第17話

 千紘はハッとした。フロントウィンドー。流れる景色。エンジン音。路面の音。

――車を運転してる? 何故。

 片側二車線の道路。左のレーンを走っている。けたたましいサイレンの音。ルームミラーに眼を遣る。パトカーに追われている。

 ブレーキを踏みながら、路肩に寄る。途端に、大きな衝撃。シートベルトが肩に食い込む。追突された? 

「何をしてる。止まるな」

 津野田が助手席で怒鳴る。

「え」

 さらに強い衝撃。さっきより大きい。身体がステアリングに迫り出そうとする。シートベルトが肩に食い込む。ルームミラーを見る。パトカーに追突されている?

 また強い衝撃。今度は右からだ。身体が左に振られ、振り戻される。別のパトカーだ。追い越して、斜め前方でブレーキランプを点けた。停車し、後退灯が点く。タイヤが悲鳴を上げて、斜めに千紘に向かって来る。バックでぶつける気だ。

 慌ててアクセルを吹かす。パトカーの左後部に衝突した。その弾みで、パトカーが時計回りに向きを変え、道路に垂直に停まる。そこに大型車が突っ込む。パトカーは宙を舞い、引っ繰り返った。

 続けざまにスキール音と衝突音。大型車に追突した車がいるようだ。多重事故になったらしい。サイドミラーに、炎上するパトカーが見える。トラックの後ろに、ワンボックスカーがひしゃげている。それらを置き去りして、アクセルを踏み込む。

 後ろにサイレンの音。サイドミラーを見て、ルームミラーを見る。千紘の真後ろにパトカーが一台、その後ろにさらに一台。後ろのパトカーが隣の車線に出る。どうして、こんなことになっているのだろう。

 直近の記憶が失われている。フェンサイクリジンの大量摂取による副作用か。しかし、直近の記憶がないなんて。こんなことは初めてだ。

――最後の記憶は……。

 老人ホーム。足がもつれて、転んだ。津野田の車椅子が引っ繰り返り、すぐ近くの土に弾がめり込んだ。助かりようのない状況だった。だが、まだ生きている。一体、どんな奇跡が起きたのだろう。

 衝撃。また追突してきた。警察は市民の味方だと思っていた。いまや、警察のすべてが千紘の敵になっているのか。やにわに、銃声。慌てて首を竦める。隣の車線からだ。

――まさか。撃ってきた。

 サイドウィンドーが割れ、破片が千紘に飛び散る。蒼褪め、ブレーキを力いっぱい踏む。急ブレーキのスキール音が耳をつんざく。慣性で身体が前に引っ張られる。シートベルトが食い込む。そこに衝撃。今度は後ろに引っ張られ、シートに押し付けられる。

 斜め前方で、タイヤが悲鳴を上げている。発砲したパトカーだ。アスファルトにタイヤをこすりつけている。Uターンして、千紘の車線に入った。助手席に男。窓から顔を出し、銃を向けている。

 千紘は眼を剥く。今度はアクセルを目いっぱい踏んだ。銃声。ヒビが入って、フロントウィンドーが一瞬だけ白くなる。粉々の破片が頭に飛び散る。首を低くして、ステアリングを抱く。アクセルを踏み続ける。

 パトカーが突進して来る。距離が縮まる。チキンレース。銃を打ち続ける男。ボンネットで弾が撥ねる。

 だが、千紘は無事だ。痛みはない。動く車両から、動く車両の標的を狙うのは、相当に難しいのだろう。助手席の窓からでは、角度も悪い。

 本当に撃たれてない? 異常な状況で、脳がパニックを起こしているんじゃない? 本当は弾が当たっているのに、それに気付いてないだけかも。

 実際、千紘はどうかしている。正面衝突するというのに、アクセルを踏みっ放しでいる。

「おい、逃げろ」

 津野田の手が伸びてきて、ステアリングを押す。車両が向きを変えた。次の瞬間、左斜め前方に激しい衝撃。それが全身を貫く。車両が反回転して、パトカーともつれ合うように逆走する。パトカーが隣の車線にスライドして行く。そこに、乗用車が突っ込んだ。千紘の車線には、別のパトカーが迫っている。また正面衝突の危機だ。

 千紘は、アクセルから足を浮かせ、エンジンの回転数を下げた。爪先でブレーキを踏み、踵でアクセルを踏む。減速しながら、エンジンの回転数を調節する。左足でクラッチペダルを踏み込んで、ギアをリバースに入れ替えた。ブレーキペダルをリリースして、アクセルを踏みこむ。

 タイヤが悲鳴を上げ、エンジンが唸る。全速力でバックする。でも、リバースのギアは小さいからスピードなんて出ない。長く引っ張れない。

 隣の車線に入って、ブレーキペダルを踏む。急ブレーキの慣性を利用して、ステアを切る。もう一度、ヒール・アンド・トゥを仕掛ける。右足で速度と回転数を調節しながら、セカンドにシフトチェンジ。シフトアップして、加速。エンジンは滑らかに加速する。後ろのパトカーを引き離せる。そう思ったら、眼の前に停車車両。信号待ちの車。右にも、左にも、それぞれ数台ずつ連なっている。

 でも、停まるわけにはいかない。車線の中央に、割って入る。サイドミラーが隣の車と接触して吹き飛ぶ。左右のドアが、甲高い音を立てる。ドアも千切れて飛んで行きそうだ。

 左右に振られながら、先頭車両の間を通過する。信号は赤だ。無視して、交差点に進入。途端に左から強い衝撃。骨が砕けそう。横滑りしている。カウンターを当てて堪える。対向車線に入る。信号待ちの車両を弾き飛ばして、逆走する。

 後方に大きな音がした。

「パトカーだ。大型トラックと出会い頭に衝突した」

 津野田が後ろを向きながら言う。パトカーも、信号無視したのだろう。

 千紘は逆走し続ける。右の車線に入り、左の車線に戻って、対向車を交わす。

 同じタイミングで進路変更する車両がいた。慌てて元に戻る。互いに右側面を擦って、すれ違う。相手は、千紘に押されて右側を浮かせた。左側の片輪だけで堪え切れず、横倒しになった。そのまま滑って、ほかの車両に衝突。さらにそこに追突する車がいる。多重事故になり、火が上がった。

 遠くにサイレンの音。パトカーだ。新手が現れたらしい。

 急ハンドルを切って、歩道に出る。ガードレールに接触しながら、歩道を進む。通行人が血相を変え、途を開ける。

――子ども!

 幼児が歩道の真ん中で立ち止まり、千紘を見ている。ブレーキを踏み、急ハンドルを切った。ドリフトで、車両の向きが百二十度変わる。そのまま、横滑りしてショーウィドーにぶつかる。ガラスの破片が滝のように落ちる。非情ベルがけたたましく、空気を振るわせる。肩越しに歩道を見ると、母親が幼児を抱え上げ、批難する眼を向けている。子どもは無事だ。ホッとひと息吐く。

 首を戻して、頭を払う。ガラスの破片を被っている。

「大丈夫ですか」

「ああ。何とか生きてる」津野田が喘ぐように言う。「自分が運転免許センターの人間じゃなくて良かったと思うよ。君に免許証を発行してたら、なんて罪深いことをしたんだって、後悔しなきゃならない」

 千紘は車を降り、助手席に回った。津野田に手を貸し、路面に降ろす。津野田は膝から下を使って、歩き出す。千紘は津野田の後に続く。立ち止まって周りを見る。人びとが唖然としている。それを冷めた眼で睨み返す。誰も近付いて来ないのは、気の触れた者に関わるのはご免だと思われているのだろうか。

 壊した店舗と隣の店舗の間に、人ひとり通れる幅がある。津野田は、幼児のような足取りで、そこに向かう。

 車を振り返ると、黒いクーペだ。初めて自分が運転していた車両を見た。BМWのエンブレム。右のテールランプの脇に、М235iとある。値の張りそうな高級車だ。誰の車だろう。ショーウィンドーに突っ込まれた店の損害はどれほどだろう。

 申し訳ないが、いまは、自分が生き延びることで精一杯だ。他人の心配をしている余裕なんてない。すぐに警察がやって来る。

 津野田に続いて、店舗の隙間に入った。空き缶や、ガムの噛みカスが落ちているのは、路地として機能しているのだろう。

 これで、警察を撒くことができるだろうか。事故車両が道を塞いで、容易には近付けない筈だ。上はどうだ? 細長く切り取られた空を見上げる。ヘリコプターの音はしない。上空の追跡もない。しばらくの間、警察から遠ざかっていられそう。少しホッとする。張り詰めていた気持ちが和らぐ。途端に、身体のあちこちが痛みだした。

 右の腿が痛いのは、どうしてだろう。アクセルとブレーキを力いっぱい踏んで、筋肉痛になったのだろうか。それとも、どこかにぶつけたのか。気付けば、跛行している。

 路地を出鱈目に歩いて、廃墟の前に出た。飾り気のない立方体の建物。雨染みが無数に走る外壁は、みすぼらしい。ところどころ剥がれ落ちている。藻屑が絡んでいるように見えるのは、蔦だろうか。夏なら、青々とした葉に覆われているのかもしれない。身を隠すには、適当な廃屋だ。

 敷地の周りを有刺鉄線が囲む。それを支える杭は、どれも斜めに傾いて、心もとない。

 杭に手をかける。踏ん張ると、脚に痛みが走る。だが、思った以上に杭はもろく、簡単に引き抜くことができた。二本引き抜いて、有刺鉄線を倒す。津野田を背負い、脚を引き摺って、それを踏み越える。

 正面に錆ついた扉がある。二枚の扉が前後にずれ、僅かな隙間がある。通り抜けるには狭すぎる。押し開けなきゃならない。津野田を背負って手は塞がっている。足の裏で押しやるしかない。痛めた脚で踏ん張れるとは思えない。左脚に体重をかけ、右足で扉を押す。右の腿に痛みが走って、強く押せない。蝶番も錆ついているのだろう。千紘を頑迷に拒み、動こうとしない。諦めて足を衝いた。

「僕がやろう」

 津野田が千紘の背中で、扉を押す。踏ん張るのは千紘だ。だが、両脚なら踏ん張れる。鈍い音がした。津野田が唸る。ギギッと錆びた鉄が軋む。やがて、通り抜けられるだけの隙間ができた。

 中に入ると、大きな碍子が立っていた。天井近くにも、無数の碍子がぶら下がっている。

「変電所の跡だ」

 津野田が呟く。碍子を見上げているようだ。千紘も壁、天井を見上げる。

「監視カメラの心配だけはしなくて済みそうです」

「それはいい」

 津野田が、ことさら快活な声で言った。ほかには何ひとつ、美点のない建物だ。壁と天井には黴が広がる。天井近くにツバメの巣が並び、そこから放たれた糞が壁にも床にも飛び散っている。窓ガラスは割れ、窓枠には雑草が生えている。床のコンクリートは崩れ落ち、大きな穴ができている。何本ものケーブルが無秩序に抛り出され、その一部が穴の中で複雑に絡み合っている。

 身体を休めたいと思ったが、床に直接腰を下ろすのは、躊躇われる。大きなモーターがあり、その台座なら、譲歩できると思った。

 そこに津野田をおろし、座らせる。その隣に、千紘も座った。腰を下ろした途端、疲れがどっと出る。身体が重くて、重力に負けてしまいそうだ。

「暫く、ここでじっとしていよう。警察が探し回ってる筈だから」

 まだ、しつこく追い回すのか。不安より、苛立たしさが先に立つ。

「どうして、パトカーに追われれなくちゃいけないんでしょう」

 津野田がポカンとした顔で千紘を見る。その顔に向かって弁解する。

「私、記憶が飛んでるんです」

「え」

 津野田が眼を剥く。真顔になって言う。

「薬で記憶を消したと言ったな。副作用が起きているんじゃないのか。何を飲んだんだ」

「フェンサイクリジンだと思います」

 津野田は舌打ちした。

「何て無茶をしたんだ。脳神経の細胞死が進行しているのかもしれない。人の脳には未解明な部分が多い。今後、どんな副作用が出たって不思議じゃない」

 津野田の言う通りだ。認知症と変わらない。症状が進行し続けるかもしれない。

「どこから記憶がないんだ」

 心配げに見つめる。

「老人ホームで、死にたくないって思ったとろこまでは……ピストルを持った人たちに追い駈けられていたときです」

 津野田は眉を上げ、驚いた顔をする。

「そんな前から?」

「はい。どうして、撃たれずに済んだのでしょう」

「シルヴァラードだ」

 千紘は息を呑む。

「彼が現れたんですか」

「そうらしい」

「らしい?」眉を顰める。

「君がそう言った」

「私が?」

 驚いた途端、脚に力が加わって痛みが憎悪する。顔を顰める。

「ああ。僕はふたりが殺されるところを見ていないんだ」

「殺された……」

「それも判らないのか。ふたりとも射殺された。頭に一発ずつ」

「それで助かったんですか」

 足元に眼を落とす。たとえ、自分を殺そうとした者たちでも、殺されたと聞けば、好い気はしない。死んだ者たちを踏み台にして、生き永らえている。苦い気持ちが胸に広がる。

「そんな顔をすることない。一歩間違えば、死んでいたのはこっちだ」

「それは判ります。でも、シルヴァラードに、殺害以外の選択肢はないんでしょうか」

 津野田は首を捻る。

「どうだろう。僕には判らない。それが彼の流儀なのか。それとも、中途半端な攻撃では、相手を抑止することなんてできなくて、殺害するよりほかに手はないのか」

「彼がどんな風に殺したのか、見てないと仰いましたね」

 津野田は頷いて言う。

「僕は車椅子から抛り出されて、顔から落ちた。脚がない分、バランスを取り損ねた。顔を土にめり込ませてしまった。顔じゅう泥だらけで、すぐには眼を開けられなかった。すると、立て続けに二発の銃声がした。すぐ間近だ。頭を抱えて、蹲った。しばらくじっとしていたが、その後は、銃声どころか、怒号も、話声すら聞こえない。眼の周りの泥を拭って、恐る恐る振り向いた。内心、きみが撃たれたのだと思っていた。だが、横たわっていたのは、男たちのほうだった」

「シルヴァラードを見ましたか」

 津野田は首を振る。

「既にいなかった。突然現れ、あっという間に消えた」

 千紘のマンションに現れたときもそうだった。気付いたときには、すべてが終わっていた。全く幽霊のような男だ。人間とは思えない。千紘のアクアでもそうだった。不意に現れ、不意に消えた。

「君は、シルヴァラードに、ヒットマンの車を使えと指示されたらしい。死んだ男のポケットを漁っていた。車のキーを見つけると、僕を車椅子に乗せ、畑を下った。下まで行くと、僕を抱え上げて、生垣の上に抛り上げた。僕は生垣で背中を打ち、外に滑り落ちた。とっても痛かった。多分、背中には引っ掻き傷がついている」

 津野田は顔を顰め、背中をさする。そんな乱暴なことをしていたとは。

「申し訳ありません」恐縮して謝る。

「いや、まあ、奴らに殺されるよりは、よっぽどましだ。僕が生垣の外で痛がっていると、君は強引に生垣をへし折って、外に出て来た。すぐに僕を背負って、エントランスの方に歩き出した。路上駐車する車があった。君がキーのボタンを押すと、それに反応してライトが点滅した。それに乗り込んで、逃げて来たってわけだ」

「それじゃ、私が運転していたのは?」

「奴らの車だ」

「パトカーには、いつから追われていたんですか」

「老人ホームが、通報したんじゃないだろうか。検問が緊急配備されていた。君が免許証を見せると、警察官が血相を変えた。その様子を見て、君は急発進した。危うく警察官を撥ね飛ばすところだった。パトカーは最初、追い駈けて来るだけだった。ところが、途中から強行手段に出た。車体をぶつけてきた。挙げ句に、銃を撃つなんて、まるでハリウッド映画だ。日本の警察のすることとは思えない。僕らは、よっぽど危険だと思われているんだろうな」

 大まかな状況を漸く把握できた。自分で自分に呆れる。こんな大ごとにしてしまうなんて。パトカーとカーチェイス。大きな事故。立派な犯罪者ではないか。顔写真も名前も公表される。逃げ切れるのか。

「山際製薬に行くのか」

「え」

「君はそう言っていた。クラインの秘密を白日のもとにさらすって」

「秘密……」

「山際に行けば、クラインに隠された相互作用が明らかにできるって」

「相互作用……クラインの?」

「リバウンドだけじゃ、J‐ADNI2の被験者だけが亡くなっている理由を説明できない。だから、君の言うことを聞いて、なるほどと思った。J‐ADNI2の被験者にだけ、別に投与したものがある。君はそんなことを言っていた。J‐ADNI2の被験者にだけ、相互作用が起きたと考えれば、辻褄は合う」

「そんなことを言ったんですか、私が」

「ああ。だが、詳しく話を聞く前に、検問に当たってしまった」

 一時的に記憶が蘇っていたのだろうか。いまは、そんな話をしたことすら、覚えていない。全く、人の脳というのは厄介だ。津野田は口惜しげに口を歪める。

「相互作用か。どうしてそれに思い至らなかったんだろう。技官のときに気付いていれば、被験者たちが何を服薬していたのか、調べようもあった。だが、いまとなっては無理だ」

 津野田は思案するように眉を寄せ、虚空を睨む。しばらく無言でいた。

「いや、違うな。調べたくらいで判るのなら、治験で発覚しないわけがない。疾うに大きな問題になっている。君にしか判らない相互作用があったんだ。だからこそ、君は自分の記憶を消して、一切を封じ込めようとした。君にしか気付けない相互作用だった」

 津野田は確信に満ちた顔で見つめる。

 いまは何も心当たりがない。山際製薬に行けば、何か判るのかもしれない。多佳子に社員証を預けていたのだって、意図があったように思う。やはり、山際製薬に行くべきだ。

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