第42話 これが好きだから
例の会食が催される日の午後五時半ごろ、俺は夕愛のマンションのすぐ近くを歩いていた。
昨日、俺と夕愛の関係が変わった。あのあと彼女をこのマンションまで送ったとき、去り際、
「そういえば明日の六時、お母さんにここに迎えに来てもらうんですよ」
と、夕愛は言った。
まるでここで言おうと用意していたかのような妙にはっきりとした口調だった。直前まで気恥ずかしさのせいでぎこちない会話をしていたから余計に不自然さが目立った。
しかし俺はすぐにぴんとくる。俺に激励に来てほしいのだと。関係性が変わっても、あいかわらずの甘え下手だ。
――まあ、そんなところも可愛いんだけどな。
「なんてな……!」
ナチュラルにのろけてしまったのが照れくさくて思わず声に出してしまった。
角を曲がり、マンションの入り口へ向かう。
と、入り口正面に停まる車に覚えがあった。
――杏樹さんの……、だよな?
俺は植え込みの陰に隠れ、近づく。やっぱり杏樹さんの車だ。あたりはすでに暗くなりはじめているため中は見えず、乗っているかどうかは分からない。
早めに来たつもりだったが一歩遅かったようだ。予定が変わったのだろうか。
だとしたらばたばたしているだろうし、直接会うのは控えたほうがいいだろう。メッセージだけでも送っておこうとポケットからスマホをとりだしたとき、マンションの入り口から誰かが出てくるのが見えた。
夕愛だ。その服装は、黒のタートルネックにデニムのショートパンツ。アウターにはボアつきのライダースジャケット、足元はロングブーツ。
昨日のガーリッシュな服装とはまったく違う、俺にとっては見慣れた夕愛のファッション。
夕愛は一度立ち止まって、意を決したように停まった車のほうへ歩く。
車のドアが開く音がした。杏樹さんが車を降りたようだ。夕愛が、俺の横を通りすぎたところで止まった。
「わたしが用意した服は?」
杏樹さんが尋ねた。怒っている様子はない。ただただ意外そうな表情に見えた。
「きょ、今日は、これで行きたい……」
夕愛の張りつめた声。手にとるように緊張が伝わってくる。
「急にどうして?」
「……っ」
口を開くが言葉が出てこない。
気づくと俺は痛くなるくらい手を握りしめていた。
――頑張れ……、頑張れ……!
夕愛は大きく息を吸いこみ、
「こういうのがっ、好きだから……!」
ぎゅっと目をつむってそう言った。
「い、一番、気分があがるし、わたしの気持ちと、ぴ、ぴったりっていうか、馴染むっていうか……。わたしらしいって、そう思えるの。――だから、これで行きたい!」
「……」
「わがまま言ってごめん……」
夕愛はうなだれるように顔を伏せた。
杏樹さんはしばらく考えるように黙っていたが、やがておもむろに夕愛のほうに手を伸ばした。
夕愛はびくりと身体を震わせる。
杏樹さんの手は夕愛の頭を撫でた。
「こっちこそごめんね」
「え……?」
「あ~あ、趣味じゃない服を着せられる息苦しさは、誰よりも知ってるはずだったんだけどなあ」
と、天を仰ぐ。
「夕愛のことを、自分の若いころと重ねちゃってたのかも。親子と言ってもべつの人格なのに」
「怒って、ない……?」
「怒るわけないじゃない。ただちょっと寂しくもあり、嬉しくもあり」
杏樹さんは夕愛を抱きしめ、後頭部をぽんぽんと叩いた。
「まあまあ悪くないセンスだよ。さすが我が娘」
「お母さん……」
夕愛は杏樹さんの肩に顔を埋めた。そして何度もしゃっくりをする。
杏樹さんはいっそう強く夕愛を抱きしめた。
「寂しくさせてごめんね……。本当にごめん……!」
彼女の声も震えている。
俺の目と鼻から涙やら鼻水やらがだらだらと垂れ落ちる。音をたてられないから嗚咽をあげることも鼻をすすることもできず、たれ流しである。
杏樹さんは夕愛から身体を離した。
「ほら、もう泣かないの。これからひとと会うんだから」
と、夕愛の目元を指先で拭ってやる。
「うん……」
「コンビニに寄らないとね。まぶたを冷やさないと」
杏樹さんは柔らかな笑みを浮かべて見つめる。
「ところで、どうして急にこうするつもりになったの? もしかして――」
優しげな微笑みが邪悪に歪んだ。
「誰かさんに勇気をもらった?」
「え!? そ、それは、えっと……」
「その誰かさんはわたしの知ってるひとかな~」
「!!!」
夕愛は耳まで赤くした。
「うっふふふ」
肩を揺すって笑う杏樹さん。
「さ、そろそろ出ましょう。ほら、乗って乗って」
「うん」
促されて、夕愛は助手席に乗りこんだ。
杏樹さんが運転席のドアに手をかけ、振りかえる。
そして言った。
「ありがとうね、誰かさん」
「っ!?!?」
――バレてた……!?
彼女はさっきと同じ悪戯っぽい笑みを浮かべ、車に乗りこんだ。
エンジンがかかり、車はマンションの前から離れていく。俺は植え込みの陰から出た。
――敵わないな……。
思わず苦笑いが漏れる。もしかすると彼女らのDNAは俺に特効があるのかもしれない。
ふたりを乗せた車のテールランプが見えなくなるのを俺はぼんやりと見送った。
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