第12話

 佑香に義母の治験薬について訊いた。

「山際製薬の薬なんじゃないのか」

「そうだったかも。先生に治験番号を聞いたんだけどな。山際製薬のものだったような気がするけど、どうだったかな。でも、どうして?」

「もしそうなら、ちょっと気になることがある。調べられないか」

「できるわよ。承認申請したとき、販売名をつけられている。クラインって言うの。こっちは、メモしておいた。クラインで調べてみる。PDMAのホームページに出てる筈だから」

 一端、電話を切った。しばらくして、佑香から電話が入った。

「山際製薬よ。治験番号も、間違いなく山際が使う英字と数字。YМG‐0714」

 コーポレート・コミュニケーション部の社員と第Ⅲ・5相試験の話をした。認知症薬だと言ったら、眼つきを変えた。あれを見て、不安になった。

「PDMAのホームページで、ほかに何か判らないか」

「判るわよ。審査報告書も申請資料も登録されているから」

「よく調べたほうがいい」

「え。何、どうしたの。この前は、私が良いと思うのなら、そうしろって言ってたじゃない」

「勿論、お前が決めればいいさ。ただ、決めるのは、よくよく調べてからでもいい。だろ?」

「ふうん」笑みを含んだ声で言う。「考えてくれてるんだ」

 つい照れ臭くなり、突っ慳貪に言い返す。

「何だよ」

「何でもないわよ。調べてみる」

「何も問題がなければ、それでいい」

「問題があれば、PDМAが製造販売の承認なんてしないわよ」

「そう思うが、お前だって変だって言ってたじゃないか」

「まあ、ね。せっかく、資料の閲覧ができるんだから、眼くらい、通しておくか。面倒くさっ」

 言葉とは裏腹に、面倒でなさそうな口吻で言って、電話を切った。

 浦瀬は踵を返してロビーを横切り、ラウンジに向かう。

 ホテルのラウンジは案外混んでいた。スーツ姿のものが多いのは、ビジネスの打ち合わせだろうか。

 小杉は半分ほど空にしたコーヒーカップを前に、新聞を広げていた。その隣に座って、冷めたコーヒーをすする。

「変わったニュースがあったのか」

「副総理の家で爆発事故があったみたいです」

 浦瀬は苦笑して言う。

「お前の口から出るのは、総理とか、副総理とか、まるで政治記者だな」

「本当ですって」

 新聞を閉じて差し出してくる。それを手の甲で払って言う。

「判った。判った」

 小杉は不貞腐れた顔で、夕刊を膝に置く。その顔を見て、話に乗る。

「事故ってことは、テロじゃないんだな。誰か怪我したのか」

「誰も。副総理はいま、都内のマンションに住んでて、横浜の家は空家になっているそうです」

「空家? 空家で何が爆発したんだ」

「ガス管の劣化で、ガス漏れしていたみたいです。コンセントにたまった埃が湿気を含んで漏電したようです。溜まったガスが、コンセントの火花に引火して、ドン」

 ドン、と言うとき、上向きにした拳の指を広げた。

「ふうん」

 空家のガス爆発に興味はない。気のない返事をする。小杉は新聞に眼を戻して言う。

「また言ってますよ。日本を取り戻すって」

「総理か」

「はい。日本は誰かに盗られたんですか」

「盗ったとしたら、CIRAや公安部だろう」

「だったら、総理が取り戻すって言うのは、逆じゃないですか」

「だな」

 小杉はラウンジの出入口を見た。

「来ますかね。待ち合わせの時間は過ぎちゃいましたけど」

「来なきゃ、何度でも会いに行くさ」

 浦瀬はコーポレート・コミュニケーション部の社員と話した後、しばらくロビーで佇んでいた。医薬開発部のフロアから降りて来るエレヴェーターを待っていたのだ。

 扉が開くと、ワイズマンと同年代の社員を選んで、声をかけに行った。胸の社員証をちらっと見て、名前を呼ぶので、誰もが立ち止まる。お世話になっています、と言えば、相手は、面識があるのに自分が失念しているものと勘違いしてくれる。

「確か、GCP推進グループでしたね」

「いえ、違います」

「ああ。申し訳ない。私の勘違いです。別の方と間違えました」

 そんな遣り取りを何度かして、山根達樹という社員を捕まえた。ワイズマンの二年先輩だった。世間話で油断させた後、いきなり警察手帳を見せた。ワイズマンの話を聞きたいと言うと、顔色を変えた。あからさまに動揺して、周囲を見る。逃げられないように上着の裾を掴んだ。山根は声を殺して言った。

「止めてください。人に見られるじゃないですか」

「何かやましいことがあるんですか」

「ありませんよ」盛んに首を振る。

「それじゃ、話すくらいいいでしょ」

「これから約束があるんです」

「なら、仕事が終わってから。いいですね」

 それで、ホテルのラウンジで待ち合わせることにしたのだ。

 山根は約束の時間に十分遅れて現れた。業界最大手の社員が時間にルーズということもないだろうから、逡巡して、いやいや遣って来たのだろう。浦瀬の前に座って、コーヒーを注文した。浦瀬は早速、切り出す。

「ワイズマンさんの名前を出したら顔色を変えましたね。何故ですか」

 山根は顔を曇らせた。溜息を吐く。

「あんな死に方されて、夢見が悪いというか。うちの部署の者は、誰もがそう思っています。後ろめたさがあるんです」

「後ろめたい? どうして」

「ワイズマンに関わらないようにしていたからです。いまにして思えば、彼を無視しているのと同じでした」

「仲間外れにしたということ?」

 山根は口を尖らせる。

「そんなつもりじゃなかったんです。でも、うちの会社が重篤な副作用を隠してるなんて言うものだから」

「隠してるんですか」

 山根は頭を振る。

「とんでもない。そんなことないからこそ、ワイズマンの相手をしなかったんです」また溜息を吐く。「みんな、自分の業務で手いっぱいなんです。ちょっと変わった奴に、関わってる暇なんてないんです。それで責められても困るな」

「どんな風に変わっていたんですか」

 山根は眉根を寄せる。

「ピントがずれてるというか、日本とウラルの文化の違いもあるんでしょうけど」

「例えば?」

 山根は眼を上に向け、考える。思い付くことがあったのか、眉を開いた。

「昼食を食べていたときのことです。社食のテレビがニュースを流していました。川遊びをしていた子どもが溺れて亡くなったんです。同僚たちがみんな気の毒そうな顔をしている中で、ワイズマンだけおかしなことを言うんです。日本の川や池は安全だから、水に入って遊ぶんだろうって。何だか、ピントがずれてるでしょ。安全じゃないから溺れたって言うのに」

「なるほど」

 日本の川や池は安全。どういうつもりで、そんなことを言ったのだろう。

「だから、ワイズマンの話を聞かせてくれって言われてもね」

「お忙しい中、お呼び立てして、申し訳ありません」心にもないことをしれっと言って、続ける。「ワイズマンさんが変わった人だったというのは、判りました。でも、優秀な方だったと聞きました。そんな人が亡くなったんじゃ、会社の損失も大きいでしょうね」

「優秀?」

 山根は眉を寄せ、解せないというように首を捻る。明らかに、反対だと思っている。

「優秀じゃなかったんですか」

「まあ……」

「ダメダメでしたか」

「そうは言いませんが」眉を顰める。「優秀だったら、自殺なんてしないでしょ」

 驚いて、身体を乗り出す。

「自殺だと思ってるんですか」

「事故だと聞いてますけど、本当のところは自殺なんでしょ」

「自殺しそうでしたか」

 山根は訝るように眉根を寄せる。

「どういう意味でしょう」

「仲間外れにしていたって……それを苦にしてって、思っていらっしゃるのでは?」

「そうじゃない」苦笑する。「いい大人が、さすがにそれはないでしょう。部長です。パワハラです。ワイズマンは亡くなる直前、度々、呼び出され、激しく叱責されていました。いつも陰鬱な顔をしていて、全く笑わなくなりました。それまでは、人に何か言われたって、あっけらかんとしているような快活な奴だったんですけど」

「どうして、そんなに叱られていたんですか」

 山根は首を傾げる。

「よほど大きなミスをしたんでしょうね。ほら、J‐ADNIでは、データ改竄があったって騒がれたでしょ。製薬会社の者も改竄に関わったとかって。それで、上は神経質になっていたんだと思います。J‐ADNI2で、痛くもない腹を探られたら困ると思って、些細なことで、叱責していたのかもしれません。とにかく、ワイズマンはだいぶ参ってる様子でした」

「ワイズマンさんとJ‐ADNI2は関係あるんですか」

 山根は眉を上げた。

「彼はデータセンターで、データチェックの補助業務に就いていました。常勤ではありませんでしたが」

「J‐ADNI2に関与していた?」

「はい」

 コーポレート・コミュニケーション部の社員の話と違う。

「糖尿病の薬の治験に関わっていたと聞いています」

「まあ、そういうこともしていましたね。というか、彼が完全に任されている業務はなかったんです。もっと日本語が読めたら良かったんですが」

「達者じゃなかった?」

「いえ、日常的には勿論、問題ありません。ただ、ミミズがのたくったような文字を、苦手にしていたんです」

 浦瀬は山根を凝視する。

「パソコンの時代に、そんな文字、読めなくてもいいでしょう」

 山根は頭を振って、溜息を吐いた。

「そうでもないんです。治験をしてくれてる先生方は、症例報告書の記入欄を隅から隅までびっしりと細かい文字で埋めたがるんです。そのほとんどは、主観的な記述で統計処理ができないんで、要らないんですけどね。こっちは治験を依頼してる立場だし、先生は良かれと思ってしてくれてることだから、無碍にもできない。読める字で、もっと簡単に書いてくれなんて、言えないでしょ」

「そんなアナクロな先生がいるんですか」

「大抵の先生が、紙媒体にボールペンで記入してきますよ。私たちは、Webを活用してくれって、お願いしてるんですけど。ラジオボタンやチェックボックスへの単純な入力作業だけで済むから、先生方だって、だいぶ負担が減る筈です。でも、自分の意見を書き込みたいんだと思います。うちが欲しいのは、純粋なデータで、先生方に意見を求めてるわけじゃないのに」

「なるほど。それで、ワイズマンさんに任せられるものがなかった?」

「データチェックばかり、やらされていたようです」

「どんなミスをして、叱責されたんでしょう」

「良くは知りませんが……。あれだけ叱責されたとういことは、データ改竄を疑われることをしたんじゃないでしょうか」

 データ改竄。それと公安部が、どう結び付くのか判らない。

「ワイズマンさんは、公安部にマークされていたようです」

 山根の眼が大きくなる。

「まさか。あいつがテロリストだったって言うんですか」

「いえ、テロリストとは限らない。機密を持ち出したとか」

「機密?」

 山根は眉根を寄せ、怪訝そうに首を傾げる。心当たりはなさそうだ。

「ウラルのヒマワリの種と聞いて、思い当たるものがありますか」

「ワイズマンに良く貰いました」

「貰った?」

「たまに、ウラルに帰っていましたから。そのお土産です。おやつとして食べるんです。ほら、メジャーリーガーなんかも、ベンチで食べていたりするでしょ。ウラルでは、袋詰めにして売ってるようです」

「ワイズマンも、メジャーリーガーのように日常的に食べていたんですか」

「いましたね」

 清宮の上着にあったかけらは、ワイズマンの服から移ったものだろう。

 山根は不意に顔を曇らせ、俯いた。

「どうしました」

「いま、思い出したんですが、亡くなる少し前、彼はウラルに行ってるんです。帰って来てから、明らかに様子がおかしかった」

「ウラルに帰ったのは、どうしてですか」

「さあ。母方のお婆さんの葬儀に出るんだって言っていました。詳しくは聞いていません」

 ウラルか。自由に動けるとはいえ、さすがにウラルまでは行けない。

「ところで、どうしてクラインを市販しないんですか」

 山根はキョトンとした顔をする。

「製造販売が承認されているのに、未だに販売していない。それどころか、治験を続けている」

 山根は口を半開きにして、浦瀬を見つめる。

「認知症薬のことを言ってるんですか」

「はい」

「YМG‐0714。そうか。販売名はクラインに決まっていたのか。きっと、clear brain の意味でしょう。明晰な脳。社内でも、一部の人は首を捻っています。その医薬は、γセクレターゼ阻害薬ですからね。世界中の製薬会社が開発に取り組んでいる。うちも、二十年以上、集中的に取り組んできました。メガファーマに先んじて、うちが製造販売の承認を得たときには、全社挙って大騒ぎでした。なのに、市販しない。しかも、上層部は何も説明しない。きっと、公にできない不名誉な理由がある。そういう憶測が飛び交いました。市販間際になって、他社の特許を侵害していることが発覚したんじゃないかって、囁かれています。だとしたら、上層部の責任問題になってしまう。開発に莫大な費用がかかっていますからね。いまは、γセクレターゼ阻害薬の話はタブーです。誰だって、上司に睨まれたくありません」

 浦瀬は山根の眼をまじまじと見る。

「調べてもらえますか」

「えっ」

「どうして市販せず、治験を続けるのか」

「だから、タブーなんですって」

「義母が治験に参加するんです。危ない薬だったら、止めさせなきゃならない」

 山根は顔を顰める。

「いや、しかし……」

「義母に何かあったら、山際製薬を追及しますよ。逮捕者が出るかもしれない」

 山根は蒼褪めた。


 公安一課で盗聴した「石原次長」が何者なのか判ったのは、晩飯のときだった。小杉とふたりで入った定食屋で、ニュースが流れていた。

「……東京都港区元麻布のマンションの一室で、この部屋に住む内閣情報調査局審議官の五十歳の男性が浴室内で死亡しているのを、119番通報で駆けつけた消防隊員らが発見しました。関係者によると、死亡したのは石原耕介審議官。浴室には内側から目張りがされ、燃えた練炭が見つかっていることから、警視庁六本木署は自殺の可能性が高いとみて調べています……」

 小杉がどんぶりを持ったまま、首を捻ってテレビを見上げている。

「浦瀬さん、これって……」

 首を戻して、浦瀬を見る。大きく眼を見開いている。

「内閣審議官は、確か局次長級だ」

「それじゃ、公安一課の?」

 さらに眼を丸くして、白目がちになる。浦瀬は生姜焼きを頬張る。咀嚼しながら言う。

「石原次長だろうな」

「自殺って……」

 小杉は眉根を寄せる。思案するようにテーブルに眼を落とす。浦瀬は別の可能性を抱きながら、生姜焼きを飲み下す。

「あるいは……」

 言葉を濁すと、小杉が眼を上げた。鋭い眼つきで、浦瀬を見つめる。

「もし、そうなら、自分たちはとんでもなく大きなヤマを追ってるんじゃないですか。公安部が刑事部の手に負えないと言ったのは、あながち、間違っていないんじゃ?」

「かもな」溜息を吐く。「だからって、途中で抛り出すわけにはいかないが」

「はい」小杉はどんぶりを置いた。「行きますよね」

「どこへ」

「六本木署に」

「莫迦か。他人様の縄張りを荒らす気か」

「縄張りを荒らすんじゃありません。話を聞きに行くだけです」

「行くだけ無駄。迷惑だって追い返される」

 小杉は忽ち不満げな顔になる。

「昼寝してるくらいなら、多少は無駄なことしたって……」

 小杉はどんぶりを取り上げ、白米を口に掻き込んだ。


 六本木署は存外、好意的だった。

「監察医務院で行政解剖になりました。睡眠薬を飲んでいました」

 取調室には慣れているが、取り調べられる席には慣れていない。窓を背にしてドアに向かって座るのは初めてだ。取調室なんて、どこの署も大差ないのに、座る位置が違うだけで、居心地が悪い。

 だからといって、六本木署に文句を言うのは筋違いだと心得ている。どこの警察署にも来訪者を応接する部屋はない。だから、空いてる取調室で対応するのだ。それは、警視庁のみならず、全国の都道府県警察本部で当たり前のことになっている。

 浦瀬の隣に小杉の椅子が用意され、ふたりで並んで座った。六本木署の署員もふたりだ。浦瀬の前に座るのは、髪を七分分けにした眼の細い男。小杉の前には、オールバックで恰幅の良い男。ふたりとも浦瀬と同年代だろう。取調室に二対二で対面しているので、第三者が見たら奇異に思うかもしれない。

「バスルームだと聞きましたが、湯に浸かっていたんですか」

「いえ、服を着たまま、洗い場に寝転んでいました」

 七分分けにした方が答える。オールバックは机に眼を落としたままだ。受け答えは、もっぱら七分分けの領分らしい。

「動機は判ってるんですか」

「激務に疲れていたようです。最近は鬱気味だったそうです」

「誰がそう言ってるんですか」

「CIRAです。そう言えば、茅場署の浦瀬さんによろしくって言っていました」

「誰が?」

 驚いて見つめる。

「調査官です。小松崎由梨さんと言ったかな。大変な美人。ご存知なんでしょう」

 初めて耳にする名だった。面識があるとは思えない。公安一課に盗聴を仕掛けたから、警戒されているのかもしれない。わざわざ浦瀬の名を出したというのは、どういうことだろう。警告か、それとも挑発か。

「仕事で会っているかもしれませんね」適当に濁して、話を戻す。「遺書のようなものは?」

「ありましたよ。パソコンに」

「何て書いてあったんですか」

「一行だけ。疲れたので死にます、とありました」

 偽造はできるわけだ、と思いながら言う。

「CIRAの次長ともなれば、日ごろから並々ならぬ緊張感に晒されていたでしょうね」

「でしょうね。同じ公務員でも、高級官僚ともなれば、プレッシャーは我々の比ではないでしょう」

 浦瀬は反感を抱かれることを承知で、敢えて核心を突くことにした。

「他殺の可能性はありませんか」

 七分分けが眉を跳ね上げた。細い眼を精一杯大きくして浦瀬を見つめる。オールバックは背を起こした。

「他殺?」

「ええ」浦瀬は真顔で答える。

 相手は失笑した。首を振って言う。

「まさか、そんなことを聞くためにわざわざ来たんですか。CIRAの次長だから? 謀殺されたんだろうって? スパイ小説じゃあるまいし」

「事実は小説よりも奇なり、って言うじゃないですか」

 オールバックが背凭れに倒れ、眼を眇める。

「我々が他殺の徴候を見逃したと?」

「いえ、そういうわけでは」浦瀬は両手を机に伏せた。「判りました。正直に申し上げます。実は、うちの管内で似たような事件がありまして。私は自殺だって言ってるんですが、上司が堅物で。他殺の可能性が少しでも残っているのなら、殺しも視野に入れろって言うんです。それで、こちらではどうして自殺と断定されたのか、是非、ご意見を参考にさせていただきたいと思い、やって来た次第です」

 ふたりとも、不審を抱いたようだった。七分分けは、眉を寄せてじっと見つめる。オールバックは斜に構えて横目で睨む。浦瀬は、七分分けの眼を見つめ返して断定的に言う。

「可能性は容易にゼロにできない」

「そんなことはありません」不興顔で言う。

「言い切れますか」

「ええ」

「通報で消防隊員が駈け付けたんですね。通報者はどなたですか」

「奥さんです。塾に子どもを迎えに行って帰宅すると、亡くなっていたんです」

 玄関ドアを開けると、灯りが点いていた。土間には夫の靴があった。いつも帰りは深夜で、最近は庁舎に泊まり込むことも少なくなかったので、怪訝に思った。あなた、帰ったの? と奥に呼び掛けたが、返事がない。リビングに入っても姿が見えない。他の部屋を見て回っても、いない。トイレだろうかと思い、洗面室に入った。すると、バスルームのドアに張り紙がしてあった。

〈死んでいます。入らないでください〉

 慌ててドアを開けた。夫が頭を向こうにして、横たわっていた。傍らには七輪があり、ガムテープが転がっていた。

「内側から目張りがしてありました。自殺で間違いありません」

「目張りしたドアなら、開けるのに、苦労したでしょうね」

 七分分けは眉を寄せ、首を傾げる。

「そういうことは……。火事場の何とかって言うでしょ」

 ガムテープの目張りくらい、いくらでも偽装できるだろう。いまとなっては、しっかり目張りされていたのかどうか怪しい。そうだったとしても、掃除機を使えば、それくらいのことはできる。

「エアコンはどうでしたか」

「エアコン?」

「運転していましたか」

 七分分けは眉を顰める。真意が判らないという顔だ。部屋は高温ではなかったのだろう。高温になっていたら、すぐにそう言う。

 CIRAは浦瀬を調べているらしい。それを敢えて六本木署の署員に告げた。警告か、挑発か。いずれにしろ、乗り込んでも、門前払いにされることはないだろう。

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