第5話東インド航路監督・米永栄一郎


 九時を知らせる鐘が街の方でなっているのが聞こえ、少しすると探偵事務所のドアを叩く音がした。入り口の方で準備していた紗月さんが素早く扉に駆け寄り丁寧に開け、来客を迎え入れた。


 「失礼します。本日の九時にお話を聞いていただけるとのことで参上しました。自分は横浜港で外国の商船から買い取った商品の流通、仕分けの監督を任されている米永栄一郎よねながえいいちろうです。お見知りおきを」


 紗月さんが丁寧に開けた扉の奥から顔を出したのは筋骨隆々な男だった。二の腕はや足は丸太のように太く、いかにも港で働いている男、という容貌だった。年齢は40代くらいだろうか、決して若くはない印象だが、逞しい筋肉とはつらつとした声から老いとはかけ離れた印象である。


 扉を開けた入り口から室内全体に聞こえるような声でそう言った米永だったが部屋のちょうど一番奥で書類を見ながら珈琲をすすっている先生は顔を上げようとしない。


 米永は後ろで片手でもう片方の手首をつかみ、安めの姿勢を取ったまま入り口から先生の方を見下ろすようにして立ち止まっている。


 「キリマンジャロ先生というのはどこにいらっしゃるのだろうか」


 米永は恐らく部屋の奥の正面で書類を見ながら顔をこちらに向けない人間が先生だと分かったうえで敢えて聞こえるように紗月さんに言った。


 私は依頼者や来客の対応は紗月さんがいないときに限り対応しているだけで、基本的には紗月さんが行っているので、口出しせずに目の端で様子をとらえながら見ていた。


 「少々お待ちください…」


 米永の態度はかなり高圧的なもののようにも思えたが、紗月さんは臆することなくあくまでも丁寧な態度を崩さずに見蕩れるような洗練された動きで奥の先生の元へ向かった。


 「先生、お客様がお見えです」


 紗月さんは先生の元へと直接赴いて敢えて目の前でそう言った。先生は来客に気づいていないということは恐らくないはずなので、紗月さんが先生の目の前まで向かったのは米永に対するパフォーマンス的な意味合いもあったのかもしれない。


 「うん。分かってるよ。連れてきていいよ」


 先生はそれでも書類から目を離さずにそう言った。


 紗月さんは先生のその言葉を聞くと、そつなく米永を先生の椅子の前まで誘導したのち壁際にある自分の席にはけていった。


 「あの…」


 「まずは座ってください」


 先生は米永が目の前まで来て声を発しようとしたのを遮るように先に座るように言った。米永が座ったことを確認すると先生はしばらく彼の様子をじっくりと観察でもするかのように見た。米永は流石に先生を目の前にして緊張しているのか姿勢よく座ったまま先生が話し始めるのを今度は待っていた。


 米永は事務所に入ってきた時とは打って変わって先生の雰囲気に飲まれてか蛇に睨まれた蛙のようになっている。


 先生は首を左右に揺らしてから珈琲を一口飲むと、ついに口を開いた。


 「もう一度お名前をお聞きしてもよろしいかな?」

 

 唐突に前置きもなく発せられた発言に米永は面食らっていたが、すぐに気を取り直した様子で咳払いをすると真剣な顔つきになった。


 「あなたがキリマンジャロ先生ですか。自分は先程も言った通り横浜港で商船のあれこれを監督している米永栄一郎と申すものです。この度はお時間を割いていただき感謝申し上げます」


 これまでの様子を見ていて、その見た目も相まって私は勝手に米永栄一郎という男を横柄で粗雑な人間であると勝手に判断していたが、実は礼儀正しい人間なのかもしれないと感じた。声の大きさと多少の大雑把さは港で働いている人間だと評価を改めれば失礼に値するほどではないのかもしれなかった。


 あの横浜港で商船の監督をしているということは低い役職というわけでもなさそうである。ある程度の常識や良識はあるのだろう。


 「探偵事務所きりまんじゃろのケイ・カミーユです。どうぞよろしく。横浜港といえば、今日はいくら商船の監督者といえどもお忙しいのではないのかな?」


 先生は軽く自己紹介をして雑談から入った。


 「おお、さすがキリマンジャロ先生はお耳が早い。今日はイギリスの技術船が丁度夕方頃に来航するのです。ですが、心配はいりませぬ。横浜港は国内一の貿易港です。商船と技術船、使節船、遊覧船、捕鯨船、細かい分類ではまだまだありますが、一つ一つ管理が完全に分離されていて来航の際に出航制限がある以外は他の管轄はいつも通りの仕事が行われる予定です。政府の技術班が迎えに来たり一連の行事は執り行いますが、自分たちには関係のない話ですな」


 米永は先生の疑問に対してそう過不足なく答えた。確かに、横浜港で働いていない人間からしてみると、外国からの技術船というのは新聞になるほどの一大行事であるから、港全体で迎え入れたりするような華々しいイメージがあるが、その実意外と他の部門では通常運航らしい。


 「そうでしたか。今朝の新聞に載っていたものですから。それにしても商船の監督なんて優秀なのですな。まだお若いとお見受けする。それに格がある」


 「先生にそのように評価していただけるとは一生の誇りです。しかし、見栄を張って監督とは言いましたが、お恥ずかしい話、監督とはいえ東インドの小さい商船ルートの監督なだけなのです。商船は色々な船の中でも最も活発なもので各航路ごとに監督がいるのですな。自分は東インド航路の担当なのです。それでも一応、一航路の監督ですから商船会議には議席がありますし、港全体の労働総同盟横浜会の幹部にも指名されてはおるのですよ」


 先生にそう言われると、米永は照れくさそうにしながらも自分の立ち位置をさらに詳細に説明した。


 「一航路の監督でも十分誇らしいものです。私もこのような方にお会いできて喜ばしい」


 先生は米永をおだてながら談笑を楽しんでいるようだったが、しばらくして紗月さんがお茶を淹れて持ってくると雰囲気を変えた。


 「…では、お茶も入ったことですしそろそろ本題に入りましょうかね、米永殿」


 先生がそういうと米永も承知したらしく、今一度座り直して姿勢を改めた。


 「そうですな…。それで、今日は先生に一つ解決していただきたい事件がありましてですね…」


 そう言うと米永は紗月さんが用意したお茶を一口で豪快に飲み干し、もう一度大きく座り直して、一層真剣な眼差しになり本題に入り始めた。




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