第13話
高級マンションと見紛う外観だった。煉瓦の代わりに大理石を積み上げた壁面に、上品な高級感が漂う。
千紘は、福祉車両の二列目シートから、そのビルを見上げる。車両は、道路から車寄せに入って行く。エントランスのドアは重厚な枡目格子のガラス戸で、館内を見通すことができる。エントランスの先に、柔らかな檸檬色の灯りが溢れている。
「着きましたよ」
運転席の女が振り向く。歳は四十前後か。化粧っけがなく、やつれた面差し。細い肩に、白のポロシャツ、パステルブルーのエプロン。千紘はその人を知らない。しかし、その人は千紘を知っていた。
冷蔵庫が爆発して数分もしない内に、消防車やパトカーのサイレンが、遠くに聞こえた。それが重なり合って近付いてきた。近在の人が爆発の大音響に驚いて、通報してくれたのだろう。千紘を殺しに来た男たちは、サイレンが近付く前に退散して行った。緊急車両だけでなく、野次馬も集まり、新聞社やテレビ局も続々と集まってきた。
消防や警察が屋敷に入って来る前に、千紘は津野田の車椅子を押して、テラスに出た。庭に出ると、屋敷林に紛れた。しかし、屋敷林の外周部には土塀が途切れることなく巡っていた。しかも屋根のある唐塀で、千紘ひとりでも、乗り越えるのは難しそうだった。まして、津野田がいる。
「外に出られそうもありません」
千紘が土塀を見上げて言う。
「門扉から出ればいいだろ」
津野田に策があるのかどうか判らなかった。しかし、悟り切ったように言うので、津野田に従った。ほかに選択肢はなかった。
千紘は、警察官や消防隊員で騒然としている門扉に車椅子を押して行った。警察官たちは、千紘たちを見てギョッとした。千紘の心臓は鼓動を速めて、胸を突き破って飛び出しそうだった。
「屋敷に……いたのか」
警察官が凝視する。津野田が平然と言い返す。
「ちょっと、爆発の痕を見たくなって、中に入りました」
警察官は形相を変えた。
「ダメだ。勝手に入っちゃダメだ。さあ、出て」
門扉から外に追い出された。内心、ほくそ笑んだものの、心臓の鼓動は激しいままだった。さっさと浅野邸から遠ざからなければ、危険は去らない。そう思いながら、車椅子を押して道路を横断した。
千紘には確信があった。この先の通りに、福祉車両が通りかかる。それに乗るのだ。それで、行くべきところに行くのだ。以前は、いつもそうしていた。
――以前?
いつのことだろう。福祉車両に乗り込んだことなんて、あっただろうか。
「新海さん」
名前を呼ばれて肝を冷やした。いま、千紘の名前を呼ぶのは殺人者ばかりだから。恐る恐る、声のした方を見る。福祉車両だ。助手席の窓から、中年の女が顔を出している。
「新海さんも、心配でいらしたんですか」
丸々としたふくよかな容貌。水色のポロシャツは、むりやり身体を押し込めたようで、いまにもはち切れそう。その女にどこで会ったのか、思い出せない。女は津野田を見て、千紘に眼を戻す。
「どちらかの施設にいらっしゃるんですか」
「いえ……」
津野田が千紘の袖を引いた。屈んで耳を寄せると、囁く。
「知り合いなら、力になってくれるんじゃないのか」
千紘は女の顔を見つめる。女が、何でしょうか? と、言うように眉を上げる。
「これからお邪魔しても宜しいですか」
「え」驚いた顔をする。
「お願いします」
女はしばし、キョトンとしていた。やがて、問題ないと結論したのか、微笑んで言う。
「新海さんの顔を見たら、きっと、みんな喜びます」
胸の名札で、女の名前が田代だと判った。
「田代さん、ありがとうございます」
「多佳子でいいわよ」
田代多佳子の福祉車両に乗った。
「うちは小規模多機能もしてるでしょ。いま、お婆ちゃんを送り届けて来たところです。そしたら、浅野さんのお宅が爆発したってラジオで言ってるじゃない。心配で来てみたんです。私、もう、お屋敷がそっくり吹き飛んじゃったのかと思って。早とちり。大したことなくて良かった。でも、来て良かった。新海さんに会えるなんて思っていませんでした」
千紘は作り笑いを浮かべて相槌を打った。
多佳子の身なりは、ケアワーカーのものだ。ポロシャツには施設の名が刺繍されている。小規模多機能というのは、小規模多機能型居宅介護のことだろう。多佳子は介護施設の職員に違いないと思った。けれども、彼女のことは、何も思い出せない。
車中では、手さぐりの会話が続いた。どうやら、港北区に介護付き有料老人ホームがあり、多佳子はそこの従業員なのだと判った。
警察が追い駆けて来るのじゃないかと、内心ドキドキしていたが、無事、施設に到着した。
千紘がサイドドアから降りている間に、多佳子は車の後ろに回っていた。千紘が覗き込むと、福祉車両のバックドアを開け、折り畳み式のスロープを引き摺り出している。それを接地させると、スロープを上って車に乗り込んだ。津野田の車椅子の後ろに屈んで、手際良く、固定ベルトを外す。手を貸したら、却って邪魔になりそうな気がして、千紘は突っ立ったまま、作業を見ていた。
全てのベルトが外れ、多佳子が車椅子を後ろ向きに引く。津野田は身体を捻って、スロープの先を不安げに見る。しかし、多佳子にとっては日常の作業で、津野田が不安を抱くほどのことではない。スロープを降り切ると、多佳子は車椅子をくるっと回し、千紘の前まで押して来た。
「中に入ってください。私は、駐車場に車を回さないといけないから」
身体を返して、車に向かう。
「ここは、入所するときの一時金が、随分と高そうだな」
津野田がガラス窓の中を覗いていた。千紘も大理石の床や壁を見て、そう思う。高級感は半端じゃない。日比谷公園近くの高級ホテル並み、いや、それをも上回る気品がある。
バックドアが閉まる音がした。見ると、多佳子が運転席に駈けて行く。さっと乗り込んで、すぐに発車させる。車寄せから出て行くのを見送って、改めてエントランスを見る。枡目格子のガラス戸は、部外者を拒んでいるかのような重々しさだ。千紘が尻ごみしている間に、津野田はもう、車椅子を転がしていた。
枡目格子の戸は自動ドアだった。センサーが津野田を感知して、左右に開く。津野田が車輪を転がして、中に入って行く。ドアが閉まる前に、千紘も中に入った。
もはや、監視カメラを探すのが習慣になっている。頭上を見回す。不審者対策だけでなく、入所者が転倒したときの検証にも使うのだろう。そこかしこにカメラがあり、死角を選んで進むのは難しい。
「ここは割り切るしかない。顔だけは映らないよう、気をつけていよう」津野田が囁いた。
ホールには、ペルシア絨毯を思わせるアラベスク柄のカーペットが敷き詰められていた。踏み入ると、毛足は短く、適度な固さで押し返してくる。津野田は、板敷きの床を進むように軽快に、車椅子を転がして行く。
ホールの先の机に、ひっつめ髪の女がいた。黒いスーツが実年齢より年嵩に見せているかもしれない。しかし、多佳子よりはずっと若い。机には「CONCIERGE」のプレートがある。
女は、千紘を見てハッとしたようだった。さっと立ち上がって、右手に左手を重なる。笑みを湛えて、深々と頭を下げる。
「藤元をお呼びいたします」
低い声で言い、受話器を取り上げた。
何も言っていないのに、誰かを訪ねて来たと思われた。多佳子が事前に連絡を入れていたのか。いや、そんな様子は全くなかった。彼女はケータイを取り出しもしなかった。
「いま、参ります」
女は受話器を置いた。
「藤元さんて?」
女は眼を剥いた。
「ホーム長です。お忘れですか」
「いえ……」
千紘は、自分の知らないところで勝手にことが進んでいるようで、厭な予感がした。津野田も怪訝に思ったらしい。千紘を見上げて、眉を顰める。
「新海さん。よくいらっしゃいました」
後ろから声をかけられ、振り返ると、中年の女だった。アイボリーのスーツのラペルの上に、濃紺のワンピースの襟を出している。冷たい印象を受けるのは、眼鏡のせいだろうか。目尻が吊り上がったフォックス型のフレームだ。射竦めるような鋭い眼が、レンズ越しに千紘を見つめる。津野田を見て、怪訝そうに首を傾げる。
「津野田と言います。事情があって、新海さんの世話になっています」
「あら、そう」
無遠慮に津野田をしげしげと見る。津野田の言葉をどう解釈したのか、ふうんと言って、眼を放した。
「それじゃ、ふたりともついて来て」
言うが早いか、歩いて行ってしまう。押しが強そうで、千紘の苦手なタイプだ。津野田を見ると、その場で車椅子をくるっと半回転させている。藤元について行くつもりでいる。千紘が躊躇っていると、津野田が見上げて言う。
「どうした。行かないのか」
「ここで、多佳子さんを待ったほうがいいような気がする」
津野田は、藤元の背中を見る。千紘に眼を戻し、声を潜める。
「ホーム長なんだろ。従わないと、追い出されるんじゃないのか」
津野田は千紘をじっと見つめる。その眼が、早く行こうと急かしている。仕方なく、千紘は足を踏み出した。小走りで、藤元を追い駆ける。途中で追い付き、歩を緩める。
藤元は「事務室」のプレートが張られたドアの前で立ち止まった。それを開けて、中に入って行く。開け放ったドアから、津野田が先に入り、千紘が後から入ってドアを閉めた。
室内には十人足らずの従業員がいた。全員立ち上がって、頭を下げている。千紘は恐縮する思いだったが、彼らが頭を下げた相手は藤元だったかもしれない。藤元は従業員たちを一顧だにすることなく、奥のドアに向かう。ドアの前で立ち止まって、初めて振り向いた。津野田を見下ろして言う。
「あなたはここにいてください。新海さんだけ、入って」
千紘は、不安が過って、津野田を見た。津野田も肩越しに千紘を見ている。千紘に向かって小さく頷くと、藤元に眼を戻した。
「僕は新海さんの付添人のようなものだ。新海さんだけ行かせるわけにはいかない」
藤元は、拇指と食指でフォックス型フレームを挟んで、上体を傾けた。津野田を凝視する。
「新海さんの付添人? あなたが?」
「そうだ」
藤元は腰を伸ばした。千紘を見る。
「そうなの?」
「ええ、まあ」
「まあ、何でもいいわ。けど、中に入れることはできない。私とあなたのふたりだけで話したいの。判るでしょ」
藤元は千紘を見据える。どんな場合でも、他人を思い通りにできると思っている人間の眼だ。逆らったりしたら、何をされるか判らない。警察に突き出さないとも限らない。
千紘は藤元に向かって頷いた。
「私ひとりで大丈夫です」
「なら、良いけど」
藤元は身体を返して、ドアを開けた。千紘は心配そうに見上げる津野田に言う。
「大丈夫」
中に入って、ドアを閉めた。
その部屋のカーペットは、ホールのものより上質に違いなかった。シルク特有の光沢感がある。書棚や執務机は楢材だろうか。部屋の主人の権限を誇示するかのように重厚だ。部屋の中央に据えられた応接セットのソファには、飴色の風合いがある。タンニンで丁寧になめした皮が張られている。
藤元は応接セットの脇に立って、千紘を待ち構えていた。
「どうぞ」ソファを指し示して微笑む。「このソファ、お気に入りだったでしょ。ソファを新調しようかと思ってたの。その前に来てくれて良かったわ」
千紘は、藤元の微笑みに親近感を抱くことができなかった。ファストフードの店員の営業スマイルと大差ないと思った。名前を呼ばれているのに、不特定多数の人に向けたトークにしか思えない。むしろ、胡散臭く思う。
藤元は千紘を知っているらしい。けれども、千紘には彼女に会った記憶がない。藤元だけじゃない。多佳子も、コンシェルジェだってそうだ。千紘は誰も知らない。なのに、誰もが、旧知の友に会ったかのように振る舞う。いつ、どこで知り合ったのか。千紘には全く判らない。こんなにも人を覚えるのが苦手だっただろうか。面識がある筈の人を思い出せないなんて。そんなことがいままであっただろうか。不審を抱いて、ソファに座った。
「新海さんなら、何とかなるでしょ」
藤元は千紘の向かいに座って、いきなり切り出した。
「何がですか」
千紘には話が見えない。けれども藤元は、千紘が疑念を抱いていることに気付かない。淡々と続ける。
「手に負えない入所者が三人いるの。浅野先生に、横流ししてもらえないかって、お願いしたのよ。けど、もう少し待てって言うだけでしょ。一体、いつまで待てって言うのよ、ねえ。政治的な駆け引きがあるのは判るけど、現場はヒーヒー言ってるの。常に戦場。先生は、判ってらっしゃるのかしら。ケアワーカーが、毎日、毎日、認知症に振り回され、どんな思いをしているのか。先月もひとり辞めちゃった。このままじゃ、誰もいなくなっちゃう」
藤元が両手を伸ばし、千紘の手を握り締める。咄嗟に手を引こうとしたが、彼女にしっかりと握られていた。
「お願いします」
目尻を下げて哀願する。けれども、千紘には、何を頼まれているのか判らない。
「お願いと言われても、何のことでしょう」
「薬よ。決まってるでしょ。クライン」
「クライン?」
千紘は驚いて訊き返す。
「そうよ。何をそんなに驚いてるの。クラインが欲しいの」
津野田の話では、クラインは市販されていない。そんな薬を、どうして千紘がどうにかできると思っているのだろう。
「ねえ、お願い。持ち出せるんでしょ」
千紘の手をさすって懇願する。
「いえ、私は……クラインなんて知らないし……」
「あなたが創った薬でしょ」
藤元が言った。千紘は穴が開くほど彼女の顔を見つめる。
「私が?」
藤元は眉を顰める。
「そう言ったじゃない」
「違う。私じゃない」藤元の手を振りほどいて立ち上がる。「私に創れるわけない。薬のことなんて、何も知らないのに」
ハッとする。知らない? 違う。知っている。しかし、どうして?
途端に激しい頭痛に襲われた。何本もの錐が頭蓋に突き刺さったかのようだ。両手で頭を抱えてドアに向かう。しかし痛みに耐えられず、床に蹲ってしまった。
「ちょっと、大丈夫」
藤元が千紘のそばに来て、背中に手を当てた。屈んで、千紘の顔を覗き込んでいるようだ。千紘の脳裡に、鮮やかにある場面が蘇った。
老女の背中に手を当てる千紘。
〈これを飲んでください〉
老女に錠剤を渡す。
――クラインを渡した?
〈どのくらいで亡くなってくれるのかしら〉
藤元の冷たい顔。
〈いつまでも生き永らえるものじゃないわね。見苦しい〉
錠剤の蓋を外す千紘。
ベッドに寝ている老人。
〈入所者は少しずつ減らさないと〉
〈新海さんのお陰で、うちのケアワーカーは大助かりよ〉
それぞれの場面が、ぐるぐると回転し、絵具が混ざり合うように溶け合っていく。世界はぐるぐると回って、とてもあやふやだ。いや、回っているのは千紘のほうか。闇に抛り出され、天地も方位も判らず、揺蕩うようだ。
――私、クラインで人を殺した?
自分は何をしたのだ。思い出そうとすると、鋭利な痛みが、頭蓋を突き刺す。痛みを堪えて藤元に訊ねる。
「手に負えない三人。その人たちをどうしたいの」
「どうって、終わりを迎えてもらうんじゃない。いまさら何を言い出すの」
千紘は頭を起こして藤元を見た。
「殺すの?」
藤元はニヤッと笑った。
「あなたがそんな言い方するなんて。そういう言い方、嫌っていたじゃない。もっと、体裁を繕った言い方していた。確か……そう、尊厳ある最期」
「尊厳ある……最期……」
胸を抉られる思いだった。そんな、オブラートに包む言い方で、殺人を正当化していた?
――莫迦な。
頭が破裂しそうなくらい痛い。心臓が、小動物のように忙しく伸び縮みしている。それでも、息苦しい。
「うまいこと言うわよね。確かにそうかもしれないわね。お亡くなりになる前は、症状が改善するんだから。家族のことも思い出せるようになる。認知症を発症した後、壊れてしまった家族との絆を取り戻すこともできる。それで最期を迎えられたら、本人にとっても幸せよ」
――嘘だ。クラインは安全だ。
津野田が言っていた。
〈……無力症、嘔気、めまい、傾眠などで、投与量の多かった者も含め、いずれも処置を必要することなく改善した。つまり、危惧すべき所見は認められなかったということだ〉
副作用なんてない。クラインで人が死ぬわけない。
〈安全な医薬として承認された。それは確かだ〉
「誰も死んでない。私は殺してない」
うわ言のように言う。藤元がそれを聞き咎める。
「誰も? 何言ってるの。死ななかったら、意味ないじゃない。何人も死んでるでしょ」
津野田の言葉が蘇って、身体が熱くなる。
〈……その十八名は全員、死亡している。脳梗塞が八名、心筋梗塞が七名、肺梗塞が三名……〉
「J‐ADNI2……」
「判ってるわよ。国家的なプロジェクトだから、クラインを飲ませる以上、いろいろとデータを残していきたい。だから、当面は、J‐ADNI2の被験者にしか使わないって言うんでしょ。浅野先生だって、睦子さんを例外扱いにせず、わざわざJ‐ADNI2に参加させたくらいだものね。判ってる。判ってて言ってるの。あなた、前は、会社から持ち出してくれたじゃない」
「私が……持ち出した……」
まざまざと蘇る。研究室のロッカー。鍵を開け、中から薬瓶を取り出す。
――私、誰?
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