第18話
エントランスに小銃を置き、外に出た。パトカーと消防車のサイレンが近付いている。早く立ち去らなければ、厄介なことになる。
交差点で手を上げ、流しのタクシーを捕まえた。山根を先に乗せ、小杉を挟んで浦瀬が最後に乗り込む。乗ってから考える。
――どこに逃げれば良い?
運転手がルームミラーを見上げる。行く先を催促している。しかし、どこに安全なところがある? CIRAの監視網は、この国の隅々まで張り巡らされている。
「どちらまで?」
運転手が焦れた様子で訊く。
「本府庁舎」
「え」
小杉が声を上げた。運転手は、コラムシフトのノブにかけた手を止めた。
「いいですか。本府庁舎で」
「ええ。お願いします」
運転手はカーナビに行く先を入力して、発車した。
外はサイレンがけたたましい。救急車のサイレンも混じりだした。
連中は、防弾チョッキを着用していただろうか。足元しか狙わなかったから、致命傷を負った者はひとりもいない筈だ。それでも、万一、ということはあり得る。重傷者がいないことを祈る。
「何かあったんでしょうか」運転手が訊く。
「事故みたいですね」小杉が返す。
「そうですか」首を捻る。「会社は何も言ってないな」
山根を見ると、抜け殻のようだった。肩の間に首を落とし、真っ直ぐ前を見ているものの、その眼に何かしら映っているとは思えない。瞳孔が大きくなっている。
浦瀬のスマホが低く唸って、震えた。取り出して画面を見る。見知らぬ番号だ。
「はい」名乗らずに出る。
「大丈夫? 怪我してない?」
小松崎由梨だ。面の皮が厚いにもほどがある。襲撃は由梨の仕組んだものに違いない。
「三人とも無事だ」
「そう。良かった」
涼しい声で言う。あの美しい顔の下に潜むのは、魍魎か、それとも機械か。いずれにしても、人ではない。
「随分と手荒なことをするじゃないか」
「あら、何をおっしゃっているの。私は心配してるのよ」
「よく言う」
ふふっと、笑い声が漏れる。
「私、信用ないのね」
当たり前だと返そうとして、言葉を飲み込む。感情を押し殺す。
「何の用でしょう」
「用があるのはそちらじゃなくって? だって、ここに向かってるんでしょ」
ハッとする。行先を知ってる? 車内を見回す。何か仕掛けてあるのか。いや、違う。カーナビを見て合点がいく。
運転手がナビに行く先を入力したのは、ルートを検索するためではない。会社に行先を報せたのだ。このタクシー会社は、GPSで運行管理をしているのだろう。CIRAはそのラインに侵入して、本府庁舎に向かうタクシーがいることを知った。それと別に、浦瀬のケータイの位置情報を検索していた。ふたつが重なり合って、浦瀬の所在と行先を知った。
ほんの数分で、その解析を終えてしまう能力には、舌を巻くしかない。これが味方なら、どれほど頼もしいだろう。
浦瀬は努めて穏やかな口吻で言う。
「あなたに用があるわけじゃない。さすがに、自分の庭では銃撃を控えるだろうと思っただけです」
「そうね。してもいいけど、先々のことを考えたら、しないほうが賢いわね。CIRAが実行部隊を抱えてるなんて噂になったら、いろいろ面倒なことが増えちゃう」
「国民を支配しにくくなる」
由梨は、心から愉快そうに笑った。
「浦瀬さんて、面白い人ね」
「ありがとうございます」
「でも、あまり深入りしちゃ駄目よ。これは忠告。度を過ぎると、次は脅しじゃ済まないから」
「脅し? あれが脅しですか。本気で消す気なのかと思いましたよ」
「消されなかったでしょ。あのくらいしないと、脅しだって判ってくれないじゃない」
「言ってくれるだけで、判ります」
由梨はまた声を上げて笑った。
「本当、面白い人。まあ、いいわ。そろそろ退庁しようと思っていたんだけど、いらっしゃるなら、待ってる。いいワインがあるの」
電話を切った。小杉の物問いたげな視線を感じたが、その前に佑香に連絡したかった。佑香の番号をタップする。
「何、どうしたの」
突っ慳貪な声が出る。無愛想な口吻なのに、不思議と心安らぐ。いつもと変わらぬ日常に帰った気がした。
「お義母さん、どうしてる」
「寝てるわよ。こんな時間だもの」
「そうか。クラインは止めたほうがいい」
一度、好きにしろと言ったのに、いまになって止めろと言ったら、怒り出すだろうと思った。
「どうして? いままで治験に参加した人たちは、みんな症状が改善しているらしいわよ。先生も、劇的な効果があるようだって言ってるけど」
案の定、少し苛立った声だ。
「副作用があるかもしれない。そんな噂を聞いた。実際のところはどうか、判らないが、厭な予感がする」
佑香は押し黙った。止めると言うまで、説得を続けなければならない。だが、薬学的、医学的に納得できない限り、止めるとは言わないだろう。浦瀬に説得できるだけの専門知識はない。どう説得すべきか、言葉が浮かばず、浦瀬も無言になる。
「頼む。止めてくれ」
それしか言えなかった。
「判った。じゃ、止める」
「え」
「えって何? 止めて欲しいんでょ」
「ん、ああ」
「厭な予感がするって、真剣にあなたに言われたら、そうするしかないじゃない。刑事の勘てやつでしょ」
浦瀬は苦笑した。刑事の勘を信じる気になったらしい。
電話を切って、小杉を見た。小杉は身体を前傾させ、声を落とした。
「さっきの電話、小松崎さんですか」
「ああ」
「何て?」
「怪我の心配をしていた」
「自分でやらせたんでしょ」さすがに小杉も呆れている。「でも、どうしてでしょう。新海千紘の居場所を教えたと思ったら、その日の内に射殺しようとした」
「刻一刻と変わる状況に応じて、味方にしたり敵にしたりするんだろ。信用のならない連中だというのが、よく判った」
「新海を取り逃がしたから、用済みになったということですか」
「かもな」
だが、それならば、ホテルのラウンジでなくても良かった。山根と落ち合うのを待っていたのか。だとしたら、きっと盗聴されていた。ラウンジまで尾けられていたのか。客を装ってラウンジに入り、盗聴器を仕掛けて出て行ったのだろう。
迂闊だった。尾行する者が数人なら、浦瀬だって気付く。二桁の人間に入れ替わり立ち替わり、尾行されていたら、容易には気付けない。しかも相手は、公安部とCIRAだ。
やはり、クラインが理由だろうか。山根に背触したことで、クラインの秘密に近づいてしまったのかもしれない。一体、何があるのだ。クラインに。
不意に、ガラスの割れる音がした。世界が壊れたのかと思った。
違う。割れたのはフロントウィンドーだ。運転手の頭が撥ね上がっている。全身の肌が粟立った。
――狙撃された。
咄嗟に、山根の頭を抑え込む。山根は震えている。震えているのなら、心配はらいらない。気は確かだ。
「誰を撃ってるんだよ。運転手なんて、無関係だろが」
小杉が頭を低くして憤る。
全くだ。巻き添えにしてしまった。運転手は胸をステアリングに載せ、腕をだらりと垂らしている。恐らく、即死だ。ホテルのラウンジで乱射する連中だ。これくらいのことは予測すべきだった。待つと言った由梨の言葉を真に受けてしまった。腹立たしさと口惜しさで、胸が塞がる。
身体が揺れ、衝撃で揺り戻された。タクシーが蛇行している。右の車両に接触し、弾き返された。
ステアリングかブレーキペダルを掌握したい。アクリル板が邪魔だ。狙い撃たれるリスクを冒して身体を起こし、防護壁を殴る。二度、三度と殴る。割れる気配が全くない。アクリルではなく、ポリカーボネートかもしれない。簡単に割れたら、防犯にならないから、当然か。諦めて、シートの陰に隠れる。
その間も、タクシーは接触を繰り返している。左の車に当たり、右の車に当たる。それでも減速しない。運転手の足がアクセルペダルに乗ったままなのか。ステアリングの左に突き出すコラムシフトのレバーを見る。ノブは上を向き、前方に押し出されている。ということは、ギアはトップだ。減速しないわけだ。エンジンブレーキを期待できない。追突でもしない限り、停まってくれないだろう。
「このままじゃ、まずいですよ。事故ります」
小杉の言う通りだ。だが、運を天に任せ、成り行きを見守るより仕方ない。右に弾かれた車両が縁石に乗り上げた。そこに後続車が追突したらしい。大きな音がした。
前方に眼を向ける。数台先のテールランプが明るい。後続車のそれも明るくなる。続いてその後ろのテールランプも明るくなる。導火線を伝う火のように、順々に明るくなって、近付いてくる。直前の車両もブレーキを踏んだ。
「追突する。頭を守れ」
注意を喚起して前傾し、頭を抱える。
衝撃。
助手席の背凭れが頭頂部を圧迫する。後ろからさらに暴力的な力。追突された。リアウィンドーが割れ、破片が背中に落ちる。身体が押し出され、時計回りに回転する。追突された弾みで、車両が横向きになった。左肩に痛みが走る。変な具合に捻ったのかもしれない。横滑りに疾走している。
その勢いが減じて、身体がふっと軽くなった。エンジンがひと際高く唸っている。ギアが外れ、ニュートラルになったらしい。身体を起こし、左を見る。直前にいた車が左のドアにくっついている。右を見る。トレーラーが張り付いている。こんなものに追突されたのか。山根を見る。
「動けますか」
「ええ、多分」
山根がやおら、身体を起こす。怪我の有無が気になるのか、両腕を見て、胸部、腹部をさする。
「怪我はしていないようです」
「なら、安心だ。降ります」
山根が頷く。その眼を見て、浦瀬はほくそ笑む。タクシーに乗った直後と違い、瞳に光がある。肝を据えたらしい。肩を叩くと、山根は真っ直ぐ見つめてきた。
「私は、長いものには巻かれていれば良いと思っていました。力のある者には逆らわず、従順でいればいいと思っていた。それなのに、あなたのせいで道を踏み外してしまった。正直、迷惑な話です。しかし……」運転席を見る。周りの事故車両を見る。「こんなことは許せない」
「外に出ましょう」
だが、ドアを開けようがない。右のドアにはトレーラーが張り付いている。左のドアは、直前にいた車に密着している。リアウィンドーを振り返る。
「そこから這い出るしかありません」
シートベルトを外して、身体を捻る。シートに膝立ちになって、身体を伸ばす。ガラスの破片を払って、手を衝く場所を作る。身体を引き上げ、外に出る。半分の厚さになったトランクルームを蹴って、アスファルトに降り立った。隣の車線で、中年の女の運転手が眼を吊り上げ、ドアを開けかけている。
「文句は後で聞く」
女が半開きにしているドアを押し込んで、左側面に張り付いている車に向かう。運転席はタクシーと密着している。助手席に回ると、心配そうな顔が幾つかあった。彼らを掻き分け、中を覗く。若い女が項垂れ、首を抑えている。ウィンドーを叩くと、振り向く。ドアロックを解除するよう、手振りで言う。解除する音がしたので、ドアを開けた。車内を見回す。同乗者はいない。
「大丈夫ですか」
女は何も答えない。表情から察するに、嘔気がありそうだ。痛むのは、頸椎だけらしい。
「動けますか」
助手席から手を伸ばして、シートベルトを外す。
「そちらからは出られません。こっちに来てください」
女は恨めしそうな眼つきで、センターコンソールを見る。
「大丈夫。跨げます」
女は、不貞腐れた顔で両脚を引き上げ、助手席に下ろした。首を不自然に直立させ、車から出てきた。
「すぐに救急車が来ます。それまで安静に寝かせていてください」
その場にいる者に彼女を託し、タクシーに戻る。小杉が周りの事故車両を見て、唖然としている。山根は憔悴しきった顔で、突っ立っている。その肩にレーザー光が当たった。
「小杉!」大声で怒鳴った。
小杉が反射的に、山根を押し倒す。
野太い銃声。車体に着弾する。小杉の頭上だ。
浦瀬は、すかさず、四囲に眼を配った。敵はひとり。拳銃を握る手をまっ直ぐ突き出している。車の間を足早に向かって来る。
「逃げるぞ。頭を上げるな」
小杉と山根の襟首を掴む。左肩の痛みを堪えて、ふたりをひきずり起こす。車の陰に隠れながら、走る。立て続けに二発の銃声。そこかしこに起こる悲鳴。車から逃げ出す人びと。さらに銃声。人混みを気にしていない。一瞬の静寂を措いて、ひと際高い悲鳴が起こった。
――また、誰か巻き添えになった。
街中に逃げるのは危険だ。第三者への被害が大きくなる。手近の車両のドアハンドルを引く。逃げ出した者は、ドアロックを忘れていなかった。別の車両に移って、ドアハンドルを引く。今度はロックされていない。しかも、アイドリングしている。運転席に乗り込んで、小杉たちを待つ。小杉と山根が後席に乗り込むと、前進と後退を繰り返す。スペースを作って、ステアを切る。車線から外れて、直進する。左右の車両の間に割り込み、車線と車線の間を進む。交差点に出た。転回して、対向車線に入る。こちらの車線は空いている。加速する。
中央分離帯から一台、飛び出して来た。タイヤがバウンドして着地のショックを吸収する。車体の姿勢を立て直すや否や、浦瀬たちの車をめがけ、加速してきた。
銃声がして、リアウィンドーが割れる。ルームミラーを見る。山根も小杉も無事だ。ふたりとも頭を低くする。
さらにアクセルを踏む。赤信号だ。だが、減速しない。交差点に入って、左にステアを切る。横Gを相殺するため、さらにアクセルを踏み込む。必死にカウンターを当て、堪える。タイヤが悲鳴を上げている。いまにもバーストしそうだ。
何とか堪えてくれた。車体を車線に平行に立て直す。サイドミラーを見る。追手が、横滑りしながら、直進車の前に割り込んんだ。どうやって振り切る?
次の瞬間、割り込まれた車が追手の車に追突していた。追手は、カウンターを当てるために、アクセルを踏みこんでいたのだろう。直進車に弾かれて、減速することなく道路を斜めに横切った。真っ直ぐ路外に向かって行く。歩道の段差で撥ねて、フロントノーズが上を向く。植栽を押し倒し、歩道を飛び超え、防護策を突き破った。皇居の濠に水柱が立った。
「この国は、いつからこんな風になってしまったんですか」
ルームミラーを見ると、小杉が呆れ顔で濠を見ている。浦瀬にも答えられない。気付けば、CIRAが幅を利かせている。
首相はふた言目には、日本を取り戻すと言う。いま、浦瀬たちが直面している状況が、その結果か。ひとりひとりの人権なんて、国家の意思の前では芥子粒でしかいない。日本を取り戻すとは、そういう時代に戻すということか。どうやら、CIRAを通じて、公安部を特高警察に仕立てるつもりでいるようだ。いや、もっと性質が悪い。特高警察だって、無闇矢鱈と発砲しなかった。
スマホが震えた。ポケットから抜き出し、肘を立てて後席に差し出す。小杉が受け取って、電話に出た。
「浦瀬さんのケータイです。……はい。……いえ。……はい。……判りました」
電話を切り、スマホを浦瀬の腕に触れさせる。それを受け取って訊ねる。
「何だって?」
「待ちくたびれたから、退庁するそうです。ワインはまた次の機会にお預け、だそうです」
浦瀬は胸の裡で毒づく。話をする気なら、こんな目に遭わせないだろうに。
「愉しい余興をありがとう、とも言っていました。愉しいと言う割れには、苛立った声でしたが」
由梨よりも、浦瀬のほうが遥かに苛立っている。
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