第20話

 車を棄てて歩いた。救急車のサイレンが四囲に轟く。パトカーと消防車のサイレンが、それに混じる。現場に残っていたら、一連の事故について事情聴取されることになる。聴取する者が信用できる者だとは限らない。CIRAの息のかかった者がやって来たら、面倒なことになる。

 何食わぬ顔で、有楽町の高架下の店に入った。辺りの喧騒が静まるまで、そこで情報収集するつもりでいた。

 案の定、客の誰もが、ホテルの銃撃とカーチェイスを話題にしていた。どの通りにパトカーが何台いたとか、どこで検問を張っているとか、そんな話題に耳を傾ける。酔客の言うことのすべてが正しいとは思わないが、何も情報がないまま、非常線を抜けようとするのは至難だ。

 小杉はSNSで情報収集している。山根は同僚にラインを打って、検問の様子を探っている。

 浦瀬のスマホが震えた。画面には見知らぬ電話番号が表示されている。それでも相手の目星がつく。

「浦瀬さん? 電話に出られるってことは、まだ捕まってないみたいね」

 思った通り、由梨だ。

「捕まるようなことはしていません」

「あら、そんなことないでしょ。ホテルで発砲したのは、立派な銃刀法違反でしょ。他人の車を勝手に運転したでしょ。自転車じゃないんだから、使用窃盗なんて方便は通用しないわよ」

「いちいち、ご指摘ありがとうございます。電話をいただいたのは、良い弁護士の紹介でしょうか」

「残念。私、法の外にいるから。弁護士なんて知らないの」

「治外法権なんて、外交官の特権だと思ってましたよ」

「余所の国の外交官に認められているものが、私たちに認められないわけないでしょ」

「国民は認めていません」

「誰ひとりとして、国民に雇われてるなんて思ってないわよ。私たちは、衆愚を導くという使命感に突き動かされてるんだから。国民の面倒をみてあげてるの」

 人を不愉快にすることをさらっと言う。

「ホテルで乱射したり、タクシー運転手を射殺したり。導く立場の者にしては、随分と手荒なことをしましたね」

 溜息が聞こえる。

「そういう考え方が間違い。あなた方に私たちの批判はできないの。神の御心が人間に判って? それと同じ。私たちの深慮遠謀は、あなたたち衆愚には判らない」

 苛立ちが声に滲まないように腐心して訊ねる。

「私たちというのは、日本桜会議ですか」

「そうよ。せっかく、浦瀬さんも誘ったのに。日本桜会議を怪しむんだもの。それも、山際の社員と一緒に。私の見込み違いだったわね」

「見限られたのなら、電話なんて寄越さないでほしいものです」

「随分ね。情報を上げようと思ったのに」

「検問が張られていないルートを教えて戴けるんですか」

「違うわよ。それは自分で何とかして。そうじゃないの。新海千紘よ。横浜線に乗ったわ。きっと、八王子で中央線の特急に乗り換えるのね。どうやら、山際の研究所に行くみたい。私もこれから向かうけど、浦瀬さんはどうする?」

 浦瀬は押し黙った。由梨が何を企んでいるのか、真意が判らない。由梨が自ら動くというのなら、浦瀬は用済みの筈だ。

「行くでしょ。どうせ逃げてなきゃならないのなら、あてどもなく彷徨うより、目的地があったほうがいいでしょ。だから、来て。待ってる。浦瀬さんに見てもいたいの」

「何を見せていただけるのやら」

「美しい国よ」

「美しい国?」

 訊き返したときには、回線が切れていた。


 会社員の一団に紛れて、新橋駅まで行った。帰宅する者たちとともに電車に乗る。東京駅で中央線に乗り換え、新宿に出た。「あずさ」の最終に間に合った。席をひとつ回転させ、向かい合わせにした。乗客はまばらだったので、ふたつの席を三人で占有しても咎められる心配はなかった。

 窓際に浦瀬が座り、小杉と山根を通路側に向かい合わせに座らせた。窓からの狙撃が心配だったので、ブラインドを下ろし、上着を掛けた。暗殺者が車内にいることだって考えられる。小杉には、充分に警戒するよう言い含めた。

「どうして研究所に行くんですか」

 発車して間もなく、山根が訊いた。ほかの乗客に聞かれぬよう、声を落として答える。

「正直、何を企んでいるのか判りません」

「大丈夫でしょうか」

 山根が不安げな顔をする。

「罠かもしれません」

「え」眼を見開く。

「しかし、この国のどこにいたって、安全じゃないんです。彼らの監視網は、全国津々浦々に張り巡らされ、彼らの命令ひとつあれば、何でもする者たちが、そこかしこに潜んでいるんです。東京の真ん中だろうが、地方の山中だろうが、彼らには関係ない。どこにいても安全じゃないのなら、誘いに乗ったところで、リスクが増えるわけじゃない」

 絶望的な話をしたのに、山根はむしろ緊張した顔つきを和らげた。開き直るしかないと覚悟を決めたのかもしれない。

「研究所が山梨にあるのは、大正時代に臨床試験をしていた名残りなんですね?」

 山根はポカンとした顔をする。

「そうなんですか」逆に訊き返された。

 茅場町のホテルの一件を思い起こす。細菌学者の名を騙った。エアコンをフル稼働した。遺体の背中を給湯口につけ、臀部を排水口につけた。由梨は、それらに意味があると言った。

 寄生虫は細菌ではないが、細菌と同じ性質を持つ。病原体となる微生物だ。吸血住虫症の感染者は亜熱帯に多い。バスタブで背中と臀部が痛くなるのは、経皮感染の暗示か。

「御社は血吸虫症の研究をしていたとか」

 山根は「それですか」という顔をする。

「そうですね。住血吸虫症。就活していたとき、会社案内に出ていました。入社式でも、そんな話を聞いたかな。それが何か」

「ワイズマンの言葉を考えていました」

「ワイズマン?」

 山根はほかの乗客を気にして、前後に眼を向ける。眼を戻して、声を落とす。

「クラインに重篤な副作用があるって言ったことですか」

「いえ。日本の川や池は安全だと言ったことです」

 山根は眉を開く。

「そうか。住血吸虫のことを言ったのか」

「日本は世界で唯一、住血吸虫症の撲滅に成功しているそうですね」

「ええ。そう聞きました。弊社がそれに貢献したと」

「ウラルには、住血吸虫症の罹患者がいます」

 山根は首を捻る。

「住血吸虫がいるのは、アフリカや南米の亜熱帯だと聞きました」

「ええ、そうです。しかし、ヨーロッパではアフリカに旅行する人が少なくないんです。アフリカや中近東の罹患者が移民して行く例もあります。届出疾患ではないため、罹患者の全体数の把握ができていないようです。殊に、昨今はシリア難民がいます」

「シリア難民も?」小杉が声を上ずらせる。

 浦瀬は小杉に頷く。

「ビルハルツ住血虫症は、シリアの風土病だ」

「シリア難民には、住血吸虫症の罹患者がいるんですか」

 浦瀬は山根に向き直る。

「バーゼルは赤十字国際委員会に、オフプレセニリンを、安価で提供していると言っていましたね」

「ええ。信じられないくらい安い」

「そのオフプレセニリンは、ウラルのシリア難民にも渡っているんでしょうね」

「渡っているかもしれませんね。それが何か?」

「相互作用で、クラインが重篤な副作用を起こす可能性について話しましたね」

「ええ」

「住血吸虫が原因で、そうなることはあり得ませんか」

 山根は眉を寄せ、考え込む。

「寄生虫ですからね。寄生虫で相互作用なんて聞いたことありません……」ハッとする。「免疫グロブリンならあり得るかもしれません。アレルギー反応です。住血吸虫に寄生されると、これを排除しようとして、体内で免疫グロブリンEが増産されます。それで相互作用が引き起こされるという可能性はあります」

「クラインの治験で重篤な副作用が起きていないのは、住血吸虫症が撲滅されているからだと考えられませんか。しかし、住血吸虫症の罹患者がいる国ならば、相互作用で副作用が起こり得るのではないでしょうか」

 小杉が眼を丸くする。

「シリア難民の高齢者が死んでるっていうのは?」

「あくまで可能性だ。問題は、シリア難民がいるのは、ウラルだけじゃないってことだ」

 小杉は眉を寄せ、眼を細くする。

「シリア難民は、ドイツやスウェーデン、イタリア、フランスにもいます。それらの国から、シリア難民の高齢者ばかりが死亡しているなんて話は出ていません」首を傾げる。「住血吸虫症の人はウラルにしかいない、とか?」

「それはあり得ない」

「そうですね。あり得ません。むしろ難民を多数受け入れてるドイツにこそ、罹患者は多いでしょうね。どうしてウラルだけなんでしょう」

 山根は腕を組んで考え込んでいる。

「どうしてウラルだけなのか、判りますか」

 小杉が水を向けると、腕を解き、小杉を見つめる。

「いえ、ただ、免疫グロブリンだけでは説明できないかもしれません。ほかに何かあるのかもしれません」

「多分、我々は、クラインの秘密に近付いてしまっています。だからこそ、生命を狙われているのだと思います。研究所に行けば……」

 小杉が通路の先に眼を向けた。デッキに通じるドアが開いたらしい。弁当や飲み物を勧める声が近付く。車内販売のワゴン車だ。口を噤んで、車内販売が通り過ぎるのを待つ。

 ワゴンが、山根の隣に停まった。販売員の女が身体を屈める。

「小杉!」

 すかさず叫んだ。小杉は弾かれたよう立ち上がり、販売員の女に向かってワゴンを押し出した。浦瀬は、小杉が空けた座席に立ち上がり、山根の肘かけを蹴って、ワゴンを飛び越えた。通路には女が倒れている。飛び降りて首筋に手刀を入れた。女はひと言呻いて、動かなくなった。手には拳銃を握っている。それを奪い取る。

 ほかの乗客たちが通路を覗き、驚いている。浦瀬は警察手帳をかざした。

「警察です、犯人逮捕にご協力、感謝します」

 誰かが拍手をした。それが伝播し、まばらな客たちが、まばらに拍手をする。

 女は気絶したままだ。引き摺り起こし、手近な席に座らせる。襟元のスカーフを外し、後ろ手に縛り上げる。ワゴンにかけられたバッグの肩掛けベルトを外して、足首を縛る。隣にワゴンを載せ、女に寄りかからせた。

 女をそのままにして、別の車両に移った。乗客たちに怪訝な顔をされているような気がしたが、無視した。

 その後も、用心して頻繁に席を変えた。小淵沢駅で降りるまで、襲撃はなかった。


 タクシーで、山際製薬の薬物動態研究所に向かった。人家の灯りが途絶えても、目的地に着かなかった。途中からはずっと坂道になった。外灯がなく視界が利かないので、外の様子が判らない。だが、道路の両脇に樹木が茂って、壁のように立ちはだかっていることは判った。どうやら、研究所に通じる道は、ひとつしかないらしい。つづら折りの勾配を登り続けて、ようやく停車した。

 車から出ると、高い樹木が風に揺れていた。冷えた外気に身を固くして、高い塀を仰ぐ。門扉は冷たい色を放って、固く閉ざされている。門扉の右に眼を這わせる。塀の一部が抉れて通用門になっている。そこまで足を進めた。

 インターフォンのボタンを押す。雑音がして、人が出た。

「はい」

「警視庁です」

 その後に付け加えようとして躊躇う。CIRAに呼ばれたと言うべきか。だが、相手は心得ているという調子で応えた。

「お待ちください」

 しばらく待っていると、人が近付く足音がした。通用門が開く。滅多に使われたことがないのか、甲高い軋み音が響く。通用門の間から警備員が顔を出した。

「こちらへ」

 小杉と山根を振り向き、目顔で頷く。ふたりとも頷き返して、近寄る。通用門から中に入った。小杉と山根が中に入るのを待って、警備員が通用門に鍵を支った。

 警備員について行く。駐車場があり、車が三台停まっている。いずれも黒色なので、闇に溶け、車種が判らない。そのシルエットから高級セダンらしいことだけは判った。三台の後方を通り過ぎると、垣根があった。その外に出た。垣根の外側にアスファルトで舗装された道があり、それを歩いて行く。道の両側には芝生が張られ、木々が植えられている。葉のないところを見ると、広葉樹らしい。木々の間に東屋があり、ベンチがある。研究員が、休憩に使うのかもしれない。

 道を外れて、屋舎に近付く。窓がなく、のっぺりした壁だけの建物。そこにコンクリートの庇が突き出し、鉄のドアがある。

 警備員はドア横のパネルに暗証番号を入力した。パネルのランプが赤色から緑色に変わる。それを確認して、ドアの鍵穴に鍵を挿し込む。デッドボルトが外れる音がした。

「どうぞ」

 ドアを開けて振り向く。

 浦瀬は警備員に会釈し、中に入った。

 正面の壁一面にモニターが並び、その前に机が二列、横に並んでいる。前列には、三人の警備員に混じって、栗色の髪の女が座っていた。その女が振り向く

「あなたの方が新海より早かった。新海はやっと、甲府駅を出たところよ」

 由梨は微笑んで言った。

「ここに美しい国があるんですか」

 由梨はクスッと笑う。

「せっかちね。そんなに慌てなくてもいいじゃない」

 由梨は口の端に食指を当てて、首を傾げた。腹の中では、何を考えているのか判らない女だけに、そんな仕種が不気味で仕方ない。

「そんなところに突っ立ってないで、空いてる席に座ってなさい」

 浦瀬は、小杉と山根と眼を交わし、後列に並んで座った。

 

 由梨は度々、スマホを手にした。報告を受けているようだったし、指示を与えているようだった。浦瀬たちは、無言で座っているだけだった。手持無沙汰で、退屈になってもよさそうなものだが、期待と不安が入り混じった心地でいると、むしろ、時計の動きが早いように感じられた。

 小一時間が過ぎたころ、突然、緊迫した。モニターが男を映し出したのだ。脚が短い。カメラの俯瞰が理由だとも思えない。男はモニターを真正面から見上げている。別のモニターには、その背中が映っている。

「門扉前。不審者あり」

 警備員の声が警備室に轟く。モニターの男は身体を屈めた。何か拾ったようだ。腕を後ろに振る。投げる気だ。その直後、映像が消え、警報が鳴り響いた。

――監視カメラを割ったのか。

 別のモニターに眼を這わせる。背中を写していたモニター。どれだ。あった。注視する。また何か拾っている。石だ。投球動作に入った。そのモニターの映像も途絶えた。

 ふたりの警備員が、慌ただしく席を立ち、部屋を出て行った。警報が鳴り響くので、急かされている気になる。

 由梨は涼しい顔でモニターを見上げている。スマホを手にする。何を話しているのか聞き取れない。

 やがて、すべてのモニターが女の姿を映し出した。脚を引き摺りながら走っている。暗視カメラが、それを前後左右から追跡する。女の顔には見覚えがある。スーパーの履歴書の女。似ている。

――新海千紘か。

 由梨がスマホを置いて振り向いた。

「行くわよ」

 席を立ち、ついて来るよう、目顔で促す。

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