2 解体

「花南、辛いなら代わろうか?」

 教会の管理人である阿弥あやが私の肩に触れた。彼女は先月、この教会でふたりの婚約を祝ってくれたばかりだ。私と遠止美は、彼女の前で誓いを交わし合ったのだ。

 遠止美の死骸を横たえた寝台を前に、静止したままの私。葬儀の前に、血で汚れた彼女を綺麗にしなければならない。それは村で唯一の医術者である私の役割だ。死骸を整え、遺体へと変える。死という惨たらしい現実を化粧で覆い隠す仕事だ。『小さな幸せ』を維持する為に、そうせよという神の導きだ。彼女の死骸を目の前にした時から、頭の中でさざ波のように寄せ返し囁きかけてくる。

「大丈夫、私の役目だから。阿弥こそ、あんまりここにいたら、あなたの幸せが損なわれてしまうよ」

「気にしないで。こういうことに強いようにできているから」

 阿弥は傷ひとつない頬を撫でた。表情にこそ出さないが、不安を和らげようと小さく身を抱き寄せている。彼女は生まれながらに生死に関わる役目を与えられている。葬儀によって死を誤魔化し、『小さな幸せ』を保つ仕事だ。故に、阿弥自身が強い抑制と神への信仰によって、悲しみへの耐性を身に付けているのだ。そんな彼女でも、未だかつて殺された死体には出会ったことがない。悲しみよりも戸惑いの方が強いのかもしれない。

「そうだったね。阿弥は我慢強いからね」

 彼女の動揺を見逃したふりをして、力なく微笑んでみせた。

「ちょっとだけ、ふたりきりになりたいの」

 阿弥の手をすこしだけ握り返して、そう言った。

「わかった。けど、変な気は起こさないでね」

 彼女はしばし間をおいて、私の手を離した。私が皆の『小さな幸せ』を壊すような不幸を呼び込むのではないか、と心配しているらしい。それでも彼女は私を信頼して、あるいは神を信じて、遠止美の死骸と憔悴した私を残して部屋を出て行った。

 一安心だ。これから行うことを彼女に見られるわけにはいかない。

 私は懐に忍ばせていた小刀を取り出した。仰向けに横たわった遠止美の顎を上げ、射貫かれた頸を露わにする。死亡してからすでに数時間経っている。久比貴が矢を抜いたことにより血抜きが行われ、傷口の血は固まり始めている。仕留めたあとの獲物と同じで、内臓こそ抜いていないものの、死骸の処理が程よくなされている。矢を抜いたのも狩人の役目を与えられた久比貴の手癖の様なものかもしれない。

 私は握り込んだ小刀を傷口にあてがい、鏃の侵入方向に合わせて頸の肉を切り取っていく。簡易的な解剖だ。私はどのように彼女が死に絶えたのか、詳しく知る必要がある。

 それに私は久比貴のことを疑っている。

 この村では神の導きに従ったと言えば、すべてが許されてしまう。導きがあったか否かについては、調べればすぐに判ることだ。しかし、導きを受けてどのような選択をするかについては、その人次第である。他人がなにを考え、なにを思っているか。それは神のみぞ知ることで、私たちには推し量ることしかできない。

 狩人の役目を与えられただけあって、久比貴の視力は人一倍優れている。神の導きで獲物が得られるとはいえ、最終的に矢を放ち捕らえるのは狩人の力量にかかっている。その点でいえば、久比貴は村の中でも随一の名手だった。獲物の急所を過たず、正確に射貫くことができる。そんな彼女が遠止美を射殺した。神の導きがあった方向を射ただけだと、まるで事故のような口ぶりだったが、まさか導かれた獲物の正体が何であるか気付かぬはずがない。彼女は獲物が人だと判っていて、それでも導かれたからと射殺したのだ。

『天啓だったの』

 神の意志に従った人間に罪はない。その行為に罰はない。だが、そんなこと許せるはずがない。

 久比貴がなにを考えていたか。私はそのために証拠を見つけなければならない。

 矢が引き抜かれたときに、多少手荒になったのだろう。もしくは一度、矢を折らぬまま引き抜こうとしたのかもしれない。頸に開いた穴は、肉が乱れて突き刺さった状態よりも広がっていた。解剖といっても、特別な知識があるわけでもなし。医者の役目があるとはいえ、はじめて人間の肉を捌いた私には、どちらから矢がどちらに抜けて行ったのか、一見しただけでは判然としない。

 加えて言うなら、医者の仕事に特別な知識は必要ない。神の導きに従うだけで済むからだ。薬の調合や処方、傷の手当てなど、すべて神が頭の中で囁き、私の手を引いて導いてくれる。村の役目とは、ほとんどがそのようなごっこ遊びなのだ。煩雑な手順や負担の大きい仕事は『小さな幸せ』を妨げることになりかねない。それらをある程度の負荷に抑える為、神の導きがある。複雑な工程を、指示に従うだけの単純作業へと変換することができる。努力も苦労も知らないこの機構を、理想的だと感じる人間は少なくない。神への信仰の根底にあるのは、即物的な現世利益に他ならない。

 私は真似事医者なりに経験を積んでいった。導きに従う操り人形ながらも、その工程を記憶して、自分なりに人体に関する知識を手に入れて行った。私が自信をもって遠止美の身体を傷付けることができたのも、経験則で手に入れた医療知識のおかげだった。

 あらかた傷口を覆っていた頸の肉を取り去ると、甲状腺軟骨が露わになる。扁平なひし形状の穴がくっきりと見てとれる。矢は甲状腺軟骨の中心点を正確に射貫いている。さらに、軟骨を慎重に引き剥し、穴を辿り気管や食道を取り去る。そうして五番目の頸椎にぶつかり、その骨を割裂いている。しかし、貫通することはなく、矢の直線軌道は右側面に逸れる。深く溝を引きながら横突起の隙間を縫って突き抜けたようだ。突き抜ける際に、鏃は縦ではなく水平面、より幅の広い形で抜けたらしく、頸を通る動脈を切り裂き、脊髄までも断ち切っている。

 背面や体側から射られたのであれば、頸椎の正中が割れることなどない。つまり、真正面から射ぬかれ、頸椎で威力が減衰したのちに、右体側に逸れて背面に抜けた。

 如何に強弓とはいえ、軟骨を貫通したばかりか、頸椎を割るほどの威力で頸を貫いている。弓の最大射程は3~400メートルとも言われているが、100メートルと離れていない所から放たれたものではないだろうか。

 私はふと、殺害現場の地形を思い起こす。蓮華草の群生地は、なだらかな草原のただ中にあり平坦な地形が広がっている。見通しが良い地形だといえる。そこから70メートルも離れると、森の木々と村境の茂みが囲んでいる。射線が遮られ、矢が通るとは思えない。その程度の距離、狩人の久比貴ならば個人を判別するぐらいわけないだろう。まして、獲物が人間であることは間違いなく理解できる距離だ。

 加えて、気になるのは甲状腺軟骨を射抜いている点。頸を立て、姿勢を正すと、この軟骨は顎に隠れることになる。しかし、顎に矢が当たった痕跡はなく、皮膚には傷ひとつない。遠止美は射られた時に、顎を上げた姿勢だったということになる。空を仰ぎ見ていたのか、遠止美の視線が天に向かった瞬間を、真正面から矢が飛来した。

 狙って頸を射たのか? 狩人が獲物を狙うには、頸は急所として的が小さすぎる気がする。胴体を狙うつもりで上方にずれたのだろうか。それにしては体の中心線を正鵠に捉えている。偶然頸を射た、というのは狙いが不自然だ。

 久比貴は獲物の対象が人間――遠止美であることを認知した上で、わざわざ首筋に狙いを付けて矢が放たれた。外すことのない近い距離から。

 そこには天啓という言葉では隠しきれない殺意が潜んでいるように感じられた。彼女に矢をつがえさせる理由を、私は十分に知り得ていた。彼女は遠止美に気があった。彼女に気があったのだ。

 私の脳裏にはひとつの情景が浮かんでくる。久比貴が遠止美に矢を射かける場面を想像する。

 天啓の訪れ。脳裏に響く導きは、久比貴に矢をつがえさせる。それは久比貴にとって願ってもいない機会だった。しかし、狩人の姿は獲物からも視ることができる距離だ。おそらく、天啓は狩人だけでなく、獲物に対しても導きをもたらしたに違いない。導きを与え、選択を迫ったのだ。生か、死か。誰を犠牲にして、誰を生かすのか。そういう選択を遠止美に迫った。私も彼女も、生死を選ぶ立場にあることは十二分に承知していた。

 選択の結果、遠止美は自らの喉を晒した。遠止美は自らの死を選んだ。

 狩人を正面に見据え、瞳を閉じて顎をあげた。狙いやすいように、生白い頸を差し出した。

 久比貴は遠止美の身体の美しさを愛していた。愛していたからこそ、傷を残すことを嫌がった。例えば、その乳房だ。心臓を穿てば、豊かな双丘を汚すことになる。久比貴にとっては耐え難いだろう。遠止美も彼女の身体への偏執を知っていたからこそ、喉を明け渡した。顔や身体に可能な限り傷を残さず獲物を仕留めようとすれば、自然と頸を狙うことになる。

 久比貴の動機についても、思い当たらぬ私ではない。

 傷だ。私が遠止美の身体に傷を与えたからだ。もっとも決定的な傷跡を、全身に残る幾多の傷とは意味合いの異なる致命傷。女である遠止美への、致命的な傷を残したからだ。

 ここまで考え、久比貴の殺意を確信した。

 解剖を終え、次の作業に取り掛かろうとする。

 私は遠止美の下腹部、そのさらに奥。股間へと手を伸ばし、私たちの罪の証を切り取ろうとした。

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