第4話 据え膳

 弾かれたように顔を正面にもどす。しかしその鮮烈な映像は目に焼きついて離れてはくれなかった。


 俺のベッドに腰かけた漆原さん。ブレザーもシャツも脱ぎ捨てている。ブラジャーの色はパステルブルー。白い肌。細い肩。スレンダーな身体に似合わない豊かな胸。うっすら浮きあがるあばら。お腹の縦線。形のよいへそ。短いプリーツスカート。そこから伸びる肉感的な脚。


 ――な、な、なな……!


「なにしてんの!?」

「なにって、服を脱いだんです」


 慌てふためく俺に対して、漆原さんは落ち着いた声で答えた。


「あ、ああ暑かったかな? く、クーラーを入れようか!」

「暑かったから脱いだわけじゃないです」

「じゃ、じゃあなんで」


 ぎし、とベッドのスプリングが軋む音。パニックで固まる俺の膝の上にまたがり、腰を下ろす。そして首に腕を回してくる。


「こうするためです」


 耳をくすぐるささやき声。青いフルーツのような爽やかで甘い匂い。ほんのり上気する肌。挑発的な眼差し。


 いくら経験値のない俺でもわかる。漆原さんはだ。


「な、なんで……」

「お礼をしたくて。だから」


 つまり、お礼は身体で、というわけだ。


「嫌ですか?」


 俺は痙攣するみたいに首を横に振った。嫌なんて感情はまったくなかった。本能は盛んにゴーサインを出している。


 漆原さんは心底安心したように吐息をした。


「よかった」

「でも、駄目だ」


 安堵の表情が驚きに変わる。


「どうして」

「駄目に決まってるだろ」

「だから、なんで?」

「付きあってもないのに」

「そうなんですか?」


 ――そうなんですかって……、おいおい。


 漆原さんは首を傾げるようにして俺の顔を覗きこんだ。


「もしかして先輩――初めてですか?」


 ドキィッ!!


 やっぱり童貞感って隠そうとして隠しきれるものじゃないのだろうか。図星を突かれたショックや恥ずかしさで言葉を失う俺に、しかし漆原さんは嘲るような素振りはいっさい見せず、真面目な表情で言う。


「大丈夫。わたしがリードしますから」


 そして目をつむり、顎を上げる。


「キス、してください。そしたら、わたし……」


 キスしたら、そうしたら、漆原さんは言葉どおり俺をリードしてくれるのだろう。


 高校生になって一年と少々。友だちですらたったひとりしかおらず、恋人を作ることなんてあきらめていた俺にまさかこんなおいしいイベントが起こるなんて考えもしなかった。


 嬉しい。興奮している。でもどこかで警戒している自分もいた。


 あのお堅い凜奈が俺にだけ大胆になってくれたら……、なんて妄想は幾度となくした。でも今、目の前で起こっているこの状況は、あまりに俺にとって都合がよすぎる。


 そう、作りもの感がある。だからどこか空しい。漆原さんは誰にでもこうなのだろうか。


 やはり、こんなのは駄目だ。


 駄目、なんだけども。


 俺は改めて漆原さんを見た。キスを求める顔。呼吸のたびブラジャーを押しあげ、こぼれそうになる豊かな胸。細くしなやかでなまめかしい腰つき。お尻の柔らかな感触。


 ――めちゃくちゃしたい……!


 キスをするだけで、そのすべてが手に入る。


 俺は震える手を漆原さんの肩に置いた。彼女の身体がぴくりとする。


 ――けどさあ。


 俺は彼女の肩を押し、遠ざけた。漆原さんは目を開けた。


「ベッドのほうがいい?」

「じゃなくて。――しない」

「……『しない』?」


 まるでその単語がインストールされていないみたいにぽかんとしている。


「できないよ」


 経験値ゼロの俺にはよくわからないが、このまま流されては後悔する気がする。漆原さんは、なんだかちょっと危うい。


 それにこれじゃあお互いの気持ちが通っていない。俺はただ性欲を満たすだけ、漆原さんは俺の喜びそうなことをしているだけ。


 世の中にはそういう関係もあるのかもしれない。でも、俺は――。


 漆原さんは息を飲んだ。


「もしかして……」

「え、なに?」

「女の子のこと好きじゃない系の……?」

「……え!? 違う違う! 俺は……ええと、なんて言うんだっけ? シス? シスでヘテロ? だ!」


 公民の授業で習ったジェンダー関連の用語を俺はなんとか思いだして反論した。


「シスデ・ヘテロ……? イタリアの彫刻家か誰かですか?」

「いそうだけども。じゃなくて、シスっていうのは性自認と生物学的性別が一致してること。ヘテロっていうのは異性愛者のことだよ」

「つまり先輩は――おっぱいが好きってことで合ってますか?」

「なぜそこに直結する!?」


 漆原さんは自分の胸を持ちあげた。


「自分で言うのもなんですけど、わたしのおっぱいはけっこう立派だと思うんですよ。おっぱいが好きなひとなら放っておけないくらい。でも先輩はそんなおっぱいにすら――」

「ひとの部屋でセンシティブワードを連呼するな!」

「女の子に興味がないひとに無理強いはしたくないんです。先輩が本当におっぱいが好きなら、ちゃんと『おっぱいが好き』って言ってください」

「なんでそんなこと……」

「だってさっきから避けてますよね、『おっぱい』っていう単語」


 見抜かれていた。その手の単語は恥ずかしくて口にできない。ブラジャーとかパンティーとかも無理だ。


「本当は嫌いだから言いたくないんじゃないですか?」

「そんなことは、ないけど」

「じゃあ言ってください」


 いっそ『女の子が好きじゃない系』ということにして断るという案も浮かんだが、速攻で打ち消した。それは誠実ではない。


 信じてもらうには言うしかないようだ。


「お、おっ……」

「ほら、頑張って!」

「おっ、おっぱ、おっぱ……!」

「もう一息!」


 俺は大きく息を吸い、叫んだ。


「おっぱいが! 好きだ!」

「揉みたいですか!」

「揉みたいです!」


 ――俺はいったいなにを言わされてるんだ……。


 しかもスポ根風に。


 漆原さんはほっと息をつく。


「よかった……」


 こっちはまったくよくないんだが。近所のひとに聞かれていないことを祈るばかりだ。


「でも、ならどうしてできないんですか?」


 ようやく話がもどった。


「こういうの、大事にしたいっていうか」

「大事に?」

「まず気持ちのつながりがあってほしいって」


 童貞だからっていうのもあるかもしれないけど、気持ちのつながりを誰よりも避けてきた俺だからこそ、そこには特別ななにかがあるんじゃないかって、そう信じてるのかもしれない。


「気持ちの、つながり……」


 俺の膝から身体をどかせて座布団に正座した。下着姿の女の子がちょこんと行儀よく座る姿はちょっとだけ滑稽だった。


 漆原さんは口の中でつぶやく。


「女の子が好き。したいけどしない。それは気持ちのつながりがないから……」


 何事か考えるようにしばらく視線を漂わせたあと、俺に焦点を合わせて言った。


「でもわたしたち、もう気持ちはつながってますよね?」

「……え?」


 いや、いつ?

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