天啓的な幸せ
志村麦穂
1 死体
「お人形みたく無慈悲に死にたいわ。だって、彼女の肢体は切り刻まれる。壊れてはじめて美しさに気付くのですもの」
彼女は口癖のように呟く。
「虫けらみたく無口で蹂躙されたいわ。だって、彼らは苦痛や死にも静かなまんま。理不尽に憤慨する脳みそすら持っていないのよ」
時には、小さな我儘を。
「求められた証が欲しいわ。背くらべした柱みたいに、ひと目でわかればなおいいわ。欲なんて簡単に忘れてしまうものだから」
彼女の求めに従って、私は手を伸ばす。大小、長短、様々な傷跡を、指でなぞれば再生できるレコードの溝のように赤く線引く。歯を使って、爪を使って、ガラス片を使って、刃物を使って。割れた私の心の断片を使って。小さな欲望を噛み締め、忘れないよう、彼女の体に刻んでいった。やがて彼女には、全身に広がる刺青のように、幾何学の直線、曲線の縞模様を肌に表した。
私が彼女と裸で向かい合う時、無数の筋が肌の蒸気に合わせて白く浮かび上がる。あるいは、蒼白になった肌に合わせて、赤黒く沈んでいる。私が刻み込んだ、私たちの証。ふたりで指折り数えた、小さな幸せの数。たくさんの不幸せの数。相をなし、層となる。
私が傷付けるのは、私が選んだこと。誰に見つけられたのでもない、私の密やかな欲望を覚えておくため。希薄な私の、ぼんやりとした自我を、小さな欲を重ねて濃くしていく。
彼女が傷付けられるのは、彼女が選んだこと。痛みと証で、彼女を固定する。生の正体を、うすら寒い幸せに希釈されないように、愛欲と血で染めるため。
『小さな幸せ』が頭の中で響く度に、私たちは身を寄せあった。傷を確かめ、私たちがにじんでいくまで抱き合った。そうでもしなければ、『小さな幸せ』に溺死させられる。神の与え給う『小さな幸せ』は、私たちから形を奪おうとする。ゆったりとした溶岩のごとき愛欲の形を。絡みつく荊のごとき嫉妬の痛みを。夜闇に落ちる影法師に似た加虐衝動を。真っ白で無機質な温もりに塗り替えてしまう。
人間にわずかばかり許された尊厳の欠片である欲望。その欲望を思うことさえ、奪い去ろうとする。否、そのために植え付けられた神様なのだ。頭のうちで『小さな幸せ』を囁き続ける、私たちの神。我欲を中和し、導きを与えて思考を鈍らせる。
神は考えない救いを与えて下さる。神は感じない救いを与えて下さる。
反吐が出る。
穏やかな陽だまりに包まれた、薄ぼんやりと白んだ『小さな幸せ』の支配する世界。苦しまない、痛みのない、けれども愛のない。愛ほど強い欲がない。ただあるためだけにあるせかい。神は私たちを抑制し、緩和させる。
私たちはずっと、ふたりだけの反抗期を続けた。『小さな幸せ』で満たされた世界への反抗。復讐だ。仕返しだ。
私は彼女に傷を与えた。ずっと深くて、消える事のない濃密な傷。
彼女は私に痛みを与えた。芯に沈み、脳裏に刻まれる痛み。
互いに下腹部をさすり合う時、じんわりと深奥から溢れ出す熱を感じる。欲望の熱量。私たちは愛し合った。欲望を交換して、昂り合わせ、濃縮した。
確かに私たちは愛し合ったのだ。
傷と痛みを交わして、真に幸せな熱を手に入れたのだ。
みだらな熱に浮かされた夜が過ぎた。
私は神への復讐を腹に宿していった。
「やぁ、
村のはずれ、垣根のように村境を囲った小藪を掻き分けた先に広がる、蓮華草の群生地。ここら一帯の蓮華草の花は菫色ではなく白い。花弁だけでなく、茎や葉、根に至るまで色素が抜け、光を拒絶している。蓮華草の中心に立つ久比貴の足元には、弦が張られたままの弓が放り出されている。鹿角とイチイを組み合わせた、女だてらに張力の強い弓を使っている。獲物を射るには十二分な速度と威力を発揮する弓で、恐らく村で彼女以外に仕える者はいない。女だてらに、なんて随分懐かしい表現だ。基本的に、村には女しかいないのだから。
「なにがあったの」
私は彼女に問い質す。私の目から見ても自明に思えたが、そう問いかける以外に言葉をもたなかった。苦し紛れの一言だ。いいや、苦しみを見越したうえで、自分の心に準備させるために放った予兆の一言だった。何が起きたのかは、聞かずとも一目瞭然だった。
「私の口から訊きたいの? それが道理かもね」
久比貴は虚ろに嗤った。
彼女とは村での幼馴染で、年頃も近く付き合いの深い方だ。私と
「天啓だった。いつものように神様にお祈りを捧げたんだ。私に獲物を授けて下さるよう」
久比貴は掻き消えそうな、か細い囁きを風に乗せた。風下に立つ私へと、その匂いと共に言い訳を届けた。森とは正反対の、村の舳先にある波打ち際の匂いがした。生命が溶け出した、潮の香りだ。私の身体も開けば、同じような匂いがすることだろう。
「神様の声が聞こえた。船尾側、11時の方向、向かい微風。そう示してくださった」
神の声――天啓は私たちに『小さな幸せ』を与える。それは彼女に獲物の在処を教えたのだろう。食いっぱぐれることのない、彼女と村の人間がわずかに腹を満たせるだけの恵み。飢えない、という神の規定した『小さな幸せ』だ。
「私は導きの通りの方角に狙いをつけた」
そうして指示通りに矢を射た久比貴は獲物を得た。
彼女の周囲に咲いた白い蓮華草が赤黒く染まっている。鮮やかにその花弁を色づかせている。森が燃え盛るように赤く染まった、晩秋の紅葉を思い出した。白いただ中に、彼女の周りだけが深い秋に彩られている。
深く、紅い、秋の情景だ。
「そうだ……すっかり言い忘れていたけど」
久比貴は思い出したように、ふと視線を浮かび上がらせた。
黒曜石のような、透明感のある黒い両の瞳が、私を正面から捉える。きっと、狩りをするとき、彼女は同じように純真な眼で獲物を見ているのだろう。私や遠止美とは違い、濁りのない澄みきった瞳だ。まるで神の声を、心から信仰しているとでもいうように。私たちへのあてつけのように、純粋ですこしの疑いも孕んでいない瞳だ。私は彼女の、そういうところがちょっとだけ苦手だった。
「婚約おめでとう。花南、遠止美」
彼女はすっきりとした表情でいう。
「あなたの婚約者は、私が殺してしまったよ」
赤い、真っ赤な、血染めの蓮華草。彼女は死骸を抱き締めていた。遠止美の死骸。
久比貴の腕の中には、血を流し続ける遠止美の身体がある。頸の動脈を射ぬかれ、どぷり、どぷりと粘ついた血液を吐き出し続ける壊れた身体があった。久比貴の左手には、へし折られた矢の片割れが握られていた。遠止美に刺さった矢を抜こうとしたときに、ふたつに折ったのだろう。矢は頸を貫通していて、矢尻側と矢筈側に分けて抜かざるを得なかったのだとわかる。矢を抜かなければ遠止美は延命できただろうか、と考える。もう意味のない議論を頭のうちで繰り広げる。
なにもかも手遅れで、中身の抜け出した、空っぽの抜け殻だ。こうなってしまえば、人形とどう違うだろうか。いかほども変わらないだろうか。
「天啓だったの」
久比貴は繰り返した。自分の無実を強調するように。
彼女の体に傷がついた。
私以外の女の手で傷付けられた。
ただそのことだけが、どうしようもなく許せなかった。
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