第16話
「入会するんですか、日本桜会議」
赤信号で停車したタイミングで、小杉が訊く。
「しない」
由梨に誘われたとき、浦瀬はするともしないとも言わず、返事を曖昧にした。
「公務員だって、個人的な信条は表明できるのよ」
由梨は茶化すような調子で言い、返事を促した。はっきりNОと言ってやりたかった。だが、不用意に怒らせることもないと思った。CIRAを公然と敵にするのは、良策ではない。しばらく、従順な振りをし、使える者だと思わせていたほうが、何かと都合がいい。
信号が変わって、車が動く。
浦瀬は、ダッシュボードから小杉の手帳を取り上げた。由梨が書き込んだページを開く。スマホで、その施設を検索する。
豪奢な建物が出た。居室は高級ホテルのようだ。
「新海は、何だってこんなところにいるんだ」
フリップすると、理事の一覧になった。その中に浅野義英の名前。
「副総理……」
「え」小杉が聞き咎める。
「理事の中に副総理がいる」
「新海は副総理の家を爆破したんですよね」
「この施設も爆破するつもりか」
「急ぎます」
小杉はアクセルを踏み込んだ。
その老人ホームは、商業施設が立ち並ぶ通りを一キロほど西に行ったところにあった。境川にかかる橋を上ると、豪奢な建物の頂が見えた。ほどなく、施設の前に着いた。間近で見ると、気後れするほど贅を尽くした造りだ。爆破されたら、保険会社は堪らないだろう。駐車禁止の標識があるのに、黒いクーペが路上駐車している。BМWのМ235iだ。入所者の親族の車両か。
小杉はエントランスの正面に停車した。邪魔だと言われるかもしれない。だが、気にしている余裕はない。車を降りて、ドアに向かう。枡目格子のガラス戸だ。戸の前に行くと、重厚な見掛けにしては、随分と軽やかに左右に開いた。
ホールのカーペットも、値が張りそうだ。土足で踏み入るのを躊躇う。しかし、スリッパの類は見当たらない。靴のまま中に入った。 ホールを横切った先にコンシェルジュのデスクがあった。ひっつめ髪の女が、浦瀬を見て、微笑む。
「人を探しています」
小杉を振り向いて、手を伸ばす。小杉からスマホを受け取る。画面には新海千紘の顔写真。スーパーで入手した履歴書の写真を拡大したものだ。鮮明ではないが、ほかにない。それを見せた。コンシェルジュは、ちらっと見ただけで、浦瀬に眼を戻す。
「失礼ですが、どちらさまでしょうか」
警察手帳を見せた。コンシェルジュは眉を顰める。
「警察の方……」
「この人が、こちらにいらっしゃるのではありませんか」
「ええ、いらっしゃいます」
「いま、どちらに?」
「裏庭に出て行かれました」
「裏庭?」壁や窓を見回す。「どちらですか」
「一体、どういうことでしょう」
責めるような眼つきで浦瀬を見る。
「早く。何か起きる前に」
強い口調で言うと、驚いた顔をした。さらに声を荒らげる。
「どっちに行ったんですか」
コンシェルジュは中腰になって、奥に向かう廊下を指し示す。
「そちらにお進みください。テラスに出るガラス戸があります。テラスから中庭に降りることができます」
「ありがとうございます」
コンシェルジュの指示に従って、廊下に入る。窓ガラスが連なり、外光が取り込まれて、殊のほか明るい。窓の外には、冬枯れした畑が緩やかに下っている。この施設が小高い丘の上に建っているのだろう。
ガラス戸は、廊下を半分ほど行ったところにあった。引手に手をかけると銃声がした。ハッとして、小杉と顔を見合わせる。
――新海か。銃を持っている?
慌てて戸を開け、テラスに出る。
何てことだ。刑事課の者は銃なんて持ち歩かない。丸腰で相手をしなければならない。
一面に広がる畑を見渡す。どっちだ。どこにいる?
また銃声。そっちか。テラスの階段を駈け降りる。砂利の小路を蹴る。
「誰か。助けて」
ケアワーカーの身なりをした中年の女が、血相を変えて駈けて来る。女は浦瀬の腕に、前のめりに倒れてきた。
「何があったんですか」
「新海さんが……」
口を開き、肩を激しく上下させる。
「新海が何をしたんですか」
「追われて……」喘ぎながら言う。「ピストルを持った男に」
「追われてる? 新海が」
女は、二度、三度、頷く。
浦瀬は腹の裡で舌打ちをした。CIRAは公安部に手を引かせたんじゃないのか。女の腕を離し、小杉に向かってそっと押し出す。
「中に連れて行ってくれて」
「はい」
浦瀬は全速力で走った。三発目の銃声がした。まだ撃っている。ということは、まだ新海は生きている。
立て続けに二発の銃声がした。二発目の銃声の後、突然、張り詰めた空気が平生のそれに変わったような気がした。胸騒ぎがした。
――間に合わなかったか。
浦瀬は足を止めて、だんだらに下る荒れた畑を見下ろした。下り切ったところに生垣があり、その手前五メートルほどのところに、ふたつの人影が横たわっている。四囲に視線を這わせる。人の気配はない。既に立ち去った後か。
それでも用心しながら、畑を下って行く。
ふたりとも全く動かない。絶命しているのは明らかだった。ひとりは、こめかみから血が滴る。もうひとりは額から血が滴る。土の上には、血飛沫に混じって、脳漿らしきものが飛び散っている。
小杉が駈け下りて来る気配がした。足を止め、ふたつの遺体を見て無念そうに呟く。
「間に合わなかった」
浦瀬はポケットから綿手袋を引っ張り出す。手にはめて、遺体の上着のポケットを漁る。内ポケットに、それはあった。もうひとりは、スラックスの尻ポケットに入れていた。ふたつの警察手帳を開いて独り言ちる。
「こうも度々返り討ちにされたんじゃ、公安部も堪ったものじゃないな」
それにしても、新海千紘というのは何者だろう。容易く公安部を殺してしまう。公安部だってプロだろうに。
「まだ、遠くには行ってないだろう」
「緊急配備を要請してきます」
小杉が駈けて行った。
浦瀬は四囲を見回す。生垣を見下ろす。生垣の先に、黒いクーペが通り過ぎた。
夜間のラウンジは、いつにも増して暗く感じられた。照明を落としてあり、飲み残しのコーヒーの量すら判らない。客は疎らで、寂寥感が漂う。浦瀬はカップを口につけた。まだ口に含めるだけの分量が残っていた。だが、とうに冷めている。
山際製薬医薬開発部の山根から連絡が入ったのは、一時間ほど前のことだった。押し殺した声で、階段から突き落とされそうになったと言った。怯える様子の山根を説得して、先日のホテルラウンジで会うことにしたのだ。
どのみち、新海の件で、浦瀬にできることはない。新海は追跡を振り切った。足取りは途絶えた。
入口に山根の影が見え、ソーサーにカップを戻す。
山根は今回も遅れた。しかし、前回とは違い、急いで来たようだ。息を乱しているのが、表情で判る。紅潮した顔で、視線をそこかしこに向け、大股に進んで来る。浦瀬は手を挙げた。山根の眼に入るように腕を伸ばす。だが、山根の眼はあらぬ方を見ている。
「ここだ」
声を出すと、漸く気付いた。足早に近寄って来て、会釈する。向かいの席にコートを着たまま、座った。
「コーヒーでいいですか」
小杉がメニューを差し出して言う。
「ウイスキーを貰いたい」
小杉がホールスタッフを呼ぶ。
山根はメニューの中から、バランタインを選んだ。
「コートをお預かりいたします」
ホールスタッフに言われて、コートを着たままでいることに、初めて気付いたようだった。山根はハッとしたように、眉を上げ、慌ててコートを脱いだ。
「突き落とされそうになったんですか」
ホールスタッフが戻って行くと、早速、訊ねた。
「ええ。会社の階段で」
「誰にやられたんですか」
「判りません。振り向いたときには、もう、誰もいませんでした。でも、走り去る足音を聞きました」
「心当たりは?」
「部長が誰かにやらせたんです」
「どうしてそう思うんですか」
山根は両手で顔を覆った。顎に向かって両頬を撫でる。両手が胸に抜けると、顔が赤らんでいた。
「部長に、脅し文句を言われました。簡単に自殺されると困るんだが、君はワイズマンより、頑張れるかって。眉ひとつ動かさず、冷たい眼で言うんです。身の毛がよだちました」
「いつですか。言われたのは」
「昨晩です。あなたにクラインについて調べて欲しいと言われたから、社内イントラネットで情報収集していたんです。そこに部長がやって来て、耳元で囁かれました」
「山際は、厚労省が決めた薬価を不服に思っているそうですね」
「え。まさか」眼を大きくする。
浦瀬は由梨に聞いたことを山根に話した。山根は頭を振る。
「薬価は二年ごとに引き下げられます。それで、採算割れになる医薬があるのは事実です。しかし、いきなり採算割れになる薬価を飲まされるなんて、あり得ない。そもそも、クラインは爆発的に売れる筈です。低い薬価でも大量に売れば、採算は合います」
やはり、由梨は浦瀬を欺こうとしたのだろう。CIRAの言うことは信用できない。だが、ある組織のことは気になる。
「日本桜会議の意向が働いているらしい」
山根はハッとしたように眉を上げる。
「それ、うちの会長が代表委員に就いています。取締役はすべて、日本桜会議の会員だと言われています。取締役でない執行役員の中には、会員でない人もいるらしいけど、うちでは、会員にならなければ、出世できないとまで言われています」
「あなたも会員ですか」
「私はまだ。しかし、行く行くは入会するつもりでいました」陰鬱気に眉を寄せる。「部長はもう、会員になっているのかな? 部長に睨まれたら、入会できないんだろうか」
「入りたいんですか」
「そりゃ、まあ。出世したいですから。日本桜会議がクラインを、どうかする気でいるんですか」
「まだ、何とも」
浦瀬は眉を寄せ、首を捻る。由梨はどこまで本当のことを言っているのだろう。山根も首を捻っている。不審に思うことがあるらしい。
「何か、ありましたか」
水を向けると顔を上げた。
「クラインにはゾロがあります」
先日、山際製薬で聞いた話を思い出した。
「ゾロ新薬?」
「はい。そうです」
「法律的には新規のものとして扱われるが、科学的には、ほぼ同じものだとか」
「ええ。クラインが噂の通り、本当に特許を侵害しているのかどうか確かめたくて、特許庁のホームページを開きました。クラインは特許の侵害なんてしていなかった。むしろ逆です。YМG‐0714の物質特許の公示から三ヶ月後、バーゼルファーマが、そっくりな高分子化合物の特許を取得しています。バーゼルファーマのことは、ご存知ですね」
「世界最大のメガファーマだということくらいは知っています」
山根は頷いて言う。
「最近、誠和創薬にTОBを仕掛けて、日本でも有名になりましたね。誠和創薬がモノクローナル抗体を断念した煽りで、バーゼルの株価は六%下落、百三十億ドルがぶっ飛びました。それでも、時価総額は二千五百億ドルを優に超えています。うちは国内最大手と言っても、世界規模で見たら、その他大勢です。バーゼルはうちの三倍、売り上げている。それだけの巨大企業です。バーゼルは」
「その巨大企業が、山際のクラインを真似たということですか」
「そうなんです」
山根がひと際、声を大きくした。そのタイミングで、ホールスタッフがバランタインを持って来た。
「お待たせしました」
山根は気勢を削がれた格好になり、口を噤んで、オールド・ファッションド・グラスを見つめる。ホールスタッフが去ると、グラスを取って、琥珀色の液体を咽喉に流し込んだ。グラスをコースターに載せ、浦瀬を見つめる。
「この五年間で、バーゼルの三つの医薬が特許切れになっています。それらのジェネリックが市場に出回って、バーゼルは百八十億ドルの売り上げを失いました。その穴埋めをするのに、必死だったと思います。それで、クラインに眼を付けたのだと思います」
浦瀬は口笛を吹きそうになった。
「百八十億ドル……。ひとつの薬でそんなに儲かるんですか」
「γセクレターゼ阻害薬は、次世代の認知症薬ですからね。アセチルコリンエステラーゼ阻害薬に代わって、アルツハイマー型認知症薬の主役になります。しかし、承認まで漕ぎ着けたファーマは、まだ僅かしかない。ほとんどの社が開発途中で、承認までには、まだまだ時間がかかる。だから、いまなら利益を独占できるんです。しかも認知症患者は世界中で、増え続けています。γセクレターゼ阻害薬がドル箱になるのは間違いないでしょう」
「ドル箱になるものを、山際は販売していない」
なぜ山際製薬は市販しないのか。結局、そこに戻ってしまう。山根はバランタインを煽って、グラスを置く。
「私は、ワイズマンの言うことを碌に聞いていなかった。端から副作用の話を信じていなかったから、どの医薬のことを言っているのか、気にも留めなかった。昨日、同僚たちに聞いて初めて知りました。ワイズマンは、クラインに副作用があると言っていたんです」
「クラインに副作用……」
しかし、山根はまたも頭を振る。
「クラインの資料を精査しても、因果関係のある重篤な副作用なんてひとつもないんです」
「隠蔽しているとか?」
「それは無理です。副作用があれば、当然、治験実施機関、つまり病院内に知れ渡ります。製薬会社が副作用の報告を意図的に怠ったとしても、医師たちが副作用報告をPМDAに上げます。治験の副作用は必ず公になるんです」
そう聞いても、浦瀬の胸にはさざ波が立っている。義母をクラインから遠ざけたほうが良いと思い出した。
「ただ……」
山根は眉根をぎゅっと寄せ、険しい顔をする。
「ただ?」先を促すように訊き返す。
「ただ、気になることがあります。バーゼルのγセクレターゼ阻害薬は、オフプレセニリンと名付けられました。それで検索して驚きました。バーゼルは赤十字国際委員会に、ひとり、ひと月分のオフプレセニリンを、わずか一米ドルで提供しているんです」
「ドル箱になる薬を、ほとんど無償供与している?」
「そうなんです。メガファーマが医薬品を提供すること自体は珍しくありません。すべての人に健康と福祉がもたらされれば、持続可能な世界を築いていけると考えているんです。でも、通常は基礎医薬品やワクチン、せいぜい生活習慣病の医薬です。認知症薬の提供なんて初めてじゃないでしょうか」
小杉が腕を組んで、訳知り顔で言う。
「認知症が生活習慣病並みになったということでしょうか」
浦瀬の頭からは、副作用が去らない。素人考えで訊ねた。
「薬は、飲み合わせで、副作用が起きると聞いたことがあります」
「ええ、相互作用ですね。単体では問題なくても、複数の医薬の飲み合わせで、重篤な副作用が起きることは珍しくない。というより、実はよくあるんです」
「クラインに、その可能性はありませんか」
「相互作用が珍しくないということは、治験中にも、それが起きるということです。クラインの治験では、注意すべき相互作用は報告されていません」
「しかし、とても特殊な珍しい薬だったら、治験でも判らないんじゃないですか」
山根は眼を見開く。
「被験者が誰ひとりとして呑んでいないような珍しい医薬ということですか。それなら、もちろん、発覚しません」険しい顔つきになる。「机上論としては、あり得ない話ではありませんが、どうでしょう。現実にそんなこと、あり得るかな」
「日本では承認されていないが、ヨーロッパで承認されている薬ってあるでしょ」
「ええ。海外で使えるのに日本じゃ使えない。ドラッグ・ラグが問題視されてるくらいですからね。そういう医薬は少なくありません」
「そういう薬と飲み合わせると、重篤な副作用が起きるのでは?」
「日本ではまだ使えないが、ヨーロッパで使っている医薬。それとオフプレセリニンに相互作用が起きる。それを、ワイズマンはウラルで知った。そう仰りたい?」
浦瀬は山根の眼を見て頷く。山根は宙を見つめる。
「なるほど。全くない、とは言い切れませんね」眼を見開く。「オフプレセリニンはクラインのゾロです。オフプレセリニンに起きることは、クラインにだって起こり得る」
「それが、市販しない理由……」
「だとしたら、ワイズマンは正しかった」頭を振る。「それを知ったばかりに、パワハラに遭い、自殺まで追い込まれてしまったのか」
「自殺ではありません」
山根は眼を薄くする。
「やはり、事故ですか」
「いいえ。ワイズマンは殺害されました」
「え」
眼を見開く。震える手でグラスを掴む。残りのバランタインを一気に扇いで、グラスをテーブルに叩きつけた。
「それじゃ、部長は本気で……。次は私の番ということですか」
「実際に手を下したのはプロの殺し屋です」
さすがに、公安部、警察官だとは言えない。
「プロ……」山根は茫然として呟く。「部長が雇ったんですか」
「もっと上の人間だと思います。国の中枢にいる人間じゃなければ、動かせない連中が関わっています」
「それは……」眼も鼻の穴も大きくする。「日本桜会議……?」
そうかもしれないと思う。だが、浦瀬は首を捻る。山際製薬が百八十億ドルを守ろうとして、障碍を排除するというなら、合点がいく。日本桜会議に、どんなメリットがあるのだろう。
浦瀬は冷えたコーヒに指を伸ばした。飲み干すかどうか躊躇う。結局、止めにする。もうひとつ頼むことに決めて、手を上げた。
ホールスタッフは、ほかの客に声をかけていた。声をかけられた客は慌てた様子で席を立つ。足早に出入口に向かう。ホールスタッフもついて行ってしまう。見回すと、疎らにいた客たちの姿はない。浦瀬たちだけ残して、誰もいなくなった。
胸騒ぎがした。眼の端に影が映ったような気がした。ラウンジを囲む柱の外だ。何かが素早く動いた。そちらに眼を向けて様子を窺う。誰もいないし、何もない。耳を澄ます。微かに金属が触れ合う音がした。
アッと思ったときには、山根に飛び掛かっていた。驚く山根に有無を言わせず、テーブルの下に引き摺りこむ。
ほとんど同時に、発砲音。連射している。ガラスが割れる音が混じる。
小杉もテーブルの下に潜り込んできた。
「ふざけたことを」
小杉は動揺せず、腹を立てている。それを頼もしく思う。
数打ちゃ当たる方式で、無尽蔵に連射している。自動小銃か。こんな手荒なことをして、どうやって収拾させる? 公安部の独断か。CIRAの指示か。テロリストの仕業にでもするのか。
床に弾丸が落ちて撥ねる。壁に着弾した弾が、床に落ちている。壁を貫通しない弾。公安部も刑事部と同じで、ソフトポイントを使うのか。当たったら、体内で破砕し、致命的なダメージを負うことになる。
瞬時に状況を思い浮かべる。後ろには高さ一メートルのコンクリートの壁。身体を低くしていれば撃たれない。左右にはソファがある。伏せていれば、それらが守ってくれる。だが、ラウンジに入って来られたら、防ぎようがない。
テーブルの天板を、裏から叩いてみる。合板ではない。ダーク系の色から察するに、ウォールナットか。硬く、衝撃に強い材質。ソフトポイントが相手なら、充分通用する。
神経を集中する。どっちから撃ってる? 囲まれている筈はない。四方から掃射したら、同士撃ちになる。北と東は一面、壁だから、布陣できない。そっちから撃たれることはない。南と西か。壁は低く、その上は素通しだ。
出入口はひとつ。東の壁が切れたところ。そこに行ったら、南の連中に身を晒すことになる。だが、ほかに途はない。
「逃げましょう」山根に言う。
山根は床に蹲って、耳を覆っている。発砲の騒々しさで、浦瀬の声が聞こえないらしい。腕を掴んで、耳から引き離す。耳元で叫ぶ。
「逃げます」
山根は浦瀬を見る。怯えた顔で頻りに首を左右に振る。この場でおとなしくしていれば、危険が去ると思っているらしい。
「ここにいたら、死ぬ」
山根は眼と鼻の穴を大きく開いた。息を吸い込んだまま、吐き出すのを忘れたかのように固まって動かない。
浦瀬は小杉を見る。
「西向きにテーブルを立てる。それで、西側からの掃射を防いで、東に進む。進みながら、テーブルを、南向きに立てて行く。南からの掃射を防いで、東の壁際まで行く。後に続け」
小杉は真顔で頷く。
浦瀬は、テーブルの下から、弾丸が飛び交うところに飛び出た。身体を低くして、中央のテーブルの下に入る。テーブルの縁を押し上げ、西に向けて盾にする。すぐに、隣のテーブルを引き寄せる。それを横倒しにし、南の盾にする。東のテーブルを引き寄せ、天井にする。南の盾を立てるとき、西の盾との間に、幅数十センチの隙間を空けた。その隙間から小杉を振り向き、目配せする。
山根は尻ごみしている。蹲って動こうとしない。小杉が山根の顎を掴んで、頬を叩いた。何か言い聞かせている。山根はそれに頷く、漸く言うことを聞く気になったらしい。
山根が背中を押されてテーブルを飛び出した。間に合わせの避難壕に駈け寄って来る。中に引き摺り入れると、ホッとした顔をする。小杉も素早く移動してきた。
「テーブルを少しずつ引き摺りながら移動する。少し重いが、一台ずつ、三人で動かせば問題ない」
最初に天井になってるテーブルをずらした。次に南の盾をずらす。最後に西の盾を引き寄せた。避難壕が二メートルほど、東に移動した。出入口までは十メートル弱。あと五回引き摺ればいい。
東に人の気配。見ると出入口に男。小銃を構えている。西からの掃射を止めて、出入口に展開したようだ。さすがに早い。先を越された。西の防御を東の防御に切り替える。天井を東に倒し、西の盾を引き起こして天井にする。
「どうします。これじゃ、イタチごっこです。しかもこっちに分が悪い。また、西に戻って撃って来ますよ」
小杉が山根を不安にさせることを平気で口にする。
「東の出入口は幅が狭い。ひとりしか配置できない。その分、掃射は西より手薄になる」
それが、気休めにしかならないのは、浦瀬だって承知している。確かに手詰まりだ。敵を混乱させたい。非常ベルが鳴らないのはどうしてだ。スプリンクラーも作動しない。小銃の連射で発生する熱エネルギーは、大したことがないのか。
ハッとする。消火器がある筈。北の壁に眼をやる。あった。柱の陰だ。近付けるか。いや、行くしかない。
小杉に向かって言う。
「消火器を取って来る」
「消火器なんて、どうするんですか」
答える前に、ソファの間に飛び込んだ。東からの掃射が浦瀬を追って来る。ソファの裏に着弾している。
素早く、壁際に移動。消火器のレバーを掴んで引き倒す。それを引き寄せ、胸に抱える。ソファに隠れて、引き返す。ソファから飛び出すと同時に、消火器を転がす。カンカンと、乾いた金属音が響く。うまい。掃射された弾が消火器本体に当たっている。テーブルの下に飛び込む。
「伏せろ」
叫びながら、山根と小杉の頭を抱え込む。
その直後、爆発音が轟いた。何発目かの命中で、消火器が破裂したのだ。破片がラウンジ内に飛び散って、バラバラと落ちる。
敵は爆発音に怯んだ。何が起きたのか、理解していない。南も東も掃射を中断した。
その隙に、浦瀬は飛び出している。一直線に出入口の敵に向かう。敵は慌てて自動小銃を構えた。だが、遅い。
銃身を掴んで天井に向ける。同時に相手の咽喉に肘を入れ、小銃を奪い取る。銃床で相手の胸を突き、押し倒す。すかさず、出入口の外に向けて掃射。その場にいたふたりを撃った。
外に飛び出して、南から掃射していた者たち、四人に向けて掃射。ラウンジの中に向かって叫ぶ。
「逃げろ。いまだ」
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