きりまんじゃろ

@ore_strawberry

充満する赤

第1話 日野ゆきのいる世界

 雨が一日中強く降り続いていた。


 季節は秋。


 気温は9度。


 季節外れの寒さに待ちゆく人の装いは冬のそれである。


 時刻は14時。


 巨大な黒雲に包まれて外は昼間とは思えないほどに暗い。


 私は雨の匂いか、濡れた地面の匂いか、それとも冷えた空気のせいか、ふと懐かしさのような、胸がキュッと閉まるような思いがした。


 私は寒くなり始めた雨の日にどうしても思い出さずにはいられない。


 10年前、その日も急激な寒さで一日中雨が強く降り続いていた。


 私から家族が奪い去られた日である。



 ☆



 私は寝起きは良くない方だ、と思っている。実際、朝は強くはないし、寝ていられるならいつまでも寝ていたいと思うほどである。それでも朝の五時半には毎朝起床しているのは、やらなければならないことがあるからである。


 起きてすぐに顔を洗い、身支度を整えながら湯を沸かす。お湯が沸くと、温かい飲み物を淹れて、届いたばかりの新聞に目を通す。寝ぼけているからか、これに意外と時間がかかる。ひと段落する頃にはいつの間にか七時になっている。仕事に遅刻してはいけないので七時半までには家を出発し、八時には仕事場に到着する。


 今日もいつもと同じように家を出発した。気持ちのいい秋晴れに朝から心が晴れる気がした。街中も明治維新や文明開化と呼ばれる時代の変化など、開国したことにより流入してきた西洋の文化が多くみられるようになり活気に溢れている。


 私は開国した直後に生まれたので完全に鎖国していたころの生活や街の様子を知らないが、地方ではいまだにあまり変化が見られない場所も多く、そういった地域に赴くと、現在でも昔の暮らしぶりを感じることができる。


 私が良くしてもらっている街の年配の方たちは、口をそろえて昔は良かったなどと言っているが、私はレンガ造りやガス灯、服装も街の雰囲気全て西洋風のものの方が好きである。


 私の住むすぐ近くの横浜港は、世界で一番の貿易港だと自慢気に新聞や街の男たちは言っているが本当かどうかは疑わしいと思っている。


 私は海外というものがどれほど未知のもので、どれほど知らない世界が他に広がっているのかということの想像さえできない。ましてや海の向こうに違う言葉を話す同じ人間が存在しているということに未だに驚きを隠せない。


 私は海を見るのが好きなので、港から出ていく貿易船や、外国船をボーっと眺めていたりするが、たまに見る西洋の人間は同じ人間でも背が私の倍くらいあるように見え、鼻もとんがっていて目の色も綺麗な青色なのだ。


 さらに東京や横浜の技術を数十年は進歩させたと言われるほどの高度な科学を持ち合わせているとなれば、私はいよいよ恐れおののいた。いつもせかせかと横浜港で働いている男たちに会うたびに私の無知さや見ている世界のなんとちっぽけな事かを馬鹿にされてきたので腹が立っていたが、こればっかりは尊敬してしまう。私ならきっと外国の人の前に立っただけで怖気づいてしまうに違いない。


 市場を通り過ぎ、顔見知りといつも通り挨拶を交わしながら歩いていくと、目的の建物が見えた。私の職場である。


 市場や街の工場など人が賑わう区画からは少し離れたところにあるが、その建物は一際目を引くものがある。中心街こそレンガ造りや二階建ての建築物などがみられるようになったが、まだまだ庶民の暮らしは木製で平屋である。そんな中にポツリと、レンガともいえない石のような、何かでのっぺりと外壁を固めたような冷たい見た目の、それでいて清潔感があり窓には綺麗なガラスがはめ込まれている二階建ての細長い建物があるのだ。


 きっとこの建築物にも私の知らない西洋の巧みな技法が駆使されているのだろうが、それにしても異質である。そんな建物が私の仕事場なのだ。


 一階は喫茶店になっていて、名前は雅楽。喫茶店は東京でも未だ数えるほどしかない文化である。それなのに横浜港の少し外れに店を構えているのはこの建物の主の趣味嗜好である。


 私は一階の喫茶店のマスターに挨拶をして、喫茶店の店内に唯一ある奥の個室に入っていった。


 個室の中は高級そうな二人がけの赤いソファが向かい合わせにあり、その中央には木製の明るい色のテーブルがある。


 私は個室に入って、奥側のソファに腰掛けて新聞を読みながら珈琲を飲んでいる男に声をかけた。


 「先生、おはようございます。そろそろ時間です」


 私が先生と呼びかけたその男は、見識の無い私でもわかるほど質の良い、輸入したであろうスーツを身に纏っていて、髭を生やしてはいるが不潔感は全く感じない、手入れの行きとどいていることを感じさせる容貌をしている。しかし、その見た目からは年齢の予想は全くつかない。私ですら本当の年齢は聞かされたことがないのだ。若すぎるようには見えないが、かといって中年という雰囲気でもない、不思議な人間である。


 その男は私の声を聞いても何の反応も見せなかったので聞こえていなかったのかと思ったが、少しして新聞から目を離した。記事の内容がいい所だったらしい。顔を上げて私の顔を見る眼差しは鋭い。


 「日野君か。おはよう」


 男はそう端的に答えると素早く新聞を畳んで、それも一度広げた新聞をまるで真新しいもののように畳みなおし、席を立ちあがった。


 男は私に気を遣うことなくどんどん歩いていき、店のさらに奥の階段から二階に上がっていった。


 二階に上がるとすぐに立て看板が見える。


 「探偵事務所 きりまんじゃろ」


 そう大きく平仮名で書かれた看板の奥に私の仕事場がある。

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