしいんだ。飼ってた犬が死んじゃってね」

「ふうん」

「んで、僕が行って引っ張り出してこなきゃいけない――」

「放っておけばいいよ、そんなの。十日もすれば出てくるよ」

 乙淵さんには、人生に対する前向きさがない。

 そんなものは四十年も前に失活しているのだろう。僕のそれが、十五年前に終わっているのと同じように。

「僕だってそう思うさ。けど聞かない奴がいるんだよ、クラスに一人、超ド級のカタブツが」

「分かった」と彼女は言った。「クルハシカナコちゃんだ」

「ご明察」

 とうとう昇降口まで降りてきた。乙淵さんは僕が靴を履きかえる様子を見守っている。

「……わたし嫌いだな、あの子」

「そりゃあ、乙淵さんはね。でもまあ、そんなに悪いやつじゃない」

 僕がそう言い終わらぬうちから乙淵さんは首を振り始めていた。

「違うよ。あれは人を差別する人間。日夏見くんとはぜんぜん違う」

「……僕にだって、モノの好き嫌いはあるよ。久留橋はただ」

 相応しい言葉を探す。事実から、できる限り遠ざからない表現を見つけようと努力する。

「……生きるのに必死なだけだ」

「だからって、死んだ人間を軽く扱っていいことにはならない」

「僕に言うなよ」

 つま先でトントン地面を鳴らしていると、僕のポケットでスマホのバイブレーションが鳴った。

 取り出し、画面を見る。知らない番号からの着信だった。

「悪い、ちょっと出るよ」

「どーぞー」

 画面をスライドし、耳に押し当てる。

「……もしもし、日夏見ですけど」

『もしもし』

 二秒間ほど、互いに無言の時間が続いた。

 思い出したように、相手が言う。

『あっ、わたし、三澄です。三澄桜子……』

「ああ、三澄さんか。悪い、番号登録してなかったみたいで」

『ううん、ごめんね、こっちこそ。番号は、久留橋さんにメールで聞いたの』

 声に張りがなかった――当たり前か。悲しそうな声だった。

『いま大丈夫?電話してもよかった?』

「ちょうど学校が終わったところだよ」元気づけるように、できるだけ明るい声を意識して僕は言った。「今から、三澄さんちにプリント届けに行くところ」

『そうなの?……ありがとう』

「いやいや。あとさ、学園祭関係の話もあるから、できればちょっと確認だけしといて欲しいんだけど。玄関先でもいいから、出て来てもらうことってできるかな?」

 三澄は黙った。

 昨日の失敗もあり、僕はひじょうにナーヴァスになっている。

『……あの』

「いやいや、いいんだ。大変そうだったら全然いいよ。こんなの、怒濤の如くどうでもいいことだから。僕が全部やっとく。心配しないで」

『――そういうことじゃなくて』

 張りつめた声で僕を遮る。

 回線越しに伝わってくる緊張感に、僕は思わず息をひそめ、耳に神経を集中させた。

「……何?」

『どこか、別の場所で会えないかな』

 平淡な声で三澄はそう言った。

「別の場所?」

『うちじゃない方がいいの。別の……できれば今日。会えない?』

 話が全く見えない――というのは例によって、嘘だ。

 三澄は僕のクラスメートである。ということはあの冬の、乙淵さんの件も知っている。

 つまり、僕に関する妙な噂も、知っている。

「幽霊の話だよね」

 僕はそう言った。三澄は何も言わない。

「僕にわざわざ電話をくれるってことは、幽霊関係の話しかない。そうだろ?」

 電話口に微かな雑音が伝わる。

 ずいぶん長い時間が経ってから、『うん』と三澄は言った。

「……場所、どこがいい?そっちで決めてよ」

『……えっと』

 三澄は自宅近い大通りの喫茶店の名を挙げた。

「オッケー、そこならたぶん十五分もあれば――」

 行けるよ、という言葉は声にならなかった。僕が息を飲んだからだ。

 乙淵さんの両腕が僕の胸に回されていた。透明な彼女の身体は溶けるように僕の身体のなかに沈み込んでいく。身体の中に彼女の存在を感じる。侵入される。だが五感は何も感じない。ふと、自分が息をしていないことに思い至る。

 意識して、息を吸う。

『――どうしたの?日夏見くん』

「大丈夫」と僕は言った。「何でもないよ。気にしないでいい」

 

「ふう……」

 スマホをしまう。僕にぴたりと身体を添えたまま、乙淵さんが唇だけを動かす。

「電話の相手、女の子でしょ」

「……だったら何?」

「何でもない」と彼女は言った。そしてあっさりと僕の身体から離れた。「日夏見くんだってそう言ったでしょう?何でもないって」

「説明のしようがないんだよ」と僕は言った。「とにかく、身体のなかに入ってくるのはやめてくれよ。慣れないんだ、あの感覚」

「じゃあ慣れるまでやろうよ」

「そういうことじゃない」

 乙淵さんは靴箱の側面に寄りかかり、ぼんやりとした目で僕を見つめていた。

「それじゃ、お仕事頑張ってね。ゴーストバスターの日夏見くん」

「……そんな言い方はよせよ。っていうか、称号がダサい」

「そんで、明日はさー……わたしと遊ぼうよ」

 前後の脈絡を一切無視し、笑っていない口調で、乙淵さんはそう言った。

「今日はもういいからさ。これでサヨナラで、いいからさー。……明日は、いっしょに遊ぼうよ」

 まったく笑っていない、戸惑うほどまっすぐな視線を、乙淵さんは僕に注いでいる。

 僕しか見ていない。

 寂しいとき、不安なとき、誰かのことを好きになるとき――彼女はその想いを、僕にしか向けることができない。

 それはとても不健全で悲しいことだと、僕は思う。

「……いいよ」と僕は言った。「約束する。学校が終わったら、ちゃんとシラトへ行く。そこで、一緒に遊ぼう。なんなら二人で飯でも食おうか?」

「ほんと?」

 身を乗り出して乙淵さんは僕を見つめた。

「絶対だよ?」

「絶対だ」

 僕は胸を張ってみせた。

「なんたって、僕は基本的に暇人だからね。それに幽霊騒ぎなんて、放課後の時間さえありゃ即解決だよ。今日中に全部終わって、明日はオール、フリータイムだ」

 微かに僕の体が揺れた――彼女の頭が僕の胸に押し付けられる。

「日夏見くん、好き」

 大好き、と彼女は言った。

 ふと、刺すように彼女は言った。

 

 乙淵雪子という人間は四十年前に殺された。

 目の前にいる少女はその幻影に過ぎない。四十年間、無人の校舎で過ごした孤独の歳月は、彼女の中にあった大切なものを、失われるべきでないものを破壊した。それはよく似た境遇にある僕と彼女の、おそらく最も決定的な違いだろう。

 人の強い想いはシラトを生み出す。

 そしてそれは、必ずしも心地よく美しいものばかりではない。

 ――『ニック』は?

 三澄の想いは、おそらく彼女自身を蝕んでいる。僕は幽霊の専門家ではないが、そのテのことには精通しているつもりだ。

 三澄は生の世界に戻らなければならない。そのために僕に会わなければならない――彼女が僕に電話をかけたのは、まさしく正しい判断だったのだ。

「……また明日ね、乙淵さん」

 できるだけ優しく、僕はそう言って乙淵さんの黒い髪に触れた。

「うん」

 痛いほど透明な笑顔を、彼女は僕に向ける。

「がんばってね、日夏見くん」

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