第19話

 サイレンは聞こえなくなった。それでも、廃墟の中でじっとしていた。外の様子が気になり、スマホで情報を得たいという誘惑に駆られた。それを我慢した。電源を入れれば、近くの基地局と交信を始めてしまう。それで居場所を特定されるリスクは冒したくなかった。

 夜の帳が落ち、津野田の顔も判らぬくらいになった。身体はすっかり冷え切っている。ドローンを封じるためとはいえ、ダウンジャケットを棄ててしまったことが、いまさらながら悔やまれる。頻りに腕をさすっても、焼け石に水でしかない。

「凍えてしまう前に、ここを出よう」

 薄着でいるのは、千紘だけじゃない。津野田も寒そうに、頻りと身体をさすっている。

「はい。動けば温かくなるでしょう」

 千紘は一も二もなく賛同した。だが、いましばらく動かずにいたほうが良かったのかもしれない。

 通りに出ると、辺りには煌びやかな灯りが溢れていた。車は無尽蔵に行き過ぎる。歩道を行き交う人も間断ない。変電所跡の周りがひっそりとしていたので、すっかり夜が更けた気になっていた。そうではなかった。

 千紘はともかく、津野田は目立ち過ぎる。路地から出られず、歩道の手前に立ち止まって逡巡する。一度戻って、人通りが絶えるのを待ったほうが良いのではないか。津野田はどう思っているのだろう。津野田を見ると、一心に通りを見つめている。その視線を追うと、宅配業者の軽貨物が路上駐車している。ドライバーが荷物を持って、ガードレールを跨いだ。歩道を斜めに横切って、雑居ビルに消えた。

「よし、いまだ」

 え? と思ったときには、津野田はもう歩き出している。短い脚を精一杯早く動かすものの、あまり進まない。自分でも、もどかしいと思ったのか、拳も使いだす。類人猿のように力強く進んでいく。千紘は慌てて後を追う。

 津野田はガードレールを乗り越えている。

「運転席に回ってくれ。僕は助手席に乗る。ひとりで大丈夫だ」

 驚いて訊く。

「盗むんですか」

「カーチェイスで何台もお釈迦にしたんだ。いまさら、被害者両が一台増えたって、どうってことないだろ」

 津野田の理屈を、千紘は肯うことはできない。

「だからって……」

 千紘は、気が進まず眉を顰める。津野田は至って真剣な眼をしている。

「国が不法なことをして追い詰めよとしているのに、道理で対応するつもりか。命取りになるぞ」

 殺されかけた恐怖がまざまざと蘇る。津野田の言う通りだ。まだ、死にたくない。というより、死ぬわけにはいかないと思う。クラインの秘密を白日のもとにさらすのだ。

 千紘はガードレールを跨いで、運転席に向かう。ドアを開け、素早く乗り込む。津野田も少し遅れて乗り込んできた。軽貨物のエンジンは、かけっ放しだ。セレクターをDに入れ、サイドブレーキをリリースした。サイドミラーが、宅配業者を捉えた。血相を変えて駈けて来る。千紘は、アクセルを踏み込んだ。

「山際製薬の所在地は、確か日本橋だったな」

「それは本社です。薬物動態研究所は、別だと思います」

 多佳子から渡された千紘のID。それには、薬物動態研究所とある。

「何処だろう」

「判りません」

 できればスマホは使いたくない。だが、どのみち、この近辺に潜伏していることは知られているのだ。検索して、すぐにオフにすれば、致命的な問題にはならないだろう。胸のポケットからスマホを抜いて、津野田に差し出す。

「調べて、すぐに電源を切ってください」

「判った」

 津野田は千紘の手からスマホを取った。津野田は早速スマホを操作する。

「おかしいな。圏外になってる」

「え」

 ちらっと見ると、津野田が険しい顔で画面を睨んでいる。

「見せてください」

 津野田からスマホを受け取って、画面を見る。確かに圏外だ。どうしてだろう。運転しながらだから、画面をちょっと見ることしかできない。

「ジャミングですか」

 スマホを津野田に渡しながら訊く。

「こっちは車で移動してるんだ。とんでもなく広い範囲に仕掛けなきゃ、ジャミングできない。街の誰もがケータイを使えないようにしなきゃならない」

 さすがに、そんなことまでしないだろう。それに、いまは包囲されてるわけじゃない。むしろ、千紘にスマホを使わせたほうが居場所の特定ができるから、都合がいい筈だ。

 津野田はタップやスワイプを繰り返したが、結局、アンテナは立たなかったようだ。赤信号で停まったタイミングで、千紘も設定画面を開いたり、電源を入れ直したりした。結局、無駄だった。スマホは諦めるより仕方ない。

「ネットカフェに行きます」

 漫画を読み耽るために、ネットカフェの会員になったことがある。近くに、チェーン店がある筈だ。


 宅配の軽貨物を路上に停めた。盗難車の届け出がなされた筈だから、いつもでも使っているわけにはいかない。キーをつけたまま乗り棄てることにした。ステアリングやセレクターの指紋だけは丁寧に拭き取った。指紋を手掛かりに、足取りを掴まれるのは、避けたい。

 津野田がよちよちと歩く後から、ついて行く。自動ドアが開く。受付で順番待ちをしている者たちが、振り向く。すぐに眼を逸らす。中には、ハッとした顔つきをする者がいた。人は、障害者に興味本位の関心を示すのは不道徳だと思っている。その意識が過剰になり、ことさら、障害者から視線を逸らそうとしてしまう。

 津野田は会員証を持っていないので、ロビーのベンチで待ってもらうことにした。

 順番が来て、店員に会員証を手渡す。店員は、それを裏返してバーコードをスキャンする。ディスプレーを見て、もう一度スキャンする。

「おかしいな」

 会員証の裏表を仔細に点検する。白バイ隊員に、免許証のデータがないと言われたことを思い出した。どうして、エラーばかり……。キャッシュカードも使えなかった。スマホも。

 ハッとして眼を見開く。ある可能性に思い至って愕然とする。

――既に、社会的に葬られている?

 千紘に関するあらゆるデータが削除されているのではないか。免許証、預金、スマホ。ネットカフェまで。

 敵は国家だ。その気になれば、何だってできるということか。警察組織を従えているのなら、免許証データには容易にアクセスできて当然。民間のデータベースには、非合法に侵入しているのか。

 マンションから逃げた直後、白バイ隊員に職質をかけられたときには、免許証データが存在しなかった。その前には、スマホが使えた。留守番電話サービスセンターに接続できたのだ。

 当初は、スマホだけは活かしておき、それで千紘の居場所を追跡するつもりでいたのかもしれない。だが、千紘はシルヴァラードの指示に従って、電源を切っていた。それなら、スマホを活かしておく理由がない。それでスマホも使えなくしたのか。

 ひとつひとつ、千紘のデータを削除しているというわけか。はたしていま、戸籍システムに千紘のデータは存在するのだろうか。それすら削除されているとしたら、この世界に千紘は存在しない。千紘の身体、実体はあるのに、社会とのつながりを証明するものを、すべて奪われてしまったということだ。呼吸をして生きているのに、社会的には存在していない。

 迂闊だった。社会的に葬られたということより、もっと切実な問題がある。致命的な危機に現に直面している怖れがある。

 敵は、あらゆるデータベースに自由にアクセスできる。エラーとして弾かれたカードの記録にすら、アクセスできるということだ。

 冷や汗が背中を伝う。千紘のカードがどこのどの機械で使われるのか、四六時中監視しているより、エラー情報を収集するほうが遥かに容易だ。社会的に葬ったのは、それが目的だろう。

 浅野邸で襲われたのは、ATМにキャッシュカードを入れた後だった。キャッシュカードのエラーで、千紘が浅野邸近くのコンビニのATМを使おうとしたことを知られてしまったのだ。ネットカフェの会員証でエラーが発生したいま――。

 この店舗を利用しようとしたことは、たちまち知られてしまった。すぐに、用件を終えなければ、敵がやって来る。

「早くして。何してるの?」

 努めて苛立って口調で言う。店員が慌てて顔を上げる。

「いえ、ちょっと読み取れなくて……」

「それはそっちの都合でしょ。こっちには関係ないじゃない」

「ええ、まあ……」

 店員は困惑げに眉を寄せる。千紘は運転免許証を取り出して、カウンターに置いた。

「どう? 本人でしょ」

 店員は恐縮した様子で頭を下げる。

「あの、コピーさせて戴いて、よろしいでしょうか」

 国から発行されたものなんて、くれてやっても構わない。そう思いながら、頷く。店員はカウンターの隅に行き、コピー機の蓋を開けた。ベンチを振り向くと、津野田が不安げな顔をしている。近寄って、事情を説明する。

「まずいな」

 津野田が顔を曇らせる。

「すぐに済ませます」

 店員に名前を呼ばれて、カウンターに戻った。

「お待たせしました」

 会員証と免許証を返してもらう。ヘッドフォンとレシートを受け取って、パソコンのエリアに向かう。監視カメラを確認するのは、もはや習慣になっている。会員証のエラーで居場所が発覚しているのなら、いまさら監視カメラを気にしても仕方ない。それでも、顔を晒さないように気をつける。

 指定された部屋に入ると、早速ブラウザを起動した。山際製薬のホームページを呼び出し、会社概要をクリックする。薬物動態研究所を探す。あった。山梨県北杜市だ。どんなところだろう。研究所の周りをイメージする。山が近く、樹木に囲まれているのだろうか。記憶の中に、そんな景色はないか。自問すると、耐え難い痛みが頭を襲う。この痛みこそ、自分がそこにいたという証明だと思う。その住所をスマホで撮影する。

 検索バーに、新海千紘と入力してみる。何ひとつヒットしない。清澄マンション。浅野邸 爆発。パトカー 事故。それらで検索すると、ニュース記事はヒットする。けれども、その中に千紘の名はない。ここにも、新海千紘という人間は存在しない。千紘の氏名や顔写真を公表して、市民に情報提供を求める気もないのか。それに頼らなくても、見つけ出せる自信があるということか。

 ディスプレーの上辺にウェブカメラ。それを見て、ドキッとする。ビデオチャットに使うのものだ。それは判っている。けれども、監視されているような気がしてしまう。早く逃げ出さなきゃ。気が急く。

 逸る気を抑えて、クラインと入力してみる。山際製薬が次世代の認知症治療薬の開発に成功したという類の記事しかヒットしない。PМDAのホームページにいけば、YМG‐0714に関する資料を閲覧できるかもしれない。だが、そんな余裕はない。

 すぐに個室を出て、カウンターに戻った。清算を済ませて、津野田を見る。薬物動態研究所の住所が判ったことを、目顔で報せる。津野田は、千紘の眼を見つめて頷いた。

 外に出て、ドキッとした。パトカーがいる。軽貨物の陰に警察官の姿。運転席を覗き込んでいる。盗難車だと気付いたのか。何て早さだ。

 歩道には人だかり。別の警察官が話を聞いている。運転していた者の目撃情報を集めているようだ。野次馬のひとりがこちらを振り向いた。慌てて、顔を背け、歩き出す。ついつい、足が速くなる。津野田も、拳を補助にして速度を上げる。

「山梨県北杜市でした」

 歩きながら津野田に言う。

「そうか。思い出した。山際製薬は住血吸虫症の研究をしていたんだ。日本は住血吸虫症を撲滅した世界唯一の国だが、昔は関東や山陽、九州各地の風土病だった。中でも、甲府盆地は最大の罹病地帯だった」

 それで、山梨に研究所があるのか。横浜近郊にないのが恨めしい。

「どうやって行きましょう」

「他人の車を拝借するのも、限度がある」

「はい。盗難車の手配をされたら、すぐに見つけらてしまいます」

「八王子に出て、特急に乗ろう」

 横浜駅に向かった。途中で、ディカウントストアに入って、フリースとニット帽、マフラーを仕入れた。


 駅構内には監視カメラがある。カメラの位置を確認し、死角を選んでいたら、駅員ばかりか、乗降客だって怪しむ。不自然な振る舞いは、却って衆目を集めることになってしまう。撮られるのは仕方ないと諦め、ニット帽とマフラーで顔の半分を隠した。群衆に紛れて、横浜線に乗った。

 八王子駅で「かいじ」に乗り換えた。甲府までしか行かないので、その先は各停になる。「かいじ」の車中でも、甲府駅でも、追手の気配はなかった。間違いなく、駅の監視カメラに捉えられている。きっと、電車を使っていることに気付いていないのだ。それで、駅のカメラの映像解析を後回しにしている。甲府で下りの最終列車に乗った。小淵沢駅に着いたのは、零時過ぎだった。

 宿はなく、開いてる店もない。寒さをしのげる場所がないので、すぐに移動することにした。幸い、酔客を待っていたのか、駅前にタクシーがいた。その内の一台に乗り込んで、研究所の住所を告げる。運転手は、怪訝に思ったのか、後席をちらっと振り向いた。だが、何も言わず、車を出した。

 タクシーはロータリーを出る。外灯のない寂しい途に入る。人も車もいない。灯りがないので、どんな途を走っているのか判らない。やがて坂道になった。延々と坂を上って行く。薬物動態研究所があるのは、山中深くのようだ。眠気に襲われ、うとうとしだす。半醒半睡で、どこに何をしに行くのか、意識できなくなる。すべては架空のできごとだという気になる。

 停車して、ハッとする。意識が戻って、現実を自覚する。津野田と一緒に逃げている。そして、山際製薬に乗り込む。

「ここでいいですか」

 運転手が訊く。そう言われても、判らない。窓の外に眼を向けても、暗くて様子が判らない。でも、住所は合っているのだろう。

「ええ。ありがとうございます」

 津野田が降りる間に、清算する。外に出ると、樹々の葉擦れが聞こえた。冷たい風に身震いする。星明かりで、周りを高い樹が囲んでいるのが判った。眼の前には大きな門扉が外来者を拒んでいる。

 タクシーが去るのを待って、津野田に言う。

「攀じ登るしかないですね。でも、きっと警備員がいます」

「侵入しようとしたら、たちまた警備員に取り押さえられるというわけか」

「ええ」

 どうすればいいのだろう。門扉と、それに続く塀に眼を凝らす。暗闇に慣れ、塀の様子が判った。まるで刑務所の塀だ。高くてのっぺりとしている。攀じ登るなんてとても無理だ。

「僕が囮になる」

「え」

 津野田を見つめる。暗くて表情は判らない。けれども、張り詰めた気を感じる。きっと真剣な顔つきをしている。

「捕まるつもりですか」

 津野田は、返事をする代わりに。門扉の前に進む。顔を右上に向けた。そこに監視カメラがある。石を拾って、カメラに狙いをつける。肘を畳んで、腕を振る。パリンとガラスの割れる音がした。途端に警報が鳴り、辺りが赤色灯の色に染められる。千紘は、警報の音にも赤色灯の光にも度を失ったが、津野田は落ち着き払っている。もうひとつ石を拾い、今度は左上の監視カメラに狙いをつける。さっと腕を振って、それも割る。

「早く、そこに」

 千紘を振り向いて、通用門を指し示す。有無を言わせぬ強い口調で言われ、千紘は弾かれたように駈け出した。通用門の左で、背中を塀にピタッとつける。ドアノブをちらっと見る。千紘の側にあるから、ドアは右開きだ。右側でじっとしていれば、開いたドアが姿を隠してくれる。どうしよう。右側で待ったほうがいいだろうか。けれども、ドアを回り込まなければ、中に入れない。一瞬で中に滑り込むには、左側にいたほうがいい。津野田はどっちがいいと言うだろう。

 津野田は数メートル先で、通用門に向かって立っている。赤色灯の灯りが津野田の形相を浮かび上がらせ、通り過ぎる。肝の据わった眼をしている。それを見て、千紘も腹を決めた。このまま、左だ。

 鍵が外れる音がした。息を殺して待つ。金属が軋む音を伴い、通用門が開く。津野田は通用門を睨んでいる。

「何をしている」

 怒鳴り声とともに、警備員がふたり、駈け出してきた。ふたりとも、津野田に向かって行く。千紘が身を潜めていることに気付かない。千紘は身を翻し、通用門の内に滑り込んだ。

――入った。

 安心はできない。敷地内のそこかしこに監視カメラがある筈。塀に身体を寄せ、頭上を見回す。暗くて、どこに仕掛けてあるのか判らない。ぐずぐずしていたら、警備員たちが戻って来てしまう。

 覚悟を決めた。カメラに身を晒しても、それで捕まるわけではない。警備員が戻るまで動かずにいたら、捕まってしまう。地面を蹴った。右脚に痛みが走る。全速力で走りたいのに、右脚が上がらない。それでも必死に脚を前に出す。敷地を横切り、建物を目指す。建物はシルエットが判るだけで、窓も入口もどこにあるのか判らない。だが、植栽のシルエットで、小路ができているのが判る。入口はきっとその先だ。

 向きを変え、小路に入った。足の裏の感触が変わる。砂利だ。細かな石がこすれ合う音。右脚を引き摺っているのに、柔らかな地面にさらに速力を奪われる。

 思った通り、そこが入口だった。全く飾り気のない無機質な扉。取っ手を探して触れてみる。金属の冷たさが伝わるだけで、ひっかかるものは何もない。自動で開くのか。扉の上に眼を向ける。赤い光点が見える。眼を凝らすと、光点の上にレンズらしきものが、庇で守られている。監視カメラだ。自動ドアのセンサーらしきものは見当たらない。視線を下げ、扉の周囲を見る。扉の右に立方体があった。それに触れる。函体が上にずれた。それがカバーだと気付いた。カバーをスライドさせると、電子光を発するものが現れた。

 俄かに記憶が蘇る。IDセンサーだ。多佳子に渡された社員証を、それにかざす。スキャニングの電子光が、社員証の周囲に漏れる。低い電子音がした。認証された。次は、虹彩認証だ。センサーを覗き込む。再び電子音がして、扉が開いた。中に飛び込むと、すぐに扉が閉まった。屋外に鳴り響く警報の音が遮断された。

 減灯されているものの、灯りがある。壁と廊下のタイルは、真っ白で光沢がある。まるで磁器のようだ。窓はない。ところどころ、壁面が凹んでいるのは、扉があるのだろう。

 千紘には、どちらに進めばいいのか、確信があった。足早にそちらに向かう。ひとつの扉の前に立ち止まり、社員証をセンサーにかざす。虹彩を読み込ませ、ロックを解除する。モーターが低く唸って、扉が開いた。

 中央の実験台にPCRシステム、核酸抽出装置、超遠心機、画像解析システムなど、さまざまな解析装置が並んでいる。サイド実験台には、超低温フリーザー、高速冷却遠心機がある。それらを見回して、千紘は懐かしさを覚えた。

 サイド実験台と薬品保管庫の間に、人が通れるだけの幅がある。その先に扉が見える。記憶がまざまざと蘇り、扉の先にあるものが判る。オートクレーブ(高圧蒸気滅菌装置)や安全キャビネットがある筈だ。そこは、遺伝子組み換えを行うP2実験室だ。

 千紘は、サイド実験台のパソコンに眼を留めた。イントラネットに接続されているから、EDCシステムにアクセスできる筈だ。USBメモリに記録されたデータを読み込める。 パソコンの前に立つと、パスワードが頭に浮かんだ。社員IDとパスワードを入力する。ハードディスクがシーク音を立て、ОSがスリープから復帰する。

 USBメモリを挿し込む。シルヴァラードが敢えて言及したものだ。何が記録されているのだろう。マンションに押し入った男の口振りでは、誠和創薬が改竄した治験データのようだった。誠和創薬はコレステロール値を低下させる医薬・抗PCSK9抗体の開発を断念した。

 EDCシステム(電子的臨床検査情報収集システム)にアクセスした。メモリの中身はやはり、症例報告書だ。EDCシステムに読み込むことができた。

 被験者の基本属性を読み飛ばし、副作用に注目する。どの被験者も重篤な副作用を発症していない。頭痛や筋肉痛などがあるだけだ。いずれも処置をせずに改善している。実際には、重篤な副作用があったのに、なかったように改竄したということだろうか。

 そんなことをしても無駄だ。仮に重篤な副作用があり、それを隠蔽するために、製薬会社が治験結果を改竄しても、治験を担った医師たちが副作用報告をPМDAに上げる。たちまち嘘が発覚してしまう。治験データの改竄なんて、意味がない。誠和創薬がそんな浅はかなことをするとは思えない。

 さらに読み進める。肝機能障害がある。処置なく改善とある。軽微な副作用ではない。処置なしの改善は疑わしい。さらに読み進めると、もっとおかしな記述があった。過粘稠症候群。アナフィラキシー様症状。抗PCSK9抗体の副作用で、こんなことが起こり得るだろうか。どちらも、処置なく改善とあるのは、うすら寒さすら覚える。

 なるほど。たしかに改竄されているのかもしれない。だが、発覚して当然のことを、誠和創薬がするだろうか。頭痛。筋肉痛。過粘稠症候群。アナフィラキシー様症状……。

 ハッとした。これらは、免疫グロブリン製剤の副作用だ。

「クラインの仕掛け、思い出すことができて?」

 不意に話しかけられた。心臓を刺し貫かれた思いだ。ゆっくりと振り向く。若い女だ。栗色の髪を揺らし、微笑みながら近寄る。

「また、仲よくできるかしら」

 女は右手を差し出した。でも、千紘はその手を握らない。信用がならない気がした。女は手を引き、不貞腐れた顔で髪を掻き上げる。

「せっかく待っててあげたのに。戸籍が抹消され、免許証もキャッシュカードも、スマホも、ネットカフェの会員証すら使えない。それなのに、どうしてここに入って来られたと思ってるの。恩を仇で返すつもりかしら」

「待ち伏せしていたんですか」

 女は皮肉めいた笑みを零す。

「まあね。あなたを野放しにはしておけないの。全く、石原次長が、寝た子を起こすような真似をしてくれるから、いい迷惑よ。本当」

 逃げられるだろうか。でも、女はひとりじゃない。三人の男を従えている。

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