第7話出発

 ☆


 米永が事務所を去ってから先生は紗月さんにもう一杯珈琲を頼んで何やら書類を引っ張り出してきて考え事をしているようだった。私は邪魔をしないように目を細めて何をしているのか覗き見ようと試みたが、突如先生が顔を上げて私の名を呼んだので鳩が豆鉄砲を食ったようになってしまった。


 「日野君。君も連れて行くから準備しなさい。それに、そんなに目を細めてまで見ようとしなくても見せてあげるから。余計気になるよ」


 先生に私も連れて行ってもらえると言ってもらえて飛び上がるように嬉しい気持ちになったと同時に、盗み見るような真似をしていたことがばれていたのが恥ずかしくなり、顔から火が出るような複雑な感情になった。


 「ありがとうございます!それに、すいません…。先生が何を見ていらっしゃるのか気になってしまって」


 「これのことかな。えー…と、はい。これは横浜港で商船の監督者名簿だよ。後は…、輸入品目のリストと、他にもあるけど…」


 先生は自分の前に広がった書類の山を見て、どれがどれだったが分からなくなってしまったようだった。


 「紗月さん!ちょっとこれどうなってたっけ」


 先生は紗月さんが綺麗にまとめていたはずの書類を自分で分からなくしてさらに紗月さんに助けを求めるという結果になってしまった。


 「先生。まとめた書類を全部バラバラにしてから眺めるのは分からなくなるからやめてくださいと言っているでしょう。これはこうで…」


 紗月さんは呆れたようにお小言を並べながらも手際よく先生の前に広がった収拾のつかなくなってしまった書類を丁寧に仕分けてものの1分でまとめ上げた。これは探偵事務所ではよく見る光景である。


 「ありがとう紗月さん。それで日野君、君も目を通しておくといいよ」


 「ありがとうございます…」


 私は紗月さんがまとめ上げたばかりの書類の束に急いで目を通し始めた。


 「それにしても先生。よくこんな内容の書類を持っていますね」


 私は書類を読んでいる間目の前に先生がいるのに黙りきりでは何か気まずかったので思いついたことをそのまま口に出した。


 「こんな内容とは?」


 「それは、その…商船の監督者名簿や輸入品のリスト、その他の物も一般に公開されている情報では無くないですか?」


 特に考えがあっての発言では無かったので私の問いに問いで返されるのは想定外で回答に時間を要してしまった。


 「それのことね。商船の監督者名簿は横浜港の庁舎に直接赴くと監督者が誰かの札がかかっているからすぐにわかるようになっているんだよ。それを紗月さんに集めてもらったものだよ。輸入品のリストは近くの市場で一番大きい呉服屋の店主から貰ったんだ。輸入品を買い取ったりする大きい会社や店は港から自分の買わないたぐいのものでも一応全部の輸入品が載ったリストを渡されて、購入するものに印をつけて返すんだ。それの写しを貰ったものだよ。毎回それかどうかは分からないけれど、おおよその予想はつくからね」


 なるほど、と思った。先生が非合法的な手段で情報を手に入れているなどというようなことは有り得ないと思いつつもその情報の収集方法にいつも疑問を抱いていた。


 先生はいつも探偵業について常々情報戦だと言っていた。つまり、自分が優れているわけではないと主張するわけである。私も紗月さんも先生がいくら情報戦だと言っても先生の優秀さが覆るわけではなく、先生の実力故に難事件の解決が可能になっていると考えているが、先生は謙虚なのか本当にそう思っているのか自分の能力を肯定しようとはしない。


 「情報戦、ですか。それにしても凄いですね。私ならどのように情報を調達すればいいかすら分かりません。やはり、事件の解決も情報の収集も先生の実力だと私は感じます」


 「それは違うよ。情報が目の前に広がっていれば誰でも事件を解決することは出来るんだ。解決のための情報を収集することを怠るのは、それは探偵の怠慢だと言わざるを得ないね。これは警視庁も同様かな」


 やはり先生はいつも通りの持論を展開した。


 「それじゃあ日野君、例えば、そしてこれは極端な例だけど、ある大広間で殺人事件が起きたとしよう。殺人が起きてから大広間から出入りした人間は一人もいない。これは大前提だとしよう。そのなかで返り血を浴びて血の付いた凶器を持った人間がいたとしよう。さらによく話を聞くと、殺された人物に対して長年その人物は恨みを持っていたらしい。他に怪しい人物は一人もいない。犯人は誰かな」


 「それはその血の付いた凶器を持った人間でしょうか」


 私は他に手がかりが無かったので当然のように答えた。


 「そう、正解。僕でもその条件であれば犯人は日野君と同じ人物を指名するだろうね」


 「ですが先生、現実はそんなに単純ではないと思います。犯人は犯行を隠そうとするでしょうし、他にも条件は複雑になるはずです」

 

 私はあまりにも極端な例に対して不満を述べた。実際にこんなあからさまな事件が起きれば誰でもわかる上に、第一、犯人も自首しそうなものだ。


 「分かっているじゃないか。現実はこんなに甘くない、だから情報が必要なんだよ。もっと詳細なね。例えば凶器がないなら死体の損壊の状態とかを調べるべきだし、大広間から出入りした人間がいるならしらみつぶしに誰が出入りしたかを調べるべきだね。人間が現実に起こした事象に証拠が残らないものは何一つないんだ。すべては情報が揃えば明らかになる。例えば、犯人しか知りえない情報が謎を解くカギであったとしても、その知りえない情報を知っている人物こそが犯人であると裏付けることができる。とにかく、天啓的なものに導かれて答えが浮かび上がることなんてないわけだ」


 「それはそうですが…」


 私は今一つ納得できなかったが、私の実力がまだそこまで至っていないのだと思うことで何とか気持ちを切り替えることができた。


 「先生は米永さんの話を聞いて何か思い至ったことはあるんですか?」


 「いや、あるにはあるけど。あまりいい案とはいえないかな。僕は少々朝から新聞の記事に気を取られすぎているのかもしれない」


 「記事、というとやはり事件よりもイギリスの技術船の来航の方が気になりますか?」


 「そういうわけではないんだけどね…」


 私の問いに対する先生の返事にはいつもの鋭さがなく、何やら思案していることが脳内で上手くいっていないらしい。眉間に皺を寄せながら天井を見たり、目を瞑ったりとを繰り返している。


 紗月さんが淹れた二杯目の珈琲も飲み終え、遂に先生は事務所を出る準備を始めたので私もそれに続いた。


 「紗月さん、最近できた消防団って横浜港の近くにもあったかな」


 先生は唐突に紗月さんに質問をした。


 「港からは少し遠かった気がします。港は水が近いですから、火消しは港の男たちで十分なのでしょうね。消防団に用でもおありでしたか?」


 「そうか。それじゃあ紗月さんは…」


 私は先生と紗月さんのやり取りを聞いていたが、自分の準備が先生より遅くなるということはあってはならないと思い直して隣の部屋に荷物を取りに行った。


 消防団についてなにやら言っていたが、事務所を出るときになって用事を思い出したのだろうか。私も家を出るときになってやり残したことなどを唐突に思い出すことが往々にしてあるので、先生も同じなのだとホッとした気持ちになった。


 「ゆきちゃん、今日は冷えるから温かくしていきなね。これ、先生の分も。遅くなるようだったら渡してあげてね」


 私は自分の準備を終えて出入口の扉近くの椅子に座っていると、紗月さんが寒いときに羽織るようの上着を持ってきてくれた。


 「ありがとうございます。最近は夕方からもう冬のように寒くなりましたもんね」


 「そうね。最近は季節の変わり目が分かりづらくて困るわねぇ。先生がいれば大丈夫だと思うけど、気を付けていってらっしゃいね」


 「はい。十分気を付けます」


 紗月さんと私が会話をしているとちょうど先生も準備を終えたらしい。


 「それじゃあ紗月さん、行ってきます。消防団によろしく、あとはいつも通り番を頼んだよ」


 「承知しました。行ってらっしゃい」


 「紗月さん、行ってきます」


 「ゆきちゃん、行ってらっしゃい」


 事務所から出る際の恒例の挨拶を済ませて紗月さんを残して私と先生は港に向かった。


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