第22話
製薬会社は抗がん剤を開発したがる。難病といわれた病を、人類は克服してきた。そしていま、がんをも克服しようとして、各社がしのぎを削っている。
千紘は、抗がん剤開発を疑問に思ってきた。製薬会社が莫大な利益を目指すのは当然だ。企業は、伊達や酔狂で医薬の開発をしているわけではない。抗がん剤が金になるのなら、その開発に取り組むのは当然だ。
不治の病は、個体群を守るために必要なものだった。個体群密度を一定に保つ働きをしていた。それなのに、医療技術や医薬品の発達が、不治の病を激減させてしまった。それで生態系に狂いが生じ始めた。死亡率も、出生率も下がった。それによって齢構成がいびつになった。
病で死ぬことが少なくなると、辻褄を合せようとする本能が働く。死なないのなら、死に易い環境にすればいい。宗教や民族の差異を理由に、激しく争うようになる。他国民への言動が先鋭化し、ナショナリストが台頭し易くなる。最終的な局面では、テロや戦争が頻発し、人口総数の調整が起きる。
日本国民も本能に突き動かされつつある。憲法解釈の変更、集団的自衛権の行使容認。戦争が起きたら、戦地に行くのは若年者たちだから、齢構成のいびつ化に拍車がかかる。
このうえ、人類はがんを克服しようとしている。そんなことが許されるのか。
千紘は、YМG‐0714が、日本住血吸虫に対する特異的IgE抗体と相互作用を起こすことを発見した。それは天啓だと思った。齢構成を修正する機会を、神が与えてくれた。そう思った。
財界で発言力のある歴史ある企業は、すべからく保守系だ。山際製薬もその例に漏れない。会長は日本桜会議の代表委員に就いている。社長を含め、重役たちはすべて日本桜会議のメンバーだ。だから、千紘の論文が日本桜会議の眼に留まるのは、案外、早かった。
由梨が千紘に言う。
「浅野睦子さんは、心からあなたに感謝していたわ。頭がすっきりして、人間らしさを取り戻し、そのままの姿で死んでいくことができるのは、とても幸運だと言ってた。それも覚えてないのね」
浅野義英もまた、日本桜会議の中心メンバーだ。千紘を睦子に引き合わせたのは、義英だった。
「母は、優しくて慎み深い人だった。認知症になってからは、そんな面影が一切ない。全く別人に変わってしまった。昔の姿に戻してから、死出の旅に赴かせてやりたい」
実母を、プロジェクトNGの被験者にするつもりでいたのだった。被験者たちはJ‐ADNI2を通じて集められた。J‐ADNI2の被験者で臨床実験をすることには、大きなメリットがあった。住血吸虫の特異的IgE抗体を持つ者の体内に、クラインはどんな影響を及ぼすのか。J‐ADNI2を実施する大学や医療機関で、詳細なデータを記録してくれた。
それらを思い出す。記憶が蘇る。由梨の言葉が、千紘の記憶をさらに覚醒させる。
「あんなに感謝されていたのに、どうしてあなたは考えを変えてしまったのかしら。睦子さんが亡くなる前は、あなたは社会にもオポトーシスが必要だと考えていたのよ」
その通りだ。千紘は、化学者は自然の摂理に敬虔でなければならないと考えていた。自然科学を研究する者が、自然の摂理をないがしろにしたら、絶対的真理に到達できない。オポトーシスは、自然の摂理だ。ひとつの細胞の犠牲でほかの細胞が守られる。それで、多細胞生物たる個体が生命活動を維持できる。それが自然の摂理だ。人間社会に応用しない手はない。老人の死亡率を高めることで、社会と国が守られる。
日本人の個体群を守る研究をしているという自負があった。だから、IgE抗体に一心に取り組んだ。
「……あなたが、どうしてプロジェクトNGに反対するようになったのか、私にはどうしても理解できない」
由梨が首を捻るのは当然だ。千紘が提案し、一心に取り組んできたプロジェクト。それを自ら投げ出してしまったのだから。
その理由は睦子だ。睦子だけがクラインの目的を理解していた。
ほかの被験者には、死に至るプロセスの検証をするのだと、教えていなかった。本人にも親族にも真意を伝えなかった。担当医師には、本来のJ‐ADNI2のプロトコールとは別の計画書を渡しただけで、クラインがγセクレターゼ阻害薬だということすら、報せなかった。不審を抱く医師もいただろう。だが、学界の第一人者に睨まれる覚悟で、どんな理由で何の医薬を投与するのか、質そうという者はいなかった。
これは、安楽死の一形態だ。それを認める関連法案を通過させるまで、公然と行うことができない。それをするのだから、関係者に何もかも秘匿したのは当然だ。
国民のコンセンサスが得られなければ、プロジェクトNGは頓挫してしまう。だから、それまでに、国民を充分に教育しなければならない。日本の未来にオポトーシスは必要不可欠なのだ。その真理を国民に浸透させなければならない。子や孫、さらにその先の子孫たちに、この国を残すためだ。日本の伝統・文化は、そうして継承されていく。それを理解できたとき、誰もがプロジェクトNGに賛成する。進んでクラインを服薬し、そして中止するようになる。
まだそのときではない。被験者に趣旨を説明しても、非人道的な実験だと言って騒ぎ立てられるのが落ちだ。だから、誰にも教えない予定だった。
睦子に教えたのは、義英だった。義英は睦子の理性を信じていた。
「長い悪夢の中にいるみたいだった」
睦子の症状は改善していた。穏やかな顔で千紘を見つめて言った。
「前を向いて、終活できる。新海さんのおかげよ」
睦子は死ぬ日を決めていた。一日、また、一日と、その日が近付くに連れ、睦子の眼は凛と澄んでいった。すべてを悟り、受け容れる者の眼だった。
千紘は化学者の眼で睦子と向き合っていた。千紘にとって、睦子はほかの被験者と何ら変わらない実験対象だった。
「人類にとって、クラインがとても素晴らしい発明だとされる日が遠からず来るでしょう。本当にありがとう。私自信に戻って、人として、死出の旅路につくことができます。あなたのおかげです。これからも、人びとの役に立つ薬を、どんどん開発していってください」
睦子は千紘の手を取って、涙を流した。純粋に感謝されていた。それが、千紘の胸にさざ波を立てた。実験対象に感謝される?
睦子は周りの人を気遣うようになっていた。義英たち家族の健康を願う。何くれと世話を焼いてくれるケアワーカーの多佳子を労う。そればかりか、千紘を讃える。死なせようとしている人に気遣いをされるのは、妙な気分だった。
睦子は、荘厳とも言える雰囲気を纏うようになっていた。果たして、この人をしなせてしまっていいものだろうか。信念にヒビが入った。
細胞に感情はない。人には感情もあれば知性もある。人に細胞のように、オポトーシスを求めるのは、正しいことなのか。
それは正しい。化学者として、正しいと考える。自然科学の観点から、間違っていないと断言できる。
――だが、死なせたくない。
千紘は、化学者の冷徹な眼を以て、睦子に接することができなくなっていた。
睦子が亡くなると、さらに自信を失った。誰にも死んで欲しくないと思った。
いずれ人類は、iPS細胞からあらゆる臓器、骨格、神経を作り出せるようになる。老化した筋肉でも、病変した循環器でも、そっくり取り換えてしまえるようになるだろう。不良な部品だけを交換すれば、いつまでも使い続けていられる家電と一緒だ。人は死から遠ざかる。
世代交代が進まない種は滅ぶ。人類が死を乗り越えようとする先にあるもの。それは自滅だ。理屈では判っている。でも、心が痛い。生命を永らえてはダメだと、声を大にして言うことができない。
化学者としての信念をなくした千紘に、研究を続けていくことはできなかった。研究を辞めると言うと、日本桜会議の重鎮たちは、千紘を激しく叱責した。研究の成果をすべて提出しろと言った。連日連夜責められ、鬱になって行った。
すべてを葬り去ろうと決心した。パソコンからハードディスクを取り出し、粉々に打ち砕いた。プリントアウトしものは、灰にした。残るのは千紘自身の記憶。それも、フェンサイクリジンで封印した。住血吸虫の特異的IgE抗体に関する成果のすべてを葬り去った。化学者であり続けることから逃げたのだ。
「あなたたちだって二千万の側でしょ」
由梨の笑いを含む言葉で、回顧から現実に引き戻される。由梨と一緒に研究室に入って来た男たちは、由梨の仲間ではないようだ。刑事か?
由梨の言葉に耳を傾ける。銃撃戦の末に、千紘と男たちで同士討ちとなり、互いに果てる。そんなシナリオを描いている。
「出して。盗った銃」
「抵抗しても無駄か」
男が苦笑して言った。渡す振りをして、由梨を撃つ気だ。無理だ。由梨のほうが早い。
銃声と男の呻き声。案の定、男のほうが撃たれた。
〈代われ〉
――え?
誰? 話し掛けられた?
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