第10話
「鑑取り班、報告せよ」
清澄署刑事課長が声を張り上げた。捜査員のひとりが立ち上がる。
「マル害が接触した者は、いまだ不明」
「何をやってるんだ」課長が怒鳴る。
「仕方ない」管理官が静かな声で言う。「宝田警部補と清宮巡査部長が接触した者を割り出すということは、取りも直さず、公安部外事第一課が何をしているのか調べるということだ。普段から、身を潜めて対象者に近付く者たちだ。ふたりだって、人目を避けて対象者に接触していたのだろう。難航するのは当然だ」
課長は苦々しげに口の端を歪める。
「公安部が何も出してくれないから」
「それは期待するだけ無駄だ」
「はい」管理官に向かって頷く。
「次の報告を」
管理官に先を促され、課長が怒鳴る。
「次」
「種子の鑑定結果が出ました」
清宮の上着の繊維から、植物の種子のかけらが採取されていた。3mm角強の組織片で、DNA検査に耐えうるものだった。早速これを科捜研に回していた。
「植物のDNAを調べれば、おおよその山地を割り出すことができます。清宮巡査部長の上着にあった種子片は、7割以上の確率で、ウラル共和国のヒマワリの種子と同定可能とのことです」
「ウラル?」管理官は眉を顰めた。
浦瀬はウラル共和国のことを詳しくは知らない。日本からは遠く離れた東欧の国で、仮想敵国でないことくらいは知っている。外事課が張り付く相手が、ウラル人にいるのだろうか。
捜査員が続ける。
「日本とウラルは、入国には互いにビザが必要で、活発な外交関係はありません。わが国は、ОDA円借款契約を締結し、ウラルに一千億円を超える貸し付けを行っていますが、政治的、経済的なつながりが強いとは言えません」
「ウラルといえば、いま、シリア難民が原因不明の死に方をしてるって、騒がれています」
課長の言葉に、管理官が首を傾げる。
「外事第一課は、それを探っていたんだろうか」
捜査員は既にふたりの渡航記録を調べていた。
「宝田警部補も清宮巡査部長も、ウラルには入国していません。それで、国内で、ウラル人が関わった事件・事故の記録を虱潰しにしました」
灯りが落ちて、スクリーンに映像が出る。
「新宿駅のホームです」
通勤ラッシュだろう。溢れ出さんばかりの人でごった返している。
「この男に注目していてください」
レーザーポインターが、ホームの最前列にいる男を指し示す。画面の端に電車が入線して来た。レーザーポインターの男の右隣と真後ろにいた者が、その場を離れ、人混みに分け入った。と、男が線路に落ち、電車が通り過ぎた。呆気にとられるくらい、あっという間の出来事だった。
「もう一度」
同じ場面の再生が始まる。浦瀬は転落する男を凝視する。不意に、右と後ろの男がその場を離れ、列が詰められる。男の身体が前傾し、線路に消える。電車が通り過ぎる。
「押し出されて落ちたのか」
捜査員のひとりが声を上げた。
「意識を失って倒れたようにも見える」
「転落したのはケビン・ワイズマンというウラル人です。即死でした。画像解析したところ、ワイズマンの後ろにいて離れて行ったのが宝田警部補で、右隣から離れて行ったのが清宮巡査部長である確率が高いと判りました」
どよめきが起こった。
「まさか、ふたりが何か仕掛けたのか」
「ワイズマンというのは、何者なんだ」
管理官が捜査員を見つめる。
「鉄警隊の捜査資料によりますと……」
「待て、鉄警隊が捜査したのか」
「はい。事故として処理しています」
管理官は頷いて言う。
「よし、続けろ」
「ワイズマンは留学生として来日し、大学卒業前に在留資格を変更しています。日本で就職していました」
「就職先は?」
「山際製薬です」
「実はそれは隠れ蓑で、ウラルの諜報だったとか」
捜査員のひとりが冗談めかして言う。
「おいおい、ウラルの諜報と外事課が、水面下で衝突してるって言うのか」
それをきっかけにして、それぞれが思い思いのことを口にし始めた。
「だったら、新海はどういう立場だ」
「素性が判らないというのが、怪しいな」
「新海って、本当に日本人なのか」
「ウラルの諜報だって言うのか」
「公安部のふたりを殺害したのが新海なら、そういうことだろ」
浦瀬は、茅場町のホテルの事件との関連について考えを巡らす。マル害とは別に、605号室にいた者がいる。捜査会議の前に、茅場署に電話して、課長にそれを告げていた。
「何を調べている。清澄署の応援に行ってるんだぞ」
「もうひとり、いたんですよ」
「バスタブで死んでいることに気付かず、部屋を出て行った者がいるってだけだろ。そんなことで、殺しなんて騒いでいたら、不審死はみんな殺しになっちまう。それに、あれはもう片がついた。心配しないで、そっちで役に立って来い」
どうやら、清澄署にいる間に、行旅死亡人で処理されてしまったようだ。
浦瀬は舌打ちをした。咽喉の小骨を取る機会を逸した。もう手は出せない。
公安第一課は、木下和馬は既に退職して、その後のことには一切関知していないと言い張るだろう。いまごろはもう、WANシステムや指掌紋検索システムから木下の痕跡を消してしまっているかもしれない。清澄署にいる間に、手掛かりが次々に消えて行く。
――茅場町も、ウラルだろうか。
木下のヤマにもウラル人が絡んでいれば、清澄署のヤマを追う先に、茅場町の真相が見えるかもしれない。
浦瀬は、ウラル人の事件・事故のカメラ映像をチェックしている者たちに、野口清作のスチル写真を配布しようと思った。大して期待はしていない。野口は監視カメラに留意している。人相が判らない。
聞き込みを抜け出して、義母の様子を見に行くことにした。先日、佑香が言った新薬の件が気になっていた。どのみち、昼間の聞き込みは成果が少ない。効率の悪いことはしたくないので、昼寝をして、夜に賭けることが多い。義母のために、昼寝を削ったっていい。
「起きてください」
小杉の声で眼を醒ました。小杉に運転させ、眠ってしまっていた。
「着きましたよ」
サイドウインドーの外に眼を向けると、義母の家の前だった。
「夜中に歩きまわってたら、昼間は眠くってしょうがない」
「夜、歩き回ってるのは僕も一緒です」
「新入りは寝なくていいんだよ」
自分でも理不尽だと思うことを言って、車を降りた。
玄関のドアを開けると、義母がトイレの前に立っていた。泣きそうな顔で、足踏みをしている。恨めしそうにトイレのドアを見て、さらに激しく足踏みをする。浦瀬は慌てて廊下に上がって、トイレのドアを開けてやった。義母はトイレに飛び込んだ。そのまま便座に座られても困る。浦瀬も慌てて中に入って、スラックスとパンツを脱がせた。
「おい、佑香」
大声で怒鳴る。ドタドタト階段を降りる足音が聞こえた。
「何、どうしたの」
背中で、佑香が言う。
「お義母さん、トイレに入れなくて困ってた」
「あっ、ごめんなさい。いいわ、私が代わるから。出て」
トイレから出ると、後を佑香に任せて、リビングに向かった。
佑香がリビングに顔を出したのは、それから十分ほどしてからだった。向かいのソファに座って、溜息を吐いた。顔は疲れ切っていて、眼には隈ができている。
「最近、どんどん酷くなるみたい。トイレのドアも開けられないなんて……。話には聞いてたけど、自分の母親がね……」
佑香は頭を振って、両手で顔を覆った。
「俺が来なかったら、トイレの前で失禁していたんじゃないか」
佑香を責めるつもりはなかったが、彼女はそう受け取ったらしい。
「四六時中、そばについてろって言うの。できないわよ、そんなこと。いまだって、洗濯物を干してたのよ。誰が家事をしてると思ってるの」
泣き出すのを堪える声だった。
「そんなつもりで言ったんじゃない。会う度に症状が進行してる気がして、驚いてるんだ」
佑香は顔を上げ、溜息を漏らす。
「たまに来るだけの人は、みんなそう言うわ。毎日一緒にいると、ずっと昔からこうだったんじゃないかって気がしてくる」
佑香の苦労は判る。だが、浦瀬にできることは、ほとんどない。殊に、捜査本部が立っているときは、暇がない。
「お義母さんは? 大丈夫なのか」
義母の部屋の方を見遣って訊く。
「寝たわ」
「新薬で、進行を抑えられそうなのか」
薬の件を切り出す。
「どうかしら。いずれにしても、いまの薬には効果が見られない」
「それじゃ、治験に参加するのか」
「試してもいいと思う」
「怪しんでるようだったけど?」
「怪しむというか、変わったことをするなって感じ。しかし、逆に言えば、それだけ安全性に留意してるってことかも」
「お前がそう言うのなら、そうなんだろ」
「刑事の勘?」苦笑しながら訊く。
「まあな」
いまの義母の姿は見ていられないと思った。少しでも症状が軽快する可能性があるのなら、試してみるべきだと思ったのは、事実だ。
「誰だ。財布、盗ったの」
突然、怒鳴り声がした。
佑香が慌てて立ち上がり、ドアに向かう。
義母の症状は、浦瀬が知らぬ間に、深刻になっている。自分が介護をしているわけでもないのに、気が滅入る。新薬を試すべきだ。強くそう思う。
――薬。
義母が閃きをくれた。ケビン・ワイズマンは山際製薬にいたことを思い出した。浦瀬の任務は地取りだ。山際製薬に行くのは、浦瀬のすることではない。しかし、話を聞いてみたくなった。どのみち、応援に来ているだけだ。その分、自由に動ける。
「先ほども、警察の方が見えましたが」
山際製薬のコーポレート・コミュニケーション部の社員は、浦瀬の名刺を見て、眉を顰めた。
ホテルのラウンジにいるかのようなソファ。壁面いっぱいに広がる高層階の景観。外界から切り取られたかのような遮音性。国内最大手の製薬会社の応接室は、浦瀬にとっては、むしろ居心地の悪いものだった。
「申し訳ありません。我々警察は、同じことを何度も訊くんです。それが仕事ですから」
「そうですか」
不審に思う様子はない。浦瀬の名刺をテーブルに置き、小杉の名刺を並べる。
「ワイズマンさんは、どうして御社を志望したんでしょうか」
名刺から顔を上げて答える。
「大学で薬学を専攻していたからでしょう。弊社は、世界各地にグループ会社がありますから、留学生の採用を積極的に行っています」
「どんな社員でしたか」
「とても優秀だったと聞いています」
「どんな業務に携わっていたんですか」
「臨床開発です。治験の進行管理だと思ってください」
「ワイズマンさんが希望した部署ですか」
「ええ。医薬開発部GCP推進グループです」
「どんな薬を担当していたんですか」
「糖尿病です。第Ⅱ相まで進んでいました」
「公安部がワイズマンさんをマークしていたようです。心当たりはありますか」
相手は細い眼を見開いた。浦瀬をまじまじと見る。
「先に来た刑事に訊かれませんでしたか」
「いえ。いま初めて」
管理官たちは、マル害が公安部だということを、秘匿しておきたいのかもしれない。聞き込みに来た連中は、不用意にそれを口にするなと、釘を刺されていたのだろう。だが、浦瀬はお構いなしに訊く。
「公安部の者がここにも来ていた筈です」
「え」顔が引き攣る。
「ワイズマンをウラルのスパイだと疑ったことはありますか」
「ええっ」更に頬を引き攣らせる。「そんなことは……」
「治験に関わる立場だったら、その情報を流すことは可能なんじゃないですか」
社員は、珍しいものを見るような眼で浦瀬を見つめる。
「それを流して、どうなるんですか」
予想しない返答だった。新薬開発は、製薬会社の命運を握る大事業の筈だ。
「そのデータを使って、承認申請できるじゃないですか。御社より早く、余所の会社が市販してしまったら、とても困るでしょ」
「ああ。そういうことですか」表情を緩める。「新薬スパイを疑っているんですね。旧厚生省の時代は、技官に収賄し、申請資料を盗み出して、参考にしていた会社がありました。遠い昔のことです。いまは、PМDAが審査しています。知ってますか。独立行政法人です。医薬品医療機器総合機構。盗み出したデータで、通用なんてしません。PМDAの審査は、そんなに甘くない。面接で、治験データについてきちんと説明できるのは、現にそれを実施した製薬会社だけでしょう。外部専門家も加わりますから、かつてのような構造汚職なんて起きません。技官に収賄してどうにかなったなんて、昔の話です」
「それじゃ、治験データが流出しても困らないと?」
「漏れて困るのは治験より、もっと前の段階のものです。化合物の情報です。薬効、安全性の両面で最適な化合物を発見すること。新薬開発にとって最も重要なのがそれです。その情報が漏れると困ります」
「なら、それを盗み出したのかもしれない」
社員は首を振る。
「ワイズマンに研究所に出入りする権限はありません。それに、研究所はここから離れています」
「どこにあるんですか」
「山梨県北杜市です」
「山梨県……」
「ええ。弊社は、大正時代に日本住血吸虫症の臨床試験をしていたんです。甲府盆地に研究所があるのは、その名残です」
「住血吸虫症?」
「ご存じありませんか。弊社の貢献もあって、日本では完全に撲滅されましたからね。ご存知ない方のほうが多いかもしれない。以前は甲府盆地の風土病でした。水田で作業すると、寄生虫が皮膚から体内に侵入して、内臓に寄生するんです。重い肝硬変を発症したり、大腸がんを発症して、死に至ることもありました」
「そんな寄生虫がいたなんて……。知らなかった」
小杉が驚いた様子で言う。
「世界的には、いまでも珍しくありません。中国、フィリピン、インドネシアでは、毎年数万人規模で日本住血吸虫症の新規の感染者が出ています。アフリカや中近東では、ビルハルツ住血吸虫症やマンソン住血吸虫症が知られています。これらの罹患者はヨーロッパでも少なくないようです。世界で、二億三千万人以上の人が、住血吸虫症の治療を必要としています。弊社は逸早く、これに取り組み、撲滅に寄与して……」
浦瀬は手を上げ、話を遮った。放っておいたら、住血吸虫症の話を延々とされそうだ。山際の自慢話を聞きに来たわけではない。
「研究所の人間と共謀すれば、化合物の情報を持ち出せるんじゃないですか」
社員は鬱陶しげに眉を顰める。
「心配いりません。すぐに特許を取得しますから」
「特許? ああ。なるほど。それで知的財産として守られるわけだ。それなら、誰も使えないわけですね」
社員は首を振る。
「そうでもないんです。取得から一年半経つと、特許は公示されますから、化合物の情報は誰でも閲覧できます。それを元にして、他社が良く似た化合物で特許を申請します。実は、よく似た医薬がほぼ同時期に市販されるのは、珍しいことではありません」
「ジェネリックですか」
「違います。ジェネリックは、先発医薬品の特許が切れてから市販されるものです。大抵は十年後です。私が言っているのは、ゾロ新薬のことです。化合物は公示されますから、それを参考にすれば、少しだけ構造を変えて、別の化合物を合成することができます。他社は、それで新たに特許を取得し、新薬として売り出せます」
「それじゃ、特許の意味がない」
社員は眉根を寄せる。
「お互い様という側面もありますから。科学的にはほぼ同じですが、法律的には新規のものなんです」
「なら、ワイズマンさんが新薬開発のデータを外部に流したとしても、ゾロ新薬が生まれるのが、少し早まるだけということですか」
「そういうことになります」
公安部は何故、ワイズマンに近付いたのだろう。ワイズマンはきっと、何かを外に持ち出した。新薬の情報とは限らない。
「ワイズマンさんには、御社の機密に接触する機会があったんじゃありませんか」
社員はおもむろに首を捻った。
「さあ。ないと思いますが」
「でも」いままで黙って話を聞いていた小杉が口を挟む。「治験のデータだって、個人情報だから、機密の一種じゃないですか」
「いいえ。個人の特定はできませんから、個人情報ではありません。CRA、臨床開発モニターというんですが、病院から治験データを回収して来る者たちがいます。彼らも何処の誰のデータなのか知りません」
小杉が仏頂面で腕を組む。小杉なりに、どんな機密があるのか、必死で考えを巡らせているようだ。浦瀬は社員の顔を見つめた。
「ウラルのヒマワリの種と聞いて、思い当たるものはありませんか」
「ウラルですか。ヒマワリの栽培が盛んだと聞きますが……。それが何か」
「社内の何処かにありませんか」
「ヒマワリが、ですか」
「ええ。ウラルから持ち込んだもの」
「さあ、どうでしょう。弊社には薬用植物園もありますが、そこで栽培しているかどうか。しかし、あればすぐに判るでしょう。海外から持ち込んだものなら、検疫を受けたときの記録が残っていますから。植物園に聞いてみましょうか」
「お願いします」
社員は立ち上がって、壁際に行った。そこに小さな机があり、電話機が載っている。受話器を取り上げ、ボタンを押した。
「本社の……」
手短に用件を話す。
「……。そうですか。お願いします」
電話を切って、戻って来た。
「一覧には載っていないそうですが、詳しく調べてくれるそうです」
「ありがとうございます」
小杉は、まだ腕を組んで考え事をしていた。その腕を叩く。
「引き上げるぞ」
「はい」
社員が出入口まで行き、ドアを開ける。ノブに手を掛けたまま、浦瀬たちを見た。浦瀬は小杉の先に立って、出入口に向かう。廊下に出ようとして、突然思い出して、社員を振り向く。社員は、まだ何か、と言うように眼を丸くした。
「第Ⅲ・5相試験なんてするんですか」
「は?」眼を瞬く。
佑香に聞いた話をした。社員は不審げに首を捻る。
「市販後に、実際に新薬を投与した患者さんの調査をすることはあります」
「市販していません」
「市販しないのなら、何のために承認申請したのか判らない。いずれ市販するにしても、治験を続けていたら、それだけ無駄な開発費を使うことになる。聞いたことありませんね」
「認知症の薬なんです」
社員の瞳孔が収斂した。浦瀬はそれを見逃さなかった。
「思い当たるものがありますか」
「いえ。何も」
言下に否定した。浦瀬に疑念を抱かせるには、充分過ぎるほど、不自然だった。胸騒ぎがした。
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