第23話
銃はまだ浦瀬の手にある。用心金に指を引っ掛け、辛うじて銃を落とさずにいた。でも、骨の砕かれた肩で、それを引き上げることはできない。
「面倒、かけさせないでよ」
由梨が髪を掻き上げ、浦瀬を睨む。腰を屈めて、浦瀬の指にぶら下がる銃に手を伸ばす。
千紘が後ろに脚を伸ばした。その脚に弾かれ、キャスター付きの椅子が由梨に向かう。由梨は横に飛び退き、それを交わす。椅子は浦瀬の膝に当たった。その拍子に銃を落とした。
千紘は由梨との間合いを詰めていた。由梨が銃を向ける。その腕を、千紘が撥ね上げる。銃声がして、天井のLEDのひとつが割れる。千紘は由梨の懐で反転し、肘を顔に入れている。早い。何て早さだ。身軽で素早い。由梨の手首を掴んで、実験台に叩きつける。由梨の顔が歪む。手から銃が落ちた。
千紘が足の裏で由梨の腹部を突き蹴る。由梨を転倒させ、すかさず、その足を銃に載せ、後ろに滑らせる。銃は床を滑っていく。次の瞬間には膝を由梨の顔に入れている。由梨は仰向けに倒れた。ゴトッと鈍い音がした。床に頭を打ったようだ。
千紘は容赦ない。仰向けの由梨に飛び掛かる。だが、由梨も怯まない。脚を上げ、千紘を蹴り返す。千紘が実験台の機材に打ち付けられた。
浦瀬は呆気にとられていた。小杉も山根も、眼を見開いている。ふたりに眼を釘付けにしている。浦瀬の怪我を心配する気はないらしい。床にはふたつの銃が落ちているのに、それを手に入れようという気もないらしい。
由梨と千紘が、互いに立ち上がる。由梨が口の端に拳を当て、血を拭う。
「シルヴァラードか」
「え」
浦瀬は由梨を見つめる。由梨は千紘を睨みつけ、冷笑している。
「シルヴァラードは、この女の中よ。この女、記憶を封印するために、フェンサイクリジンを大量に服用した。NМDA型グルタミン酸受容体拮抗罪。脳の表層部分が抑制され、深層部分が興奮する。両者の機能が乖離するため、幻覚を見る。統合失調症の症状が出る。浅野睦子を殺した罪悪感と化学者でいられなくなった抑圧感から逃れたくって、この女は別人格を生み出した。本来の弱い自分とは別の人格。強い人格」
千紘が憫笑する。由梨は険しい顔を崩さない。一瞬の隙も見せまいとするように、千紘を睨み続けている。
「CIRAは、別人格の利用を考えた。別人格に新海の記憶を引き出させようとして、エージェントに仕立てた。新海の記憶を盗み出してくれるだけでよかった。だが、こいつはそれだけで満足しなかった。本気で鍛錬した」
浦瀬は舌打ちをする。
「防諜のために、山際に潜り込ませていたというのは嘘か」
「МRとして、山際に送り込んだのは本当。けれども、目的は防諜じゃない。併用剤。併用剤の手掛かりを求めて、研究所を洗い尽くした。後は本社。新海のメール、メモ、会話の記録、すべてを調べたかった。でも、本社にいるのは、日本桜会議のメンバーばかりじゃない。反社長派もいる。いたずらに刺激して、ことを荒立てたくなかった。最悪、プロジェクトNGの露見だってあり得るから。それで、エージェントを送り込むことにした。新海が勤務していたのはここだけど、本社にだって、新海の顔を知っている者はいる。だから、本当はシルヴァラードを山際に送り込みたくなかった。でも、МRに必要な知識を二日で修得したのは、こいつだけだった。仕方ないから、念入りに変装させて潜り込ませた」
千紘が由梨との間合いを詰める。足、拳の乱れ打ち。それを紙一重で交わす由梨。
浦瀬はハッとして山根を見る。これは好機だ。山根を外に連れ出すのだ。とにかく、山根を守らなければならない。
浦瀬は、由梨が攻め込まれている隙に、腰を落とし、左手で銃を拾った。小杉に目配せして、由梨が落とした銃に顎を振る。小杉は無言で頷いて、音も立てずにそっと壁際に向かう。
由梨には余裕がある。千紘の攻撃を交わしながら、説明を続ける。ちらっと浦瀬を見て、笑みを零した。この女を出し抜けるだろうか。
「バーゼルのおかげで、住血吸虫の特異的IgEが併用剤となることが判ったから、誠和創薬に開発を命じて、シルヴァラードを引き上げさせた。シルヴァラードはプロジェクトNGを知らないし、新海はプロジェクトNGを忘れたまま。どっちも、CIRAにとって脅威とはならない筈だった。なのに、石原次長が功を焦った」
由梨は千紘以上に素早く、身軽だ。その気になれば、簡単に勝負を決することができるのに、手を抜いているのじゃないだろうか。
「あのエロ親爺、元は国際情報統括官組織よ。情報分析に携わっていただけで、工作活動については全くの素人。それなのに、新海の抹殺を目論むなんて、全く噴飯もの」
千紘を軽くいなしている。千紘は右脚の動きが鈍い。痛めているようだ。山根を連れ出したいが、由梨には余裕がある。隙をつくことなんて、できそうにない。闘いを中断して、襲って来そうだ。山根を見ると、頬を引き攣らせている。
「次長なんて、お飾りよ。審議官の官職にいたから、次長になっただけ。諜報に長けていたわけじゃないから、CIRAでは軽んじられていた。それで、部下の歓心を買いたくて、無用なことをした。新海を抹殺しようとするなんてね。それは、シルヴァラードの抹殺を意味する。シルヴァラードのほうは、消される理由が判らない。どうして消されなきゃならないのか。山際の任務だと結論した。ひとりで山際を調べ始めたのは、消される理由が判れば、防御に役立てられると考えたからでしょう。全く大したものよ。ついには、クラインと住血吸虫とのつながりを掴んでしまった。それどころか、プロジェクトNGの存在を知ってしまったんだから。おかげで、私はいま、こいつと闘っている」
由梨が反撃に転じた。由梨の拳が千紘をかすめる。由梨の脚が千紘に伸びる。流れるような動きで、攻撃を加える。
千紘が防戦する番だ。由梨の脚を掻い潜り、拳を捌く。頭を引き、鼻先の拳を受け流す。互角に見えたが、次第に優劣がはっきりしだした。千紘の右脚は踏ん張りが利かない。
明らかに由梨に分がある。スピード、パワーで上回る。ついに、拳が千紘の顎を捉えた。千紘の顔が歪む。膝が折れる。由梨の膝が千紘の腹部に刺し込まれる。千紘が崩れ落ちる。その頭に、由梨の踵。千紘はうつ伏せに倒れ込んだ。危険な倒れ方。
山根の安全を確保するのが、最優先だと思っていたが、千紘が殺されるのを見過ごすわけにはいかない。
浦瀬は小杉を振り向いた。実験台の陰に身を潜めている。両手で銃を支え、機会を窺っている。
由梨は千紘のポケットを漁っている。ブラウス、ジーンズ。素早くポケットに手を突っ込んで、目当てのものを捜し出した。USBメモリだ。拇指と食指でそれを挟み、不敵な笑みを浮かべる。拇指を倒して、USBメモリをふたつに折った。
由梨は満足げに微笑んで、千紘を見下ろす。千紘は動かない。息をしているのか。
「おいっ」浦瀬は怒鳴った。
由梨が面倒臭そうに首を振り向ける。
「殺したのか」
由梨は首を戻して、千紘を見下ろす。
「みたいね。ちょっと予定が狂っちゃった」
立ち上がって、浦瀬を振り向く。千紘から離れ、ゆっくり近づく。
「銃撃戦で死んだ者に、痣なんてあったらおかしい。だから、手加減していたのに、つい本気を出しちゃった。浦瀬さんにも痣をつけないと、釣り合いがとれないわね」
由梨の眼は獲物を狙う猛獣のよう。その眼に、浦瀬はたじろいだ。この女に人間らしい感情はない。躊躇せず、人を殺せる。世の殺人者とは根本的に違う。欲望に突き動かされることなく、淡々と人を殺せる。
逃げ出したいと思った。瞳だけ眼の端に寄せ、小杉を見る。
由梨がハッとした顔をする。
――気付かれた。
由梨が小杉を見た。
「動くな」
小杉が実験台の陰から飛び出し、銃口を突き出す。由梨は怯まない。小莫迦にするように、口の端を上げた。
「それ、私のでしょ。返してよ」
小杉に向かって、つかつかと歩いて行く。
「動くな」
小杉が怒鳴る。由梨に止まる気はない。小杉は天井に向けて発砲した。由梨が警告に動ずる筈もない。むしろ、士気を鼓舞されたようだ。床を蹴って駈け出した。真っ直ぐ小杉に向かう。
浦瀬は咄嗟に左手を上げた。小杉に由梨の相手じゃ、荷が勝つ。由梨の打撃は格闘家のものだ。まともに食らったら死ぬ。由梨を止めなければ、小杉が殺されてしまう。
浦瀬は由梨の脚に狙いをつけた。引き金を引く。反動で腕が跳ね上がった。
弾は手前で撥ねた。由梨は気にも留めない。もう一発。それもまた、外れた。左手だけじゃ、反動を抑えられない。簡単には当たらない。術科訓練の標的にだって、易々とは当たらない。まして、相手は動いている。利き手を使えない。
小杉は蒼褪めている。震える手で、銃口を由梨に向けている。由梨は身体を鎮め、その反動を利して飛び上がった。身体を捻り、右足で小杉の側頭部を打撃する。
――くそ!
浦瀬は毒づく。打撃した瞬間、由梨が足を巻き込むようにしたので、小杉は仰向けに倒れた。小杉の後頭部が床に叩きつけられた。千紘よりもまずい。駈け寄りながら大声で呼ぶ。
「小杉」
叫んでも応えない。ぴくりとも動かない。致命傷を負ったのか。失神しているだけか。どっちだ。
由梨は銃を拾って、懐に入れた。しゃがんで、小杉の顔を覗き込む。浦瀬は由梨の肩越しに小杉を見下ろす。小杉は眼を剥いている。眼球が飛び出しそうなくらいだ。
「おまえ、ふざけんじゃねえ」
撃鉄を引き起こす。由梨の頭に銃口を押し付けた。
「死んじゃったかしら」
天候の話でもするような顔で、由梨は振り向いた。平生だったら、怯んでいた。だが、怒りが頂点に達して、冷静さを欠いていた。引き金を引いた。
弾は由梨を掠めた。発砲する間際、由梨が頭を下げたのだ。慌てて二発目の撃鉄を引き起こそうとした。その前に、由梨に手首を掴まれた。
浦瀬の手が、浦瀬の頭に打ち付けられる。二度、三度。由梨は浦瀬の手を金槌のようにして、打ち続ける。銃の重量が頭に響く。指の関節が、銃把と頭に挟まれ、軋む。軟骨が折れたかもしれない。頬に伝わる血は、どこからだろう。頭から出血しているのか、指から出血しているか、どっちだ。
みぞおちを下から突き上げられた。膝を入れられた。内臓がせり上がって口から飛び出しそうだ。耐えられず、前のめりなる。後ろ首に強い衝撃を受け、そのままうつ伏せに這い蹲った。意識が遠退きそうだ。
日本桜会議に不要だと思われた者は、消え去るしかないのか。CIRAとやり合おうというのが、土台、無謀だったのか。
視界が狭くなっている。まぶたやまつ毛が血で覆われ、半分しか眼を開けていられない。限られた視野に由梨の足が映る。視界から消え、風圧が頬に当たる。その瞬間、肩が外れたと思った。腕を蹴られたのだ。血だらけの指にも激痛が走る。
由梨は屈んで、銃に手を伸ばす。銃を取るために、足蹴で手を払い除けたのか。何て女だ。苦笑するしかない。
「これも返してもらうわよ。CIRAの備品なの」
銃を拾い上げる。浦瀬は腰を捻って、仰向けになった。真上に由梨の顔。案の定、銃口を向けている。
「俺たちは刑事だ。殉職は覚悟している」喘ぎながら懇願する。「だが、山根は違う。お前たちの味方にしてやってくれ。山際製薬の人間だ。日本桜会議の役に立つだろ」
由梨は山根にちらっと、眼を向けた。
「そうね。考えてもいいわ。ねえ、あなた。何ができるの?」
「私……」山根の強張った声。「私は……」
「ダメね。使えそうにないわ」由梨は突き放すように言って、浦瀬を見下ろす。「でも、心配しないで、あなたのほうが先だから。彼が死ぬところは見なくて済む」
浦瀬は憫笑した。
「何がおかしいの? あっけない人生で、思わず笑っちゃうのかしら」
「いや、あんたらを嘲笑ってる。国を守る。日本を守る? たいそうな理屈を並べたところで、ひとりの人間すら守れない。人を殺さなきゃ守れない国なんて、意味があるんたろうか。そんな国、むしろないほうが良い。あんた等、いつか心ある人たちに潰される」
「まだ判らないの。とっても簡単な理屈なのに。あなたには難し過ぎたのかしら。困った人」
由梨が銃口の向きを少し変えた。銃声。右の大腿に激痛。歯を喰いしばる。由梨が声を上げて笑う。
「びっくりした? 一発で殺されると思ったでしょ。せっかくだから、遊んであげる。だって、弾はいくらでも残ってるんだもの」
また銃声。歯の間から、呻き声を漏らす。今度は膝だ。右の膝蓋骨が砕けた。なぶり殺しにする気か。
「あなた、さっき、私の脚を狙ったでしょ。そのお礼よ」
由梨は端正に整った唇を歪めた。それでも、面立ちは美しい。
「次はどこにしようかしら」
洋菓子店でスイーツの品定めをするかのように、浦瀬の身体に眼を這わせる。
「決めた。左肘。動かないでよ。狙いがずれて、肺や心臓に当たったら、終わりになっちゃうから。お互い、もう少し、愉しみましょ」
銃口が、左腕を向く。
銃を奪って、一矢報いてやりたいと思っていた。それは、左手が無事という前提に立っての希望だ。左手が使えなくなれば、その希望は潰える。
由梨は「美しい国」を見せると言った。「美しい国」って何だ。一部の者が独善的に管理する国のことか。そんな国なら、願い下げだ。全く理解できない。どうして人より国が優先するのか。伝統も文化も人があってこそのものじゃないのか。すべての人を守れないのなら、伝統も文化も、国も滅んでしまえばいい。
不意に由梨の身体がくの字に折れた。銃を落として、壁に突き飛ばされる。びっくりして、首を捻る。腹筋に力を入れ、上半身を起こす。
――千紘だ。生きていた。
千紘はすかさず、間合いを詰める。由梨の腹部に飛び蹴りを決める。由梨の背中が壁に押し込まれる。由梨の膝が折れ、床に沈む。前のめりに倒れるかかる。それを、千紘は許さない。膝を由梨の顎に入れ、身体を浮かせる。左右のフックが由梨の側頭部を襲う。由梨が倒れる方向に拳が舞う。千紘は、左右にも前にも、由梨が倒れることを許さない。ついには、由梨の足が床から浮いた。
息を吹き返した千紘は別人のよう。早い。強い。右脚の怪我はどうなったのだろう。シルヴァラード以外の誰かが目覚めたのかもしれない。
由梨はぐったりしている。意識を失ったのか。死んだのじゃないか。千紘は、不意に攻撃を止めた。由梨の尻が床に落ちる。背中を壁につけ、頭が肩の間に落ちる。千紘は、ファイティングポーズをとったまま、由梨を見下ろしている。ダメージの程度を観察しているようだ。由梨は微動だにしない。それを見て、千紘は腕を下ろし、背中を向けた。
突然、由梨が動いた。一瞬で、懐から銃を抜き、千紘を狙う。千紘は、その気配を察したのか、後ろ蹴りで由梨の腕を弾いた。弾丸は逸れ、機械に当たった。機械から蒸気が噴き出す。蒸気を見て、千紘が顔色を変えた。
すかさず、由梨が二発目を放つ。千紘が顎を上げ、前のめりに倒れた。その場に血の海が広がる。
非常ベルが鳴り、アナウンスが響き渡る。
「有害ガスを検出しました。直ちに室外に避難してください。五分後に閉鎖します」
機械が蒸気を吐き続ける。壊れたのは、有害ガスの排気装置か、浄化装置か。噴き出しているのは、致死性のガスだろうか。
千紘は、血の床に手を衝いて、ふらふらと立ち上がった。脇腹が緋色に染まっている。ぼんやりした眼で蒸気を見遣る。機械に向かって、二歩、三歩、足を進める。覚束ない足取りで歩き、崩れ落ちた。
由梨はやおら立ち上がって、奥の扉に向かう。扉の脇のセンサーにカードを通す。パネルにパスワードを入力する。扉が開き、中に消えた。
「浦瀬さん」
山根が駈け寄って来た。肩を貸そうとする。
「五分で閉鎖するって言ってます。早く外に出ましょう」
「俺より、小杉を頼む」
山根が小杉を見る。小杉は全く動かない。
「でも……」
「頼む」
「判りました」
非常ベルとアナウンスが続いている。浦瀬は、仰向けになった。もう、這う力も残っていない。
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