第2話探偵事務所きりまんじゃろ
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私の働く探偵事務所きりまんじゃろは、三人で構成されている。
一人目は探偵事務所きりまんじゃろを創設し、自身が探偵を務めるケイ・カミーユ。本名かの真偽のほどは分からない。それでも本人は名前を聞かれた時にはそう答えている。実際私もそのように教えられた。容貌は日本人のそれだが、誰もそれが本当かどうかを確かめたことはない。確かめることに意味はないし、仮に偽名であれ、本名であれ、直ちに関係性が変わるわけではない。普段は穏やかな顔をしているが、時折鋭い眼光で物をにらみつけているときがある。
容貌は日本人のそれだが、一つ特徴があるとすればすらりと高い身長である。港で見るような外国人に比べればそこまで飛びぬけて高いとは言えないが、周りの日本人と比べると頭一つ分抜けている。
先程喫茶店で私が先生と声をかけた人間こそがケイ・カミーユである。
探偵事務所というのは今まで日本では類をみず、国内初の開業ではないかと噂されていた。建物の西洋風な事や、喫茶店を一階で開業したり、着ているものからもどことなく西洋のものが多いように感じられるので、本人は日本生まれ日本育ちだと言っているが、私は本当に先生が外国出身であるのではないかと考えていた。
一部では西洋の人間を嫌い、鎖国の状態を取り戻そうという実力行使を厭わない団体がいるという噂を耳にしたことがあるが、私はそのような偏見はないので先生が実は外国人であったと告白されても驚くことはあるかもしれないが忌避するようなことはないだろう。むしろたくさんの事を学びたいと思うかもしれない。
巷ではケイ・カミーユは外国の工作員だという噂も最初の頃こそ流れていたが、探偵事務所としての活動と実績が伴ってくると次第にそんな声も薄れていった。
ケイ・カミーユは自分の名前を名乗ることがほぼ無く、「探偵事務所きりまんじゃろです」と挨拶するので、街中でケイ・カミーユを知っている人間はみな「キリマンジャロ」か「キリマンジャロ先生」と愛称で呼んでいた。当の本人はキリマンジャロという名前で呼ばれることに嫌悪感を抱くことは無いらしく、気にしていない様子であった。
人柄というと、優しいかと問われると難しいが、仕事や相談には真摯に向き合い、自分に厳しく、規則などを正しく守り、歩く時でさえ直角に曲がるような人間だと言えばわかりやすいかもしれない。口数は少なくはないが、多くを語るわけではなく、たまにふさぎ込んだように自分の思考の渦にとらわれて何を話しかけても駄目になるときがあるが、それ以外は至って普通であり、初対面の人に対しては多少冷たいような印象を抱かせることもあるが、結論的にはいい人であることには違いない。私はそう感じている。
話は私の経歴に移るが、私は昔にとある事件で五歳の頃に家族を失った。身寄りのいない幼い私はそれからしばらくの間は近くの八百屋さんの島永という人の家で面倒になっていた。その家はとてもやさしく、私のほかに同年代の子供が三人いて仲良くしてくれていたが、それが余計に私の中では辛かった。毎日同じご飯を食べても、同じ部屋で寝起きしても、どこまで行っても本当の家族にはなれなかった。私はふと自分は天涯孤独であるのだと思い知らされる時があった。
そんな時に私に居場所を与えてくれたのが先生だった。先生はどこから話を聞いてきたのか、ある日島永家を訪れると私を引き取ると言い出したのだ。島永家の人間も私も唐突な申し出に驚いたが、先生の訪問から一時間弱経ったころだろうか、島永家の人間と先生との間でどのような話し合いがなされたのかは分からないが、先生に引き取られることに話はまとまったらしい。
私はどこかで島永家の人間はどこの人間かもわからないたった今出会ったばかりの先生に私を引き渡すはずはないと思っていただけに子供ながらにショックを受けた。その時に再びやはり家族ではなかったのだと、私の存在は負担だったのだと痛感した。
とはいえ、私の真の親権者はこの世に存在せず、子供だった私は、私に屋根を与えてくれる存在にすがるしかなかった。
今でこそ決して裕福でない状況下で家族でない私に数年にわたり不自由のない生活を与えてくれた島永家の人間には感謝の念が堪えない。島永家は東京の上のさいたまにあったが、私は先生に引き取られその後は横浜に居を移すこととなった。
さいたまには横浜新橋間の電車から馬車に乗り換えると、比較的楽に往来できるように整備されているので先生にはいつか成長した姿を見せに行きなさいと言われているが、何となく後ろめたい気持ちから足が重くなったまま先生に引き取られたのを最後に一度も行けていない。
そんなわけで私は先生に引き取られたのだが、何にせよ家族を失ったのは5歳の頃で、自分の名前が「ゆき」であることしか分からなかったので、苗字というものが存在しなかった。島永家で生活していた時には、厚意で島永姓を名乗らせてもらっていたが、先生のもとに移ってからも島永として生きていくことは出来ない。
そこで先生が私に与えた苗字は「日野」である。なぜその苗字にしたのかは分からないが、不自由なく生活するためには苗字は必要だということらしい。
私はてっきり先生と同じ屋根の下で生活をするのだと思っていたが、実際は先生は最低限の一人暮らしができる程度の小さな家を私に与えた。生活に必要なものは与えられていた。ただ一つだけ決められたことは、毎日「きりまんじゃろ」に顔を出して何かしらの手伝いをするということだった。先生に引き取られたのは8歳の頃だったが、普通であれば小学校に通うような年頃の子供に家を与えて、放任するのは倫理的、道義的にどうなのだろうかと地域の人からは心配された。おかげで私は横浜の地域全体に育てられたといっても過言ではない。色々な人が声をかけてくれて、人の温かみを感じた。運のいいことに悪い人間には今まで遭遇してこなかった。
最初は生活に必要なものが与えられているとはいえ、どうすればいいか分からず戸惑ったが、結果的に私は満喫した。外に出れば地域の優しい大人が声をかけてくれるし、港の男たちは自慢話を楽しくたくさん聞かせてくれた。
島永家にいたときのような家族でいるのに疎外感を感じるというようなこともないし、自分でも意外なことに一人でいるときの方が気楽に生活できた。
私が引き取られた時には探偵事務きりまんじゃろはもうすでに存在していて、今ほど知名度はなく、ひっそりと活動していただけだが、私はそこで掃除や珈琲、お茶を出す係を任命された。何の意味があるのか分からなかったが、とにかく私は与えられた仕事はこなした。
当然学校には通うことは叶わなかったが、先生の仕事の休みの時や、空いた時間に教養を叩きこまれたので、同年代女子ではほとんどいなかったが、字の読み書きが数年でほぼ完璧にできるようになっていた。その点では学校に通っている同年代の子供よりも優秀で、社会にもし一人で放り出されても生きていく力をつけてくれた先生には感謝している。
最近では探偵事務所も仕事が増えたことから、具体的な依頼の手伝いをさせてもらうことも増え、充実した毎日を送っている。
今では「きりまんじゃろの日野ゆき」という名前は横浜に住む人間ならほとんど知っているほどに広まっている。
探偵事務所は前に述べた通り、三人で構成されていて、当然私と先生だけではない。
探偵事務所きりまんじゃろの三人目は30代前半の綺麗な女性である。年齢は不詳というわけではないだろうが、誰に対しても秘密ということにしているらしい。名前は
私は彼女を紗月さんと呼んでいるが、彼女は年の離れた姉のようであり、母のような存在だ。彼女はきりまんじゃろの創設初期から雇われていたらしく、私は先生に引き取られた時から随分かわいがってもらった。
どのような経緯で紗月さんがきりまんじゃろで雇われることになったのか気になったので聞いたことはあるが、先生に働かないかと誘われたから、以外の答えはもらえなかった。本当に他に何も理由がないのか、言いたくないのかは分からないが、これ以上聞く利益はないと分かったので私はそれ以上聞くことはなかった。
そんなわけで、先生に集められた私や紗月さんを合わせた三人で「探偵事務所きりまんじゃろ」は仕事をしている。
朝8時になり先生の決めた始業時間になると、遠くで港の船が出発を知らせる汽笛を鳴らした。その汽笛を合図に、探偵事務所きりまんじゃろは今日も業務が始まろうとしていた。
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