第21話

 浦瀬にはその使用法も用途も判らない様々な機械が、壁際にも中央にも並び、さほど狭くはない筈の室内は、息詰まるような圧迫感がある。クラインの開発に何らかの役割を果たしたものだろうとは思う。状況がもっと違っていれば、それらの機械のひとつひとつを興味深げに観察していただろう。だが、いまは、ふたりの女から眼を離せない。小杉も山根も、ふたりを凝視している。

 小松崎由梨と新海千紘。

 浦瀬たちは由梨の後ろにいる。背中しか見えない。どんな顔でいるのか判らない。千紘は椅子ごと由梨を振り向いている。だが、由梨の陰になっているので、彼女の表情も判らない。由梨は一度、身体を傾け、浦瀬たちを窺った。少なくとも物怖じする様子はなかった。

 由梨の右肩が動いた。千紘に向かって、掌を突き出したようだ。

「そのUSBメモリ、返して」

 千紘は捻っていた身体を戻した。パソコンからUSBメモリを抜き、すくっと立ち上がる。由梨に背中を向けたまま訊ねる。

「治験データの改竄があったのは、抗PCSK9抗体の治験じゃないんですか」

「治験データの改竄なんて、もともとないの。バーゼルファーマの思惑を知りたかっただけ。抗PCSK9抗体の成果が欲しいのか、それともクラインの併用剤が欲しいのか」

 浦瀬は由梨の背中を見つめる。バーゼルファーマが誠和創薬に仕掛けているTОBにまで、CIRAが関与しているのか。浦瀬は由梨に足を踏み出す。

「併用剤?」

「新海さんの功績。それがあったから、プロジェクトNGが始動した」

「プロジェクトNG?」小杉が呟く。

 由梨は浦瀬を振り向く。

「どうしてクラインが市販されないのか、本当の理由を教えてあげる。いまはまだ、そのときじゃないから。併用剤が完成していないし、国民の間にコンセンサスが得られていないから。クラインは単に認知症を治す薬じゃない。もっと重要な役割を担う薬なの。これは特定秘密よ」

「我々を殺そうとするほどの国家機密ですか」

 由梨は流し目を使う。

「そうね。あなたたちの生命よりも大事なことよ。いずれ、立法措置をとる。それまで慎重にことを運ばないといけないの」

「それなら、聞きません。命が惜しいので」

「ダメよ。聞いて。せっかく呼んだんだから。みんなで秘密を共有しましょ」

 浦瀬は顔を背ける。瞳だけ戻して、横目で由梨を睨む。由梨の眼は笑っている。口元を愉快気に綻ばせている。腹の判らぬ女だ。由梨は千紘に眼を向けた。

「あなたは、とても重大な発見をしたのよ。クライン、当時はまだ、YМG‐0714という開発コードで呼ばれていたわね。

 サルを使った前臨床試験で、三頭のサルが死んでしまった。ほかのサルには、何も異状がなかった。死んだサルを解剖してみると、いずれも血栓ができていた。さらに調べて、どのサルも日本住血吸虫に寄生されていたことが判った。山際製薬は、動物実験用のサルを施設外に脱走させてしまっていたの。五日後に全頭捕獲したものの、その間に釜無川に入ったサルがいたってこと。

 山際製薬は、サルの死因は寄生虫が原因で、YМG‐0714とは因果関係がないと考えた。P2実験室を持つ研究所が実験動物の脱走を許し、しかも寄生虫に汚染されていたなんて明るみになったら、大騒ぎになるでしょ。それで、研究所はこれを隠蔽することにした。三頭のサルが死んだことは葬り去られた。

 でも、新海さん。あなたは、サルの死因とYМG‐0714に因果関係があると考えたの。そうして、YМG‐0714が、住血吸虫のIgE抗体と相互作用を引き起こすことを発見したのよ。セロトニンの生成量が増え、それが全身に放出され、血栓ができ易くなることが判ったの。

 それで、あなたはYМG‐0714の改良を考えた。亡くなる時、家族たちから心からお別れを言ってもらえる医薬の開発」

 千紘は肩越しに首を傾げた。でも、身体は実験台に向けたままだ。浦瀬は由梨に訊く。

「どういうことだ。誰だって親族の死は辛く、苦しい」

 由梨は浦瀬に身体を向ける。

「新海さんは天才的なひらめきを得たのよ。認知症患者を治して、それから死なせるの。素晴らしいでしょ」

 浦瀬は首を捻る。何が素晴らしいのか判らない。小杉は訝るように口を尖らせ、山根は不快気に眉を寄せる。

 由梨は眼を輝かせている。

「素敵な思い付き」由梨の背中を見つめる。「本当、あなたって天才」

「認知症を治してから殺す?」浦瀬は口を歪める。

 由梨は浦瀬に眼を戻す。

「平たく言えば、そういうことね」

「それのどこが素敵なんだ」

 浦瀬は苛立って言う。由梨は眼を丸くした。

「判らないの? 要らないお年寄りが減るのよ」

「要らない年寄りなんて、どこにもいない」

 由梨は嘲るように顎を上げた。

「莫迦な人。ものの見方を知らないのね。視野が狭いのよ」

「人を要らないなんて言うくらいなら、狭い視野で結構だ」

「あなただって、公務員でしょ。もっと公共の福祉について考えなさい。いま、この国や自治体はどういうことになっているのか、自覚がないのかしら」

「CIRAのような得体のしれないものが幅を利かせているということか。それなら、充分自覚している」

 由梨は、両手を腰に当て、やれやれといった顔で、首を捻る。

「そんなことを言ってるんじゃないの。日本国債の格付けは、いまやシングルAよ。信用は落ちる一方。中国より、韓国より下位になっちゃってる。でも、医療保険、年金、介護保険、老人福祉。社会保障費の支出は増大する一方で、消費増税をしても全く追い付かない。債務残高は、対GDP比で二百五十%に迫っている。

 二〇二五年問題って、知ってるでしょ? 団塊の世代が後期高齢者になる。国民の三人にひとりが後期高齢者になる。医療費も介護費も、かつて経験したことのないペースで激増する。

 なのに、生産人口は減るし、正規雇用も少なくなってて、所得税収は増えない。景気は低迷したままで法人税収も横ばい。若年者の負担は増すばかり。50年前には九人の生産人口がひとりのお年寄りを支える胴上げ型だった。いまは三人でひとりを支える騎馬戦型。そう遠くない将来、ひとりでひとりを支える肩車型に移行する。さらに、ひとりがふたりを支えなければならなくなり、いずれ、支える者がいなくなる。日本が滅亡するときよ。

 そうならないために、いまから、支出を減らしていくしかないでしょ。だからといって、社会保障を廃止するわけにはいかない。判るでしょ? 私たちは国民の生活に深く関与し、国民をリードしていかなきゃならないの。社会保障はそのための手綱のひとつ。国民を正しく導くには、手綱は多いに越したことはない。だから、社会保障を止めるわけにはいかない。となれば、方法はひとつ。年寄りに減ってもらいたいというのは、誰もが思っていたことなの」

 浦瀬は吐き棄てる。

「老人を殺して、医療保険も年金も支払わなくていいようにするってことか」

「まあね。でも、誰だって善人でいたいものよ。たとえ、日本の未来のためとはいえ、進んでお年寄りを殺そうなんて、誰もしたがらない。だから、そういう人たちの気持ちを和らげるシステムが必要なの。それに、無作為に死んでもらうのは、公正とは言えない。健康なお年寄りより、費用がかかるお年寄りが先。認知症の人から死んでもらうの」

「クラインがそのシステムなのか」

 由梨は浦瀬に歩み寄る。

「お義母さんの介護がどれだけ大変か、判ってて?」

「勿論だ」

「嘘よ。知るわけないじゃない。だって、奥さんに任せっきりで、自分には関係ないって思ってるんでしょ」

 由梨は挑むような眼で、浦瀬を見つめる。冷淡で高飛車な女だが、その瞳は澄んでいる。浦瀬は少したじろいだ。

「妻から話は聞いてる」

「全部なんて話さないわよ。奥さんから、お義母さんに、早く死んで欲しいって思うことがあるって話、聞いた? 聞いてないでしょ。みんな、そういうこと思っていても、口にはしないものよ」

「妻が、そんなこと思う筈ない」

「きれいごとはいいの。それとも、浦瀬さんて、思慮が足りないのかしら」横目で見て微笑む。「奥さんがどれだけお義母さんの問題行動に悩まされているのか、知らないのね。排泄処理や徘徊に備えなきゃならないから、四六時中、気が休まるときがない。夜中に奇声を発して大騒ぎをするから、ご近所に謝りに行かないといけない。どんなに尽くしても、親の敵のような眼で見られる。自分の娘だって認識してくれないの。暴言、暴力が日常茶飯事」

 浦瀬は佑香の電話を思い浮かべる。いつも浦瀬を責め立てている。愚痴や不満ばかりだ。それだけ介護によるストレスが大きいということだ。そのことに気付いていながら、佑香と話し合ったことがない。

「認知症介護は、親子関係だって壊してしまう。介護される者は、疑心暗鬼を生じて、介護する者を敵だと思う。介護する者は、敵だと思われることに絶望する。親なのに、自分のことを認識してくれない。生活のすべてを介護に捧げても、報われない。問題行動が続いて、近所にも顔向けできなくなる。いっそ、死んでくれないだろうか。そう思うのは、人間としてとても自然なことよ。あなたたちだって、そう思うでしょ」

 由梨は微笑んで、小杉や山根を見る。ふたりとも、否定も肯定もしない。ただ、頬を引き攣らせた。

「でも、そのまま亡くなってしまったら、どう? 子には、介護の苦しい思い出だけが残ってしまう。認知症になる前の愉しい記憶なんて消し飛んで、晩年の恨みだけが残るのよ。年忌法要がきても、きちんと供養しようなんて気にならない。親子なのにね。認知症という病気が、とても不幸な未来を招いてしまう。

 そこでクラインよ。クラインで認知症が治れば、元通りの親子関係を修復できる。子と親が互いを思い合い、感謝し合うようになる。そうなって亡くなれば、子は親の思い出をいつまでも大切にして生きて行く。私たちは、そういう美しい国を築かなければならない」

 浦瀬は眉を顰める。

「病気を治す。それはいい。それでいいじゃないか。なぜ、死なせる?、健康になったら、若年者と共に豊かな老後を過ごせるじゃないか。老いも若きも、障害者や難病者も、誰もが活躍できる社会。一億総活躍社会は石川総理の公約だろ。医療保険や介護保険の支出だって減る。それだけじゃダメなのか」

 由梨は溜息を吐く。

「一億総活躍社会。そうね。総理の公約。だから、取り敢えず、二千万人、減らさないとね。あなたって、近視眼的なものの見方しかできない人なのね。人間だって動物なのよ」

 いきなり動物を持ち出されて、浦瀬はキョトンとする。

「何の話だ」

「動物には、種の保存本能があるでしょ。個体数を一定に保とうとする本能がある。増えすぎちゃうと、食糧などの資源配分ができなくなり、絶滅しちゃうから。日本の国土に一億二千万人は飽和状態よ。だから子が生まれない。少子化になっている。お年寄りが長生きし過ぎているから。いまのままじゃ、日本は老人だらけになっちゃう。でも、お年寄りが減れば、またベビーブームになり、日本は若返る。この国の将来を考えたら、お年寄りを減らさないといけない。取り敢えず、二千万人。それが総理の公約よ」

 理屈は判る。だが、人情として、由梨の言うことを是認できない。

「クラインで二千万人を殺すのか」

「人口調整よ。管理が必要でしょ」

「そのために、クラインで治して、グロブリン製剤を注射する」山根が呟く。

「手順としては逆。最初にグロブリン製剤を静注するの。体内のIgE量を大幅に高めてから、クラインの投与を開始する」

 浦瀬は眉を顰める。

「それで、相互作用で血栓ができる」

 由梨は首を振る。

「クラインを投与している限り、血栓はできないわよ。なぜなら、副成分には、脳血流を促進するという名目で、EPAとDHAを入れているから。それで血小板凝集と血管拡張が起きて、血栓ができないの。でも、クラインの投与を中止すると半減期の関係で、γセクレターゼ阻害薬の薬効が継続している間に、EPAとDHAの薬効は消失してしまう。それで、リバウンドの効果もあり、ほぼ確実に血栓ができる。どこにできるのか、それは判らない。だから、直接の死因は脳梗塞、心筋梗塞、深部静脈血栓症、肺塞栓など、さまざまなものになる。だから、クラインが原因だなんて、誰も思わない。J‐ADNI2の被験者で臨床試験を実施して、血栓のでき具合を調べたんだけど、医師たちは死因を全く怪しまなかった」

「なるほど。今後は、そんな風に一般の人たちを密かに死亡させるつもりか」

「違うわよ。J‐ADNI2は特別。まだ実用段階じゃないから。治験よ。だから、私たちがすべて指示を出した。けれど、実用段階になったら、中止を決めるのは私たちじゃない。家族、あるいは本人」

 浦瀬は眼を剥く。

「莫迦な。家族がそんなことするわけない。本人だって死ぬのが判ってて、薬を中止したりしない」

 由梨は真顔で浦瀬を見つめる。

「そんなことないわ。きっと、するわよ。もう二度と、介護で疲れる日々に戻りたくないから。親はいずれ死ぬ。それがいま、このとき、認知症の症状が改善しているときだったら、厳かな気持ちで見送ることができる。年忌法要で供養しようという気にもなる。でも、また認知症に戻ったら? クラインはずっと効き続けるのか。いまは薬効があっても、薬剤耐性ができてしまったらどうする? クラインが利かなくなったら? そう考えたら、毎日、毎日が不安になる。そうなる前に、クラインが利いている内に、チャンスを不意にしたくない。

 人は善人でいたいから、やたらと他人を殺さない。でも、これは不作為なのよ。クラインの投与を中止する。それだけのこと。誰もがそれを行う。毒物を投与するという作為に比べたら、やめるという不作為はハードルが低いもの。ひとり暮らしで、家族のいないお年寄りは、自ら中止するしかないわね」

「それじゃ自殺だ。誰がそんなこと……」

「するわよ。戦争と一緒。国を守るために命を捧げるの。そのくらいの愛国心、誰でも持ってるでしょ。もともと日本人は、主君のためには自らの生命を投げ出すことを美徳にしていた。そういう美しい心を持った人たちなら、自ら進んで死に赴く。認知症のときなら、そんな選択ができない。頭がすっきりしているときなら、美しい選択ができる。そのチャンスを不意にするわけないでしょ」

 由梨は冗談を言ってるわけでも、浦瀬をからかっているわけでもない。虚偽も事実も同じ顔で言う女だが、いまほど真摯な顔を見たことがない。由梨は日本桜会議の思惑を口にしているのだろう。

 由梨は千紘を振り向いた。

「浅野睦子さんは、心からあなたに感謝していたわ。頭がすっきりして、人間らしさを取り戻し、そのままの姿で死んでいくことができるのは、とても幸運だと言ってた。それも覚えてないのね」

 千紘は肩越しに由梨を見る。由梨は溜息を吐いて頭を振る。

「あんなに感謝されていたのに、どうしてあなたは考えを変えてしまったのかしら。睦子さんが亡くなる前は、あなたは社会にもオポトーシスが必要だと考えていたのよ」

「オポトーシス?」

 小杉が、聞き慣れない単語に眉を顰める。由梨が振り向く。

「細胞死よ。がん化した細胞のほとんどは、その細胞が死ぬことで、腫瘍にならずに済んでいる。細胞が死ぬことで、個体の生命が守られる。個体を守るために、細胞は自らを滅ぼそうとする。これは偉大な自然の摂理。新海さんは、人の社会にもその摂理が必要だと言っていた。お年寄りが死ねば、日本は守られるのだと」

「そんな理屈……」浦瀬は歯噛みした。

「私たちの任務は日本を守ること。仮想敵国の攻撃を未然に防ぐだけが、国を守ることじゃない。自滅を未然に防ぐことも、私たちの重要な任務。国を守るために、認知症の人から順にお年寄りを排除していく。それが私たちの義務」

「自分たちが、後期高齢者になったときにも、同じことが言えるのか」

「もちろん。私たちは、自分が認知症になったら、進んで国にこの生命を捧げるわ」

 浦瀬は何を言っても無駄だと思った。理屈では勝てない。由梨に情は通じない。

 由梨は千紘に話しかける。

「そんなあなたが、どうしてプロジェクトNGに反対するようになったのか、私にはどうしても理解できない。そもそも、あなたの論文が日本桜会議に提出され、石川総理を含むメンバー等が、それを絶賛したことがことの始まり。直ちに実施計画が策定された。

 でもね、山際は実験動物が住血吸虫症になっていたことを隠していたの。なので、論文には住血吸虫の特異的IgEのことは伏せられていた。単に免疫グロブリンと相互作用を引き起こすとしか、書かれていなかった。

 プロジェクトNGが始動すると、クラインの開発と同時に、相互作用を引き起こす併用剤の開発も進められることになった。しかし、コンセンサンスが整わない内にプロジェクトが露見し、メディアに反対されたり、国民にデモを起こされると困るでしょ。だから、クラインの開発とは別に、併用剤の開発は極秘裏に進めなければならなかった。だから、新海さんひとりに一任したのよ。

 実のところ、それがグロブリン製剤だと知ったのは、ずっと後になってから。新海さんを官邸に呼んで、説明をしてもらったこともあるんだけど、そこでも住血吸虫の話は出なかった。そのときは、隠したというより、素人相手に詳しい話をしてもしょうがないと思ったのかもしれないわね。でもね、私たちは新海さんを信用していたから、グロブリン製剤と聞いただけで、誰もがそれで納得していたの。

 新海さんが突然、心変わりしたときには、驚いたわよ。併用剤の開発に関する記録を全て廃棄し、記憶を封印したでしょ。手掛かりは新海さんの頭にしかない。だから、あなたからその記憶を引き出そうとして、いろいろ手を尽くしたわよ。でも、ダメだった。もうお手上げ。ほかには、どこにも手掛かりがないんだから。抗体だって聞いていたから、多分、モノクロナール抗体なんだろうって思った。それで、バイオベンチャーの誠和創薬に声をかけたってわけ。山際製薬でも良かったんだけど、新海さんみたいにひとりで一心に取り組んでくれそうな人がいなかった。反社長派もいるし、山際は会社が大きすぎて、いろいろ弊害があるのよ。

 その点、誠和創薬は小さなベンチャー企業でしょ。厚労省を通じて命令すれば、理由も聞かずに、ほいほい尻尾を振ってくれる。それで、クラインと相互作用を起こすモノクロナール抗体を開発するよう、命じたの。誠和創薬はそれを発見できなかった。でも、誠和創薬を責めちゃかわいそうね。

 だって、そもそも、モノクロナール抗体なんかじゃなかった。ポリクロナール抗体だった。それを教えてくれたのは、バーゼルファーマよ。クラインのゾロ新薬の治験で、四人の死亡者が出た。すぐにバーゼルにヒューミントを仕掛けた。三人がマンソン住血吸虫に、ひとりがビルハルツ住血吸虫に寄生されていたことが判った。

 それで、住血吸虫が関与しているんじゃないかと考えた。しかし、山際に訊いても知らないというばかり。それでエージェントを潜り込ませて、情報収集させた。びっくりしちゃった。だって、サルが日本住血吸虫に寄生されていたことを隠蔽していたのよ」

 由梨は頭を振って、溜息を吐く。

「全く、浅はかな人というのは困るわね。すぐに保身に走る。国を救う大事な情報なのに、不祥事を隠蔽するために、前の所長はそれをひた隠しにしていた」

「前の所長って、確か、事故死した……」山根が呟く。

 由梨が山根に眼を向ける。

「ええ。更迭したの」

 浦瀬が舌打ちする。

「そういうのは、更迭とは言わないだろ」

「そう? 私たちはそう言ってるけど」

「一度失敗を経験した人にもチャンスがある。それが一億総活躍社会の筈だ」

 由梨は食指を顎に当て、天井を仰ぐ。

「前の所長は、二千万人の側だったということかしら」浦瀬を見て微笑む。「あなたたちだって、二千万の側でしょ」

「殺される側……」山根が息を呑む。

「いまさら、驚くことないでしょ。驚くのは、こっち。だって、まさか、まだ生きてるんだもの」

 由梨は懐に手を入れた。抜き出すと、その手には拳銃が握られている。

「あなたたちは新海さんを追って、ここに来た。新海さんは拳銃を持っていて、発砲する。浦瀬さんだって持ってるでしょ。車内販売員の女から奪ったでしょ。それで新海さんに応戦するの。銃撃戦の果てに、全員が死ぬ。そういうシナリオよ。気に入っていただけるかしら」

「いいや。全く気に入らない。あいにく、死ぬ気はないんでね」

 由梨は頬を膨らませる。

「ダメよ、そんなわがまま。だって、特定秘密を知ってしまったのよ。そんな人、生かしておけないでしょ」

 由梨は銃口を浦瀬に向けて、近付く。

「出して。盗った銃」

「抵抗しても無駄か」苦笑して言う。

「ええ」

 銃は背中。トラウザーズに差し込んでいる。背中に手を回しながら、由梨を見つめる。チャンスは一度。悟られないよう、慎重に、しかし確実に行わなければならない。

 銃把を握りながら、そっと安全装置を解除した。トラウザーズから銃を抜く。同時に、撃鉄を起こす。その腕を由梨に突き出した。

 銃声。右肩に激痛。腕が重力にひっぱられる。肩の骨が砕けたのか。生ぬるい液体が腕を伝わる。その感触が気持ち悪い。床に血溜まりができる。

「面倒、かけさせないでよ」

 由梨が厭わしげに口端を歪め、銃を握る手で、髪を掻き上げた。

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