第36話 パンケーキ食べたい

 俺の正面に夕愛のお兄さんが座っている。


 場所は某有名スイーツ店。パンケーキがおいしいと評判のお店だ。パステルカラーを基調にした明るく可愛らしい雰囲気で、甘い香りとコーヒーの香ばしい匂いが満ちている。


 休日ということもあり大半の席が埋まっている。そのほとんどは女性客だ。要するに男性客は、子供連れを除くと俺たちだけ。


 ――肩身がせまい……!


 この店を指定したのはお兄さんだ。


「あの……、どうしてここを?」


 噛みしめるようにパンケーキを味わっていたお兄さんが言う。


「前から来たかったんだけど、ひとりだと入りづらいでしょ?」


 ――男ふたりのほうがダメージがでかいと思うんですが……!


 これはちょっとした無理心中と言えるのではないか。隣の席に座った品の良さそうな子連れの女性からちらちらと視線を感じる。


 しかしお兄さんは視線など気にする様子もなく、パンケーキの上の融けかけたアイスクリームをスプーンですくって口に運んだ。そしておもむろにペンとメモ帳をとりだすと、なにやら書きこみ始めた。


「いやあ、高得点だなあ。期待以上だ」


 もしかしてスイーツ店巡りが趣味なのだろうか。なんというか、ひとは見かけによらない。


 見かけと言えば、お兄さんの髪型が変わっていた。七三の刈り上げで、刈り上げ部分には線状の剃りこみが入っている。


 ――なぜこの手の人びとは頭に迷路を描きたがるのだろう……。


 俺の視線に気づいたのか、お兄さんは自分の頭を指さした。


「興味ある? バリアート」

「バリアート、っていうんですか、それ」

「そう。うちはけっこう技術が高いって評判なんだよ。入れてみる?」

「い、いえ。まちがいなく学校に親が呼ばれることになるので」

「行こうぜ、校則の向こうへ」

「それただの校則違反ですから」

「まあ、気が変わったら連絡ちょうだい」


 と、俺に名刺を寄越した。黒の紙に金色の文字で、店の名前と連絡先、そしてお兄さんの名前が印刷されている。


 ――『漆原秋水あきみ』。意外と可愛い名前だな……。


「あ、そういえばちゃんと自己紹介してませんでしたよね。俺――」

「出間誠汰くんでしょ? 夕愛から聞いてる」

「すいません……」

「全然気にしてないよ」


 お兄さんは本当になんとも思ってなさそうな笑顔でパンケーキをぱくつく。俺はカフェオレをちびりと飲んだ。


 さて、そろそろ本題に入ろう。とはいえ、疑問への解答はすでに出ているようなものだ。お兄さんには無駄足をさせてしまったかもしれない。しっかり確認だけでもさせてもらおう。


「それで夕――妹さんの話なんですけど」

「夕愛でいいよ」

「はい。――夕愛の様子がちょっと気になっていて。ファッションが変わったのと、あとなにか悩んでいるようで。なにかあったのかな、と。ただ――」

「ただ?」

「昨日なんですけど。街で夕愛を見かけまして。四十歳くらいのきれいな女性と一緒に。で、そのひとが宮澤杏樹っていう、けっこう有名なアパレル会社の経営者で」

「うん」

「だから、もしかしたら――」


「――夕愛はモデルを始めたのではと」「あれ、母親なんだよね」


 俺とお兄さんの声が重なった。


「え?」「ん?」


「母親?」「モデル?」


 お互い疑問顔になる。


「宮澤杏樹でしょ? 俺たちの母親。ちなみに苗字が違うのは芸名だから」

「……」


 昨日のふたりの親しげな様子を思い起こしてみる。


 ――そりゃそうですよね……!


 冷静に考えてみればその可能性のほうが高い気がする。スマホの画面の中でしか見たことのない遠い世界の有名人がこんなに身近なわけがないと思いこみ、最初からその可能性を除外してしまっていた。


 なにがモデルを始めたのでは、だ。


 ――っず……!


 あまりの恥ずかしさに俺は顔を伏せた頭を抱えた。


 お兄さんが言う。


「あ~……、モデルっていうのもあながちまちがいではないんだよ。小さいころだけど、母がデザインした服でテレビに出たこともあるし」

「……」


 ――もしかしてフォローしてくれてる……?


 お兄さんはつづけた。


「夕愛のこと、そんなに可愛いと思ってくれてるんだな」

「ま、まあ、はい……」

「気にするなよ。ときに視野が狭くなったり、まちがえて死ぬほど恥ずかしくなる。それだけ真剣に考えてくれてたってことだろ? むしろありがとうだ」


 と、微笑んだ。


 ええ……? か、か、か――。


 ――かっこいいいいい……!!


 俺が女だったら恥も外聞もなく求愛行動に出たかもしれない。


「ありがとうございます……」

「だから、気にするなって」


 本当になんていいひとなのだろう。お兄さんと早くに知りあえていたらヤンキーに恐怖心を抱くことなんてなかったことだろう。


 ――しかし母親か……。


 まさか夕愛が社長令嬢だったとは。彼女が可愛いのもお兄さんが二枚目なのも、親が元芸能人ならば説得力がある。


 ――やっぱりなんだかんだ言っても遺伝子なんだよなあ……。


 しみじみと世の非情さを噛みしめる。


 お兄さんはコーヒーを口に含み、眉間にしわを寄せた。苦かったのか、なにか考えているのか。


 やがってゆっくりと話しはじめる。


「順番に話そうか。――母さんは夕愛を溺愛しててね。多分、自分が果たせなかった夢を託したかったんじゃないかな」

「アイドルの?」

「うん。小さいころは歌とかダンスの稽古もさせてたし、可愛い服もたくさん着せてたな。夕愛も進んで努力してたよ。でも、夕愛が小学校四年か五年くらいのときかな。母さんが急に忙しくなり初めて、家にもほとんど帰れなくなって。俺はそのころ高校生で、悪友たちと遊び回ってたから、夕愛は寂しかったろうな」


 と、コーヒーを飲んだときよりも苦い表情をした。


「夕愛が中学生に上がってしばらくしたころから、身につけるものが派手になったり、帰りが遅くなったりしはじめてさ。俺は専門学校に通ってて構ってやる余裕がなくて、いい加減に注意するだけで実質なにもしてやれなかった」


 お兄さんは両手で包むように持っていたコーヒーカップをソーサーに置いた。


「だから、夕愛が高校に上がるのを機にふたりで暮らすことにしたんだ。もう寂しい思いをさせないように。でもやっぱり……、俺じゃあ母さんの代わりにはなれなかったのかなあ」


 スイーツ店には似つかわしくないため息をつく。


 思いがけず夕愛の家族の深い話を聞くこととなった。人生経験の浅い俺にはなんと答えればいいのか分からない。


 代わりに質問をする。


「お母さんと会っていたということは、最近はもう忙しくないということですか?」

「いや、忙しいとは思うよ。でも、再婚することになってね。それで俺たちと会う機会も増えたってわけ」


 お兄さんの話に父親が登場しないのを不自然に感じていたが、どうやら母子家庭らしい。


 母親が仕事に忙殺されて家族の時間がなくなり、寂しがっていた夕愛。しかしそれだと最近のおかしな様子を説明できない。母親との時間がとれるようになったのならもっと喜んでいそうなものだが。


 お兄さんに話を聞けば疑問が氷解すると思っていたのに、またべつの疑問が湧いてくるなんて予想もしていなかった。


「誠汰」


 お兄さんは身を乗りだすと、俺の手をぎゅっと握った。


「は、はい!?」

「夕愛のこと頼むよ。今の夕愛にはきっと、俺よりも誠汰のほうが必要だから」

「そ、そんなことはないと思いますけど……」


 ――というか距離詰めるの早くない?


 いきなり呼び捨てになってるし。さすが夕愛のお兄さんだ。


 がたっ、と隣から音が聞こえて、俺はちらりと横を見た。先ほどのご婦人が顔を真っ赤にし、なにやら高速でスマホを入力している。


 ――あ、違う。このひと、男性客が珍しいからこちらを気にしてたんじゃなくて、多分、腐女子だ。


 おそらく今SNSに、


『パンケーキ店で男性カップルのいちゃこらキター!! やばっ、た・ぎ・る!!!!』


 などと書いているのだろう。そういう顔をしている。いや実際は分からないが当たらずとも遠からずじゃないかと思う。


「わ、分かりました。とにかく、頑張ってみます……」


 俺がそう返事をするとお兄さんは安心したように微笑んで礼を言い、またパンケーキに手をつけはじめた。


 ――とは言ったものの……。


 なにをどう頑張ればいいんだろう。俺はすっかり冷めたカフェオレを喉に流しこみ、お兄さんに聞こえないよう小さなため息をついた。

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