第15話

 千紘は中庭のベンチに座っていた。四、五ヶ月もしたら、花壇に色とりどりの花弁が咲き乱れるのだろう。頭の上に組まれた角材には、藤が葉を繁らせ、紫の花を垂らし、格好の屋根になって、日差しを遮るのだろう。けれども、冬の庭に見るべきものはない。固より、千紘の眼に四囲の景色は映っていなかった。

――私がクラインを創って、他人を殺した。

 ホーム長に聞いた話が、千紘の胸に刺さっていた。そんな筈はないと叫びたいのに、それができない。どうやら、自分の記憶には、欠落しているものがある。

 高校を卒業して、スーパーのレジ係になったつもりでいた。本当にそれで間違いないのか。記憶の中に深く入り込もうとすると、途端に靄がわいて、すべてを包み隠してしまう。自分の記憶はどれだけあやふやなのだろう。戸惑い、呆れ、愕然とする。それでも、靄を掻き分け、記憶の断片を探そうとする。すると、忽ち耐えられない頭痛に襲われるのだった。

「ホーム長に何か言われたのか」

 津野田が車椅子を転がして、出て来ていた。千紘は顔を覆って、首を振る。

「蒼褪めた顔をしている。ホーム長の部屋から出て来たときから、ずっと」

「本当に……何も……」

 津野田は脚を失った。クラインに関心を持ったことがその理由なら、津野田の足を奪ったのも千紘だ。罪悪感に苛まれる。津野田が隣にいると、いたたまれない思いで、胸が千々に引き裂かれる。立ち去りたいと思いながら、顔を覆ったまま、立ち上がることもできない。

「偶然じゃないんだろ」

「え」

「田代さんの車。あの場所にいるのが判っていたんだろ。君は確信を持って歩いていた。僕は、どこに行くつもりでいるんだろうって思ったけど」

 確かにそうだ。福祉車両がいると思っていた。

「冷蔵庫を爆破する前、君は、行くべきところがあると言ったね。ここが、そうなのか」

 千紘は顔を上げる。首を捻って、肩越しに屋舎を見上げる。

――ここに来るつもりでいた?

 浅野睦子と親しく話をしたことがあると思った。その途端、死ぬわけにはいかないと思った。しなければならないことがあると思った。

――しかし……。

 ここなのか? ここで、何をするつもりでいたのだろう。

 砂利を踏んで近寄る足音がした。首を戻すと、多佳子だった。水を掬うように両手を合わせ、カードホルダーを載せている。

「新海さんにお返しします」

 近くまで来て、カードホルダーを差し出す。

「返す?」

 怪訝に思いながら、それに眼を向ける。ケースに巻き付く青色の紐が、中身を隠している。それが眼の前に迫ってきた。取れと言うように、多佳子が手を伸ばしたのだ。千紘は、そっとそれを取り上げる。紐の端をつかんで、振り解く。ケースがくるくる回転してぶら下がった。眼の前に吊り上げる。千紘の顔写真と氏名。山際製薬株式会社。薬物動態研究所の文字。

「社員証?」

 多佳子を見上げる、柔らかな笑みを浮かべている。

「山際製薬の研究所……私が?」

「ええ」

 多佳子は千紘の隣に腰掛けた。

「やっと、お返しできる時がきました」

 千紘は多佳子を見つめる。津野田から顔を背ける形になった。肩口に刺すような視線を感じるのは、気のせいだろうか。

「私、前にこの施設に来たことがあるんですか」

 多佳子は眉を顰める。千紘をまじまじと見る。おかしなことを言うと思っているようだ。

「いえ、すみません。何でもないです。忘れてください」

 慌てて質問を引っ込めようとする。しかし、多佳子は意外なことを口にした。

「記憶を失ったままなんですね」

「え」多佳子の眼を見つめる。

「新海さんは、特別な薬を試していました」

 クライン。胸が抉られる思いだった。我知らず、呼吸が荒くなる。

「特別な薬って?」津野田が訊く。

「クライン……」小さな声で呟く。

「え。クラ……」津野田が言葉に詰まる。

 正直に言わなければならない。眼を閉じて、深呼吸をする。意を決して、津野田を見た。

「私がクラインを創ったみたい」

「な……」

 津野田は絶句した。呆けたように、口を開けたままだ。

「でも私、何も覚えてないんです」

「いや、待て。よく判らない。君がクラインを? 君はどっち側の人間なんだ」

 津野田の眼が、驚愕から猜疑するそれに変わっていく。

「私、判りません。何もかも。自分が誰なのかも判らないんです」

 叫び出したい気分だった。悲しいのか、つらいのか、それとも腹立たしいのか、激しい感情がほしばしる。

「新海さんは、ものさしを作るんだって言ってました」

 多佳子が、千紘の気持ちを鎮めるような穏やかな口調で言った。

「ものさし?」

「ええ。治療に役立つものさし。アルツハイマー病の人たちの脳画像や血液を集めたり、簡単な質問にどの程度答えらるか記録を取るんだって」

「J‐ADNI2だ」津野田が言う。

「ええ。確か、そうおっしゃっていましたね。被験者を探していて、それでここに来たんだと」

 津野田が声を荒らげる。

「君は何をしたんだ」

 視線が痛い。

「私……判りません」

 おもむろに首を振るしかない。多佳子が千紘の背中に手を置く。

「浅野先生と一緒に来たのよ」

 津野田が驚いた様子で訊ねる。

「え。浅野先生って、まさか」

「ええ。副総理の。ここの理事長は浅野先生の親戚なんです。浅野先生ご自身も、理事のひとりです。なので、ときどきお見えになるんです」

「浅野副総理……判らない。君は副総理と面識があるのか」

 ここに来る前だったら、否定していた。しかし、いまは答えられない。

「どうしてシルヴァラードは、僕たちを浅野邸に行かせたんだ。君はその理由に思い当っているんじゃないのか」

「いえ……」

「僕は、君を信じられなくなった」

 津野田がそう思うのは当然だ。千紘も自分を信じられない。恐る恐る多佳子に訊ねる。

「あの、私、ここの人たちをJ‐ADNI2に参加させたんでしょうか」

「ええ。新海さんは入所者と話して、四人を選び出しました。その人たちは特別優遇されると言ってました」

「特別優遇される……」

「特別な薬です。ほかの被験者たちは、データを取られるだけだけど、ここのホームの人たちは、特別な薬を与えられる。その経過を記録したいのだと、言ってました」

 津野田が声を絞り出す。

「何てことだ。クラインの投与に積極的に関わっていたなんて」

 津野田の苛立ちとは対照的に、多佳子は飽くまで落ち着いている。

「その四人は薬の効果で、見る間に症状が改善しました。新海さんにとても感謝していました」

「それから?」津野田が急かす口調で訊く。「その後、その四人はどうなったんですか」

 多佳子は顔を曇らせた。

「せっかく、認知症が快方に向かっていたのに、間もなく、亡くなりました」

「死因は?」

「脳梗塞と心筋梗塞です」

「やっぱり。十八名に含まれる人たちだ」千紘を睨む。「君は何をしたんだ。どうして四人を殺したんだ」

 千紘は両腕を抱いた。身体が小刻みに震えている。どうして何も思い出せないのか。頭が痛い。津野田が車椅子を間近に進め、手を伸ばしてきた。

「止めてください」

 多佳子が津野田の手を払って、千紘を抱き抱える。

「四人とも病死です。新海さんのせいじゃありません」

「いや、彼女のせいだ。クラインを飲ませて死なせたんだ。ほかに十四名が亡くなっている。ほかの十四名はどうしたんだ」

 形相が凄まじい。千紘は津野田から逃れたかった。身体の震えが止まらない。

「怖がってるじゃないですか。何を勘違いなさっているのか知りませんが、新海さんは本当に良くしてくださったんです」

 津野田が多佳子に眼を向ける。

「あなたはクラインがどんな医薬なのか知らないんだ」

「新海さんが持って来た薬のことを言ってるんですか」

「そうだ。それを飲まされたから、四人は亡くなったんだ」

「嘘です。四人とも症状が改善しました。暴言を吐き、暴力を振るっていた人が、とても穏やかな人に戻りました。服の着替えができなかった人が、いつもきちんとした身なりでいられるようになりました。家族の顔すら判らなかった人が、わたしたち職員ひとりひとりを認識できるようになりました。大便を丸めて口に入れていた人が、衛生に気を遣うようになりました」

 津野田は息を飲んで、多佳子を見つめる。

「本当なのか」

「ええ。もちろん、本当のことです」

「クラインはそんなに効果があるのか」

 津野田は茫然とした顔で千紘を見る。千紘は、津野田の視線に耐えられず、眼を反らした。医薬の知識が口を吐く。

「クラインがγセクレターゼ阻害薬なら、そういうことがあっても、不思議じゃないと思います。アルツハイマー型認知症を根治できると期待されてきましたから。だから、世界じゅうのファーマが開発を目指したんです」

「もちろん、それは承知している。だが、本当に実現するなんて……。クラインの承認申請の資料には眼を通している。だから、脳内のアミロイドβの濃度を一定に保つ効果があることは、数字で把握している。しかし、AN‐1792の例がある」

 千紘の頭に専門知識が蘇る。AN‐1792は、アメリカのエラン社が開発していた認知症予防ワクチンだ。第Ⅱ相治験で、髄膜脳炎の副作用が起き、開発中止になった。死亡した被験者の脳を調べると、アミロイドの蓄積が消失していた。それにも拘わららず、その被験者の認知機能は、著しく回復していたわけではなかった。

「僕はクラインも、一定の効果はあるものの、認知機能を回復するまでには至らないだろうと思っていた。クラインは、本当にADを根治できるのか」

「新海さんは、全員を治すつもりで研究していたのだと思います」

「そうなのか」

 津野田が千紘に問う。

「私、判らない。何も覚えてないんです」

「覚えてないって、そんな莫迦なこと」

 津野田が眼を剥く。多佳子が津野田を睨みつけて言う。

「新海さんは、自分の記憶を封じ込めたんです」

「記憶を……? そんなことができるのか」

「薬を飲んだんです」

 千紘はハッとした。大量のフェンサイクリジンの錠剤。NМDA型グルタミン酸受容体拮抗罪。それを鷲掴みにして、口に入れる情景が脳裡に浮かぶ。

 死んでも構わないという覚悟でいたのかもしれない。見当識障碍。幻覚。精神錯乱。統合失調症。昏睡。脳だけでなく、腎臓や筋肉の損傷もあり得る。だが、記憶に関わるシグナル伝達を遮断できる。そこまでして、記憶を抹消しようとした? 何故?

 多佳子は千紘の肩を掴んで、諭すように言う。

「初めてここに見えたとき、あなたは、入所者を厭わしく思っているようでした」

「え」

 多佳子は首を振って言う。

「いえ、いいんです。それが普通です。健常者から見たら、認知症の人たちは、何をしたいのか、何を考えているのか判りません。怖いと思っても不思議じゃない。失禁や弄便を見て、不潔だと思うのも当然です。でも、認知症患者がおかしな振る舞いをするのは、病気だからです。健常者が、彼らの尊厳を守ることができないのなら、それは、彼らだけでなく、私たちも病気に屈しているということです。認知症の人たちを、きちんと人間として尊重できるかどうか、それが何より大切なことなんです。

 新海さんは、ここに通っている内に、そのことに気付かれたようでした。いつしか、入所者とコミュニケーションを築こうとしていました。それこそ真剣に接していました。ものさしを作るための調査が終わると、もう新しい薬をもらえません。なので、新海さんは会社からこっそりと薬を持って来てくれました」

 ホーム長が言った通りだ。密かにクラインを持ち出していた。ホーム長の言葉が脳裡を過る。

〈死ななかったら、意味ないじゃない。何人も死んでるでしょ〉

「私、死ぬまでクラインを飲ませ続けた」

 多佳子は顔を曇らせる。

「いえ、多分、持ち出せる量に限度があったのでしょう。飲ませる回数を減らしていきました。仕舞いには、薬がなくなってしまったようです。薬を中止しました。それからひと月ほどすると、みなさん、また記憶に混乱が見られるようになりました。と言っても、最近のできごとを忘れている程度です。以前のように、何もかも判らなくなってしまうということはありませんでした」

「症状は進行しなかったんですか」

「ええ。でも、みなさん、間もなく……」

 千紘は息を呑んだ。そういうことか。症状が重症化する前に、亡くなってしまったのだ。良心の呵責に苛まれる。

「私、無責任過ぎる……」

 声を絞り出して俯く。効果があったのに、途中で抛り出してしまった。独り善がりなことをしただけだ。

「責任を取ろうとしたのかもしれない」

 津野田が言った。言わんとするところが判らず、千紘は顔を上げる。

「リバウンド」

 ハッとして、津野田の眼を見つめる。津野田が真顔で頷き返す。

「浅野邸にあった介護記録からは、凝固系のリバウンドがあるように読める。君はリバウンドを起こさないよう、慎重に離脱させようとしていたんじゃないのか。だから、投与量を漸次減らしていったのかもしれない」

 もし、そうなら、僅かでも罪の意識が薄らぐ。しかし――。

「それでも亡くなってしまった」

「失敗は避けられない。医薬の作用機序には不明な点が多い。だからこそ、治験をしているんじゃないか。実際に投与して試してみないと判らない。治験中の新薬にリバウンドがあると判っても、安全な離脱方法は確立されてない」

 多佳子が千紘の顔を覗き込む。

「あなたは、四人が亡くなったことを知ると、本当につらそうにしていました。取り返しのつかないことをしたと言って、ぼろぼろと涙を零していました」

 取り返しのつかないこと。クラインで殺してしまったという自覚があったということか。

「それで、一切の記憶を消し去ると言ったんです。データは破棄できる。けど、頭に記憶が残る限り、悲劇が繰り返されてしまうからって。私は何を言っているのか、よく判りませんでした。でも、そのときです。その社員証を私に差し出して言いました。いつか、自分がここに戻って来るときまで、預かっていて欲しいって」

 千紘は山際製薬の社員証に眼を落とす。これを多佳子に預けた。どういうつもりでいたのだろう。

 時折り現れるフラッシュバック。それらは、千紘が封じた記憶の断片なのか。クラインを持ち出して、入所者に投与した。その後、フェンサイクリジンで、記憶を消した。それらが事実だとして、しかし、何をどうするつもりでいたのか。

「その後で一度、いらっしゃったことがあります。思い詰めた顔で、介護記録を貸して欲しいって言ってきたんです。本当なら、持ち出し禁止なんですけど、浅野先生の許可を得ていると言うし、ホーム長もそれなら構わないと言うので、お貸ししました。あれは、お役に立ったでしょうか」

 介護記録を借りた? 全く覚えがない。

「君は、本当に記憶を消したのか」

 津野田は腕を組んで難しい顔をしている。

「多分……」息を吐いて言う。「多佳子さんの言うことは、すべて事実だと思います」

「だとしたら、クラインを毒に転化する方法を知っているということか」

「え」

「データを破棄しても、記憶があれば、悲劇が繰り返されると言ったのは、そういうことなんじゃないのか。J‐ADNI2の被験者だけが、どうして亡くなったのか。君はその理由を知っているんじゃないのか。いや、多分、君しか知らない。ほかに知っている者がいれば、君が記憶を抹消したって、悲劇は繰り返されるから」

 千紘の呼吸が荒くなった。津野田の言う通りだとしたら、クラインに毒性を持たせたのは、千紘だということになる。どうしてそんなことをしたのか。

 激しい頭痛に襲われる。両手で頭を抱え、項垂れる。

「大丈夫?」

 多佳子が訊く。それに首を振って答える。

「頭が凄く痛い」

 鼓膜に頭蓋の鼓動が響いて、周りの音が失われていた。だから、砂利を踏んで駈けて来る複数の足音に気付かなかった。

「まずい」津野田が叫んだ。

 多佳子が千紘の身体を揺する。顔を上げると、多佳子は前方を凝視している。津野田も、蒼褪めた顔で、そちらを見ている。千紘もやおら、その方向に首を捻った。

 ふたりの男。それぞれが懐に手を入れる。抜き出した手に黒いもの。銃だ。それを見た途端、多佳子が悲鳴を上げた。

「きゃあ」

 その声に驚き、近くにいた小鳥が飛び立つ。千紘は弾かれたように立ち上がった。車椅子の後ろに回り込み、ハンドルを掴む。くるっと回転させて、砂利道を横切る。その先はだんだらに下る花畑。枯れた茎が折れているだけで、荒れている。その中を突っ切って行く。土に沈んで車輪が重い。しかし、構っていられない。強引に押し遣る。

 不意に発砲音がした。

 思わず首を竦める。身体を低くして、そのまま花畑を下る。下り切ったところに、千紘の背丈くらいの生け垣がある。どうしよう。車椅子であれを超えるのは無理だ。マサキの葉が隙間なく密生しているから、突っ切ることもできない。それでも、暗殺者たちから少しでも遠ざかりたくて、必死で駈けて行く。

 また、発砲音。

 向こうだって走ってる筈。走りながら走る相手に命中させるのは、きっと難しい。当たる筈がないと信じて、必死に走る。

 足がもつれた。ハンドルが千紘の手から離れる。前のめりに倒れる。胸が土に叩きつけられた。津野田は車椅子から抛り出されている。足音が近づいて来る。銃声が轟く。千紘の顔のすぐ横で、土が舞った。

――ダメだ。こんなところで死ねない。

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