第41話 悪くない後悔
「え、ちょ、夕愛……!」
止める間もなく、夕愛のブラウスはベッドの上へ放り投げられた。
素肌と下着がさらされて、俺はフクロウみたいに顔をそむける。
「ど、どうした。落ち着け」
衣擦れの音。ぱさっとベッドになにかが落ちる音。スカートも脱いでしまったようだ。
「見てください」
「それは、ちょっと……」
「なんでですか」
「だって、過度な露出は――」
「そのままのわたしが一番なんですよね? だったら見てください」
夕愛がかたわらまで歩み寄ってきた。俺はますます首をねじる。
「そのままっていうのはそういう意味じゃなくてだな――」
「じゃあどういう意味ですか」
「あ、あくまで夕愛らしくということで――」
「分からないよ! こうしてるのはわたしなのに!」
悲痛な声に俺は黙るしかなかった。
今、必要なのは理屈ではないんだ。雨が降ってずぶ濡れのひとに「いつか雨はやむよ」と声をかけたところでなにも解決しない。
不安にさせているのは杏樹さんじゃない。俺だ。『そのままの夕愛が一番だ』と言っておいて、彼女からの好意をのらりくらりとかわしているのだから、自信を持てないのも当然だ。
そのとき、カーペットにぽたりと雫が落ちて、小さな染みを作った。
ちらりと夕愛を見あげる。
彼女は泣いていた。大きな瞳から溢れた涙が頬を伝い、顎からしたたり落ちる。
白い肌、薄いブルーの下着、立体感のある胸、くびれた腰が視界に入っているが、俺の意識はほとんど夕愛の顔に向けられていた。
頬と鼻の頭を赤くして、きれいな顔をくしゃりと歪めて泣く、彼女の顔に。
どきりとした。不謹慎と思われるかもしれない。でも俺は、今まで見たどんな表情よりも、その泣き顔が可愛いと思ってしまった。
夕愛は両腕で顔を隠した。
「や、やっぱり見ないで……」
「どうして」
「今、ブサイクだから……!」
長年、俺の心を守っていた壁が、ふくらんだ彼女への気持ちに負けてぱたんと倒れた。
せき止めるものはもうない。
俺は立ちあがった。彼女と向かいあい、言う。
「すごく可愛い」
「……え?」
顔を隠していた腕が下ろされる。
きょとんとした表情。俺は夕愛の肩をつかみ、くちびるにくちびるをくっつけた。
すぐに離す予定だったが、その感触の柔らかさ、心地よさに負けて、数秒のあいだくっつけたままにした。しかし夕愛は抵抗することなく受けいれる。
顔を離す。目と目が合う。
夕愛は大きく目を見開き、顔をそらした。彼女のほうが先に照れてそっぽを向くなんて初めてのことだった。
照れくささと幸福感と、ちょっとした優越感。
「ね、粘膜の接触は、禁止だったと思うんですけど」
夕愛は妙に甲高い声で言った。
「そうだな」
「駄目じゃないですか」
「駄目だな」
「……じゃあ、どうするんですか?」
「そうだな。じゃあ――」
俺は言う。もう後悔しないために――。
――いや、違うな。
文化祭のときに感じたあの気持ち――『悪くない後悔』をするために、俺は一歩、歩みを進めることにした。
「『カノジョのつもり』、やめろよ」
「……それって」
「もう
夕愛は上目遣いに俺を見つめる。
「じゃあ、わたし……」
俺は頷く。
夕愛の顔は笑っているようで、泣いているようで、喜んでいるようで、照れくさそうもあり、いろんな感情の満漢全席のようだった。
「誠汰くん!」
その感情がどかんと爆発したらしい。ものすごい勢いで俺の胸に抱きついてくる。
「がふっ!?」
肺の息がすべて押し出される。そのうえきつく締めあげられて呼吸もままならない。下着姿の女の子に抱きつかれているというのに興奮する余裕すらない。
「ゆ、夕愛……、し、死ぬ……!」
「わたしも、幸せすぎて死にそう……」
――こっちはふつうに死にそうなんだよ……!
そのときとうとつに腕の力がゆるんだ。俺は肺一杯に空気を吸いこみ、吐きだす。
――助かった……。
夕愛は目を伏せ、一転、湿った声で言う。
「一番最初に、誠汰くんに出会いたかったな……」
夕愛の過去の経験は『悪くない後悔』に分類することはできない。俺が消してやることも。
「夕愛」
俺は夕愛の顔を両手ではさんで正面に向けた。
「は、はいっ」
「今、俺はここにいる」
「……? う、うん」
「夕愛を好きな俺が」
「……」
「だから夕愛は、今ここにいる俺だけ見てればいい。過去の後悔にも、未来の不安にも目を向けずに」
「……うん」
俺は夕愛の顔から手を離し、視線をそらす。
「それと、本音を言えば……、夕愛が後悔するたびに前のカレシを思いだすわけだろ? それはちょっと、その……、嫉妬する。前に『関係ない』とは言ったけど、やっぱり心穏やかというわけにはいかないというか……」
夕愛はぷっと吹きだした。
「誠汰くんは意外と独占欲が強いなあ。思い浮かべるのも駄目だなんて」
「そこまでは言ってないけど……」
「じゃあ、昔のことなんて思いだせなくなるくらい、たくさん愛してくださいね?」
と、微笑む。俺は微笑みを返した。
「ああ」
俺の背中に回されていた腕に力がこめられ、引っぱられる。俺をどこかへ誘導したようだ。
夕愛はほとんど倒れるみたいに後ろに体重をかける。
その背後にはベッドがあった。そこに俺を引き倒そうとしているらしかった。
「ちょ、ちょ、ちょ……!」
俺は夕愛を持ちあげるみたいに抱き寄せる。
「どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも……!」
俺はせき払いをする。
「言っておくけど、しないからな?」
「………………へ?」
夕愛の声が裏返る。
「え、完全にそういう流れでしたよね!?」
告白、下着姿のカノジョ、ベッド、「愛して」の言葉、親は留守。流れも条件も整っていることは否定できない。
ただ――。
「こ、心の準備が」
「それ女の子のセリフ!」
「男の子にも使わせてくれよ!」
「じゃあいつ準備ができるんですか」
「それはお前……、じ、自立したら、とかそんな感じで……」
「
夕愛は苦笑いした。
「まあでも、誠汰くんがそういうひとだって知ってて――。ううん、そういうひと
「……すまん」
「べつに焦ることないし」
と、笑う彼女の顔に、以前のような切迫感はまったくない。
――やばいかも……。
今まではぐいぐい来る夕愛に気圧されて、流されてはいけないという気持ちで拒んできた。しかしこんなけなげな態度をとられると、なんだか申し訳なくなって逆に意志が挫けそうだ。
夕愛は脱ぎ捨てた服を拾いあげる。
今さらになって半裸の美少女が目の前にいることを強く意識していまい、顔をうつむけて座りこんだ。
「どうしたんですか? へたりこんで」
「いや、その……」
夕愛の口角がにやあと歪む。
「あー、もしかして、今ごろ恥ずかしくなったんですかあ?」
「……」
「大丈夫。誠汰くん、ほんとかっこよかったし、わたし、嬉しかったし」
どうやら告白の話と勘違いしているらしい。
違う。違うんだが、思いだしたらあの告白のセリフもそうとう臭かったような気がする。
悪くない後悔をするためとは言ったけど――。
――恥ずかしいもんは恥ずかしい……!
俺は熱くなった顔を両手で覆った。
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