第43話 自分の色で

「女の匂いがする」


 朝、教科書やノートを机の物入れに移していたとき、俺の前の席に座った真壁が鼻をひくひくさせたあとそう言った。


「さわやかで甘い女の匂いだ」

「どうした? まだ寝ぼけてんのか?」

「その匂いはお前からする」


 どきっ。


 心当たりはある。ここにくる直前に夕愛と濃厚なハグをした。


「お、俺のデオドラントの匂いだろ」

「いや、若い女の体臭だ」

「なんだよその妙な自信は」

「この芳香はラクトンC10、C11特有のものだ。しかも濃厚。それらの分泌量は十代後半がピーク。つまりお前はさっきまで十代後半の女と一緒にいたうえ、衣服に匂いが染みこむほど密着していたことになる」


 ぞっとする。麻薬探知犬かなにかか。


 しかしこれはいいきっかけかもしれない。夕愛と正式に付きあいはじめたのをことさら喧伝するつもりはないが、世話になった人たち――こいつや石水さん、夕愛のお兄さん――には伝えたいとは考えていた。


 ――でもなあ……。


 真壁の顔を見る。カノジョができたなんて話したら、一ヶ月間は皮肉を言われつづけるのを覚悟しなければならないだろう。


 言うか言うまいか迷っていると、真壁が眉間にしわを寄せた。


「お前、まさか……」


 いい前振りだ。


「そのまさかだ。――カノジョができた」


 さあどんな皮肉、ボケ、罵倒を投げかけてくるかと身構える。


 真壁はしばらくぽかんとしたあと苦しげな表情でうつむいた。よく見るとチワワみたいにぷるぷると震えている。


「お、おい、大丈夫か……?」

「出間」


 顔をあげる。そしていつもの薄ら笑いを浮かべた。


「おめでとう」

「………………え?」

「カノジョができたんだろう? おめでとう」

「……ありがとう」


 ――……ん?


 これもなにかの前振りだろうか。しかし真壁はそれ以上、口を開こうとはしない。


「それだけ?」

「もっと祝えと?」

「もっと呪えよ!」

「お前はなにを言ってるんだ」


 真壁は呆れたように吐息をした。


「俺が友人の幸せを素直に祝えない人間に見えるというのか」

「いうんだよ」

「だろうな」


 と、深く頷く。


「俺はな、お前をライバルだと思っている」

「そうなの?」


 初耳だ。俺はまったく思ってなかったんだが。


「どちらが先にカノジョができるか、のな。だから悔しくはあるが、負けたのなら素直に祝福しようと、前からそう決めていた。想定よりもずっと早かったがな」


 そしてもう一度、しっかりと俺の目を見て「おめでとう」と噛みしめるように言った。


「真壁、お前……」


 胸がじんとする。


「俺、お前のこと――」


 勘違いしていた。そう言おうとした、そのとき。


 真壁が真剣な表情で、声をひそめて言った。


「で、そのカノジョは友だちが多いのか?」

「え? あ、どうだろう。多いとは思うけど……」


 すると彼はそわそわとしだした。


「そ、そうか。それだけ顔が広いと、あれだな、いろいろ誘われるだろ」

「いろいろ、って?」

「ご、合コン的な」

「……」


 言わんとしていることを理解した。と同時に、先ほどまで胸に湧いていた感動が雲散霧消する。


 真壁はもじもじしながら言う。


「も、もしも頭数が必要だったら、俺が参加してやっても――」

「このダボハゼゴミクソ人間」

「ダボハゼゴミクソ人間!?」

「俺の感動を返せこの野郎」

「お前はカノジョができた。俺はカノジョを作る機会を得られる。Win-Winだろうが」

「俺のWinにお前はなにも――」


 関与してない、ことはない。夕愛の情報は彼からもたらされたし、言葉に勇気づけられたこともあった。


「……」

「というわけで友だちの紹介、頼んだぞ」

「……まあ、気が向いたらな」


 真壁は驚いたような顔をした。


「なんだ急に、聞き分けのいい」

「お前が言い出したんだろうがっ」


 予鈴が鳴る。真壁は俺の肩をぽんと叩き、目を逸らしながら、


「まあ、べつに無理しなくていいからな」


 と、言い残し、自分の席へもどっていった。


 ――素直じゃねー奴。


 俺は肩をすくめた。





 昼休み、自販機にパックジュースを買いにいこうと階下へ向かうと、ちょうど石水さんが階段を上がってきたところだった。いつかのように友人をふたり伴い、談笑している。


「石水さん、ちょっといい?」


 少し躊躇したが、俺は呼びとめた。石水さんは俺の顔を品定めするみたいに見たあと、友人に「先に行ってて」と声をかける。


 友人たちが去ったあと、石水さんは腰に手を当てて言った。


「で?」

「石水さんに報告したいことがあって」

「夕愛と正式に付きあいはじめたって聞いたけど」


 そりゃそうか。ふたりは親友だ。俺なんかより先に夕愛が報せるのが自然だ。


「そのうえでわたしに報告したいことと言えば――」


 石水さんは俺に顔を近づけて、少し声を落とした。


「ヤッたんでしょ?」

「ヤッてないわ!!!」


 通りがかった生徒たちがぎょっとしたようにこちらを見た。


「どこの世界に『あなたの友人と致しました』なんて報告する奴がいる……!」


 石水さんは苦い顔をする。


「下品」

「そっちに言われたくない……!」

「え、じゃあ純粋に、告白して付きあいはじめましたって報告だけ?」

「そうだけど……」


 石水さんは大仰にため息をつく。


「スタートラインに立ったってだけじゃん」

「で、でも、俺たちはなんというか、特殊な関係で。ここまで紆余曲折が――」

「どうせ夕愛の告白をあんたが保留してたとかそういうことでしょ?」


 ――八割方当たってる……!


「でもその言い方は誤解がある! 決してヘタレて保留したわけじゃなく、あくまで夕愛のことを考えてだな――」

「あ、そういうのいいから。よく分かんないし。わたし恋愛経験ないから」

「………………へ?」

「なにその顔」

「だ、だって前に、遊びで付きあうなんてふつうでしょ、とか言ってたのに……」

「そういう演技」

「嘘だろ……」

「男子が目を合わせてくれないんだよね、なぜか」


 ――『だって怖いから』って言いてえ……!


 俺は喉まで出かかった言葉をぐっと飲みこんだ。


「それに、恋愛なんてなにがいいんだか理解できなかったし」


 ――まあ、そういう欲が薄い人間もいるだろう。


「……ん? 『理解できなかっ』?」

「あんたらのことを見てたら、ね」


 と、顔を逸らす。


「とにかく、ここがゴールじゃないんだから、浮かれるのはほどほどにしなよ」

「あ、ああ」

「で、さ。わたしにもっと恋っていいなって思わせてよ」


 石水さんは微笑んだ。ちゃんと笑った顔を見たのは初めてのことだった。


「じゃ」


 しかしすぐにつんとした顔にもどり、すたすたと階段を上がっていってしまった。


 俺はその背中を見送りながら思った。


 ――あんな顔を見せたら、すぐに男子が寄ってくると思うんだけど……。


 石水さんがそれに気づくのはいつになることやら。





 学校から家への帰り道、隣を歩く夕愛は手に白い息を吐きかけた。冬が近づき、日が傾く時間になると、ぐっと気温が下がってくる。


 俺はもう一度、夕愛のほうを見た。


 ――マフラーって良いな……。


 制服にマフラーって、どうしてこうも魅力的なのだろう。マフラーなんて防寒具を着けているわりにタイツも履かず生足なのも、温かくなりたいのか寒くなりたいのか訳わかんなくて愛おしい。


 夕愛はちらちらこちらに目を向けながら、もう一度、自分の手に息を吐きかけた。


 ――……あ、そうか。


 夕愛の言わんとしていることに気づいた。


「はい」


 俺はポケットからとりだした手袋を夕愛に差し出した。


「これ使って」

「違うでしょ!!」

「俺は大丈夫だから」

「遠慮じゃなくてっ」

「カイロ買いに行くか?」

「でもなくて! ……もう!」


 と、夕愛はかっさらうみたいに俺の手を握った。


「こうでしょ」

「あ、そ、そうか、なるほど」


 人前で触れあうのを避けていたときの癖がまだ抜けない。とはいえ大っぴらにいちゃつく度胸もないのだが。案の定、恥ずかしくて夕愛のほうを見れなくなってしまう。俺は照れくさくなって話題を変えた。


「そ、そういえばさ、付きあいはじめたこと友だちに報告したわ。あと石水さんにも。できたら夕愛のお兄さんにも報告したいんだけど、迷惑じゃないかな?」

「大丈夫だと思いますよ。っていうか誠汰くん真面目だね」

「だってお世話になったし……」

「じゃあさ――」


 と、俺の顔を覗きこむ。


「両親にも挨拶してくれる?」


 にやにやした悪戯っぽい表情。からかう気満々だ。


 俺はしばし考えたあと、言った。


「いずれな」

「……え?」


 俺の返事がよほど予想外だったらしく、夕愛は目を大きく見開いた。


「そ、そんな安請け合いしていいの?」


 自分で言い出したくせに。


「だって別れるつもりはないんだから、いずれそうなるだろうし」

「……」


 夕愛は顔を真っ赤にしてうつむいた。


「ま、真面目――ううん、クソ真面目」


 夕愛は意外と反撃に弱い。その証拠に、こんな威力の弱い憎まれ口しか叩けなくなっている。


「そ、そういえば冬休みはどうする?」


 と、今度は夕愛が話を変えた。


「夕愛はどうしたい?」

「わたしは……、とりあえず髪の色を変える」

「……え?」


 とうとつなイメージチェンジに何度も振り回されてきた俺は、思わずまじまじと夕愛をした。


 一瞬きょとんとした夕愛は慌てて訂正した。


「ち、違うよ? なんかあったわけじゃなくて、お兄ちゃんがタダでやってくれるっていうから」

「な、なんだ、びっくりした……」


 俺は胸をなで下ろす。


「何色にするんだ?」

「うーん……。せっかく休みだし、攻めてみてもいいと思うんだよね。ブルーアッシュとかー、インナーカラーにピンクを入れるとかー。あ、ラベンダーベージュもいいよねー。やばっ、夢が広がる!」


 夕愛は目をきらきらさせている。以前のようにひとの顔色を窺うような様子はない。


 その弾けるような笑顔に思わず見とれてしまう。


「ん? なに?」


 夕愛は小首を傾げた。


「い、いや、べつに」

「大丈夫大丈夫。カラーを入れたら一番に誠汰くんに見せてあげるから」

「ああ、楽しみにしてる」


 俺は言う。


「何色でも、きっと似合うよ」

「うん……!」


 夕愛は強く俺の手を握る。俺はその手を握りかえした。


 これからも夕愛にはたくさんからかわれるし、やきもきすることも多いだろう。


 しかし、自信を持って言える。どんなにイメチェンしても、きっとこの気持ちは変わらないと。

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