第2話

浦瀬雄哉はまどろんでいた。路駐した捜査車両の助手席。背凭れを倒して睡魔に身を委ねようとする。それを運転席の小杉司朗が邪魔する。

「朝からさぼっていて、いいんでしょうか」

 まだ二十代で、地域課から刑事課に移って日が浅い。仕事には緩急が必要だということを誰にも教わらなかったらしい。

「署に戻りたいんですが」

「おまえだけ帰すわけにはいかないだろ。俺だって戻らなきゃいけなくなる」

「いいじゃないですか、戻れば。浦瀬さんだって、報告書がたまってる筈です」

 厭なものを思い出させてくれる。苦々しく思っていると、内ポケットでスマホが震えた。抜き出すと、佑香の名前。妻だ。

 義母が認知症になった。まだらボケのときに区の調査員がやって来た。季節や時間が判らず、自分の名前すら言えないときがあるのに、調査員の質問事項には、たまたまほとんど正解した。結果、区は要支援の認定しかしなかった。

 要支援! 介護保険でデイケアサービスを使えるのは、せいぜい、週二回だ。使える内はまだいい。近々、要支援認定じゃ、介護保険が使えなくなる。

 それで、佑香は母親を介護するために薬剤師を辞め、実家に帰った。たまに寄越す電話は、決まって難詰する口調だ。出るのを躊躇うが、小杉のぼやきを聞くのも佑香の批難を聞くのも、気が滅入るのは一緒だと思って、タップする。

「嫌いな人がいるらしいの」

 いきなり、何の話だ。

「それで、デイサービスに行きたくないって」

 義母が愚図るのは珍しくない。それで、いちいち電話を寄越されても、困る。

「説得しろよ」

「だって、怒りだすのよ。私のこと、打つんだから」

「そんなこと言われたって、俺にどうしろって言うんだ」

「どうもしないわよ」

 佑香は怒鳴って、プツっと電話を切った。

 舌打ちして、ポケットにスマホを滑らせる。と、今度は車載無線機が受信した。

「通信司令センターより各局、茅場町にて異状死体発見のマル電。付近を警邏中の者は直ちに現急せよ」

 小杉が浦瀬を振り向く。

「うちの管内です」

 惰眠は諦めるしかない。


 茅場町のビジネスホテル。605五号室。エアコンはオフになっている。冬だというのに、どうしてこんなにも暑いのか。

 浦瀬は訝りながら、バスルームを覗き込んでいた。温水便座の手前に、検視官と監察医がいる。狭い場所に割り込んで、彼らの邪魔をするわけにはいかない。検視が済むまで、浦瀬の出番はない。小杉はフロントで、従業員に話を聞いている。

「外傷はないようですな」

 監察医が腰を屈めて眼鏡ブリッジを押し上げる。先ほど、銀縁眼鏡を黒縁眼鏡に替えたのは、近眼鏡を老眼鏡に替えたのだろう。コートはライティングデスクの椅子に掛け、白衣に着替えている。

 遺体は湯に浸かっていた。右腕をバスタブの外に垂らして、頭を向こう側の縁に載せ、顎を天井に突き出している。仰け反って死んだのだ。いまは、ふたりの陰になっているので、遺体の表情は見えない。監察医が来る前に、覗き見たときは、思わず眼を背けたくなった。苦痛に歪んだ顔。反り返った背中。

「湯に浸かっていたせいで、死後硬直は早かったに違いない。昨晩、一時より後に死んだってことはないだろうな」

 検視官が、監察医の隣で腕を組む。

「急性心筋梗塞でしょうか」

 検視官はコートも上着も脱いでいる。浦瀬が預かって、ライティングデスクに畳んだ。

 遺体の観察を続けながら、監察医が応える。

「恐らく、虚血性心疾患。間違いないでしょう。ちょっと血液を採取しても宜しいでしょうか」

「どうぞ」

 監察医は腰を伸ばして検視官を見た。口元に笑みを浮かべている。

「死体損壊だなんて言わないでくださいよ」

 検視官は眉を顰める。

「そんなに斬るんですか」

 検視官に真顔で返されて、監察医は笑みを引っ込めた。軽口を叩いたことを悔いたようだ。浦瀬に向かって、仏頂面で首を伸ばす。

「カバンを取ってくれ」

 浦瀬はバスルームの前を離れ、ライティングデスクに行く。ダレスバッグを取り上げ、バスルームに戻る。

「先生、お持ちしました」

 バッグを両手で抱えて差し出す。それを検視官が受け取って、監察医の前に置いた。

 監察医は手袋を洗面ボウルに投げ込んだ。バッグに屈んで、新しい手袋を取り出す。手袋を嵌めてバッグを漁る。

 長方形の箱を取り出した。側面に「真空採血管」の文字が見える。中から食指大の小さな容器を摘まみ上げ、箱をバッグに戻す。もう一度バッグを漁って、今度は飾り気のない小さな白い箱を取り出した。その蓋を開け、アルミパックを取り出す。

 検視は手を振って、首筋に風を送りこんでいる。

「こんなに暑いなんて、妙だな」

 監察医は、アルミパックを開けて、針とホルダーを取り出している。

「遺体の発見時には、エアコンが入っていたんでしょう。きっと、従業員が切ったんですよ。後で聞いてごらんなさい」

 ホルダーに針を取り付ける。

 検視官は監察医を見下ろした。

「冬に風呂に入ってて、虚血性心疾患をおこすことはよくある。心筋が壊死して、心筋梗塞になり、死亡することもよくある。そんな現場に何度も立ち会った」

「でしょうね」

 監察医は、針を装着したホルダーを採血管に取り付けている。

「原因は寒暖差だ。寒いところにいて、急に熱い湯に浸かるからだ。風呂に入った途端に、血圧と心拍数が急上昇。高齢者や、肥満の場合、心臓に大きな負担がかかって死ぬことになる」

「その通り」

 監察医は、バッグからアルミパックを取り出して、封を破る。中から消毒布を取り出して立ち上がった。検視官は訝るように眉根を寄せている。

「だが、この部屋は暑いくらいだ。寒暖差は問題にならない」

 監察医は遺体の首筋に消毒布を擦りつけながら、応える。

「入浴直前にエアコンの温度を高く設定したのなら、説明がつくでしょ。入浴前は寒かったんです。本人は死んでしまって、その間に室温が高くなったんです」

「まあ、そういうこともあるか。しかし、ホトケは高齢じゃない。三十から四十といったところか。肥満じゃないし、むしろ痩せ型だ」

「高齢者や肥満者だけが入浴中に死ぬわけじゃありません。若くて壮健でも、死ぬ人はいます。それに、寒暖差だけが原因になるわけじゃありません」

 教師のような顔つきで、消毒布を洗面ボールに投げ込む。

「風呂の温度?」

「ええ。入浴の発汗で、血液は格段に粘り気を増します。赤血球や血小板などがお互いにくっつこうとします。それが血栓となって、血管を詰まらせるんです。若くたって、高血圧の人はいます。発症リスクは高い」

 採血管を持ち替えて、消毒した首筋に針を刺す。

「それは判るが……」

 検視官は、それでも納得がいかないというように、首を傾げる。監察医は針を引き抜いて、採血管に眼を凝らしている。満足げに頷くと、検視官を振り返った。

「リーダーを準備してもらえますか」

「ああ」

 検視官は面倒臭そうにダレスバッグに屈みこんだ。中を引っ掻き回して、分析装置とテストストリップを取り出す。分析装置にテストストリップを挿し込んで、立ち上がり、それを洗面台に置いた。

 監察医は採血管のホルダーを外して、ピペットで検体血液を吸い上げている。定量を吸い上げると、洗面台に向き直った。ピペットの先をテストスリップに当て、検体血液を滴下する。そして、分析装置のチェッカーのスイッチを押した。

「十五分、待ってください」

 腕時計を見ながら言う。

 浦瀬も腕時計を見た。

「それじゃ、その間に、発見者に話を聞いて来ます」

 浦瀬はドアに向かった。ノブを掴んでドアを押すと、涼やかな空気が頬に触れた。廊下に出て、ドアを閉めると、少し寒いくらいだ。

 エレヴェーターで一階に降りた。ロビーにもフロントにも人影がない。カウンターに行って、ベルを鳴らす。

 すぐに、小杉が顔を出した。小杉の後から髪を撫でつけた男が出て来た。現着したとき、支配人と書かれた名刺を貰った。浦瀬を見て、不安げに眉を顰める。

「あの……ご遺体はこの後、どうしたら宜しいのでしょう」怖ず怖ずと訊く。

「検視の結果次第です」

「はあ……」浮かない顔で溜息。

「何か、困ったことでも?」

「いえ、営業に差し障りがあるだろうと思いまして……」

「お気の毒です」

 素っ気ない口調で言った。上っ面の慰めを言う奴だと思われたかもしれない。実際、大して同情していなかった。同情するとしたら、遺族に対してだ。死体が出る度に、関係者全員に同情していたら、捜査にならない。

 浦瀬は、相手を見据えた。

「ところで、部屋がやけに暑い。どうしてでしょう」

「部屋に入ったときには、エアコンがフル回転していたんです。あまりに暑いのでびっくりしました。それでエアコンのスイッチを切りました。故障しても困りますし、それで止めたんです。いけなかったでしょうか」

「いえ」

 監察医の予測した通りだ。

「遺体を発見したときの状況について、詳しく教えていただけますか」

 支配人は小杉を見た。既に話したと言いたいのだろう。しかし小杉が、突き放すような口振りで言う。

「話してください」

「はあ」

 溜息とも返事ともつかぬ声で言う。もう一度、ちらっと小杉を見て話し出した。

 死んだ客は、チェックアウトの時間を過ぎても、フロントに現れなかった。五分待って、内線を入れた。誰も出なかったので、一旦切って、さらに五分後、内線を入れた。それにも出なかったので、マスターキーを持って、部屋に行った。ドアをノックしても、応答がない。それで、鍵を開けて中に入った。

「ベッドに服を脱いであったので、バスルームだろうと思いました。それで、外からお名前をお呼びしました。しかし、返事がない。もしかしたら、入浴中に変事があったのかもしれないと思って、ドアを開けました」

 それで、バスタブに客を見つけた。ひと眼で死んでいることが判ったので、救急車は呼ばなかった。110番通報だけした。

「チェックインしたのは、何時ごろですか」

「昨晩、九時過ぎです」

「宿泊者名簿は?」

「勿論、あります」

「見せてもらえますか」

 支配人は、事務室に消えた。すぐに紙片を持って戻ってきた。それをカウンターに置く。

 定規を使ったような几帳面な文字。氏名欄には野口清作、住所欄には山口県下関市1973‐9‐21とある。職業、年齢、性別は空欄。到着年月日及び出発年月日には、氏名・住所と異なる筆跡で、昨日と今日の日付。これは、従業員が後から書き込んだものだろう。前宿泊地及び行先地も空欄だ。

 浦瀬は胸騒ぎを覚えていた。筆跡を消そうとするかのような直線的な文字。千円札の肖像の人物の旧名。偽名を疑いたくなる。疑い出すと、やはり室温が気になる。

「エアコンの設定温度は何度でしたか」

「三十度、最高温度に設定してありました。しかし、通常はあんなに暑くなることはないんですよ。サーモオフが働きますから。どうして運転し続けていたのか」

 支配人は首を捻った。

 浦瀬の胸騒ぎは大きくなる。小杉を見つめた。小杉も怪訝そうに首を傾げている。

「そろそろ先生が結論を出す」

 顎を振って、階上に誘う。小杉は頷いて、カウンターから出て来た。

 エレヴェーターに乗ると、小杉は口を開いた。

「サーモオフが働かないって、どういうことでしょう」

「気になるか」

「はい」

「なら、確認しろ。業者に点検させる筈だ。その結果を聴取するんだ」

「承知しました」

「忘れるなよ」

「はい」鹿爪らしい顔で応えた。

 605号室に戻ると、監察医は帰り支度をしていた。

「どうでした」

 浦瀬が訊くと、コートに腕を通しながら眼を向けてきた。銀縁の眼鏡に戻している。

「陽性だった」

 心筋トロポニンTを検出したということだ。言うまでもない、当然だという口吻で、それを言う。心筋の傷害なしに、血液中にトロポニンが出ることはない。

「心筋梗塞で決まりですか」

 検視官が腰に手を当てて訊く。

「ああ。そうだ」

 監察医は浦瀬の前まで来て、立ち止まる。

「検案書を書いておく。いつでも取りに来なさい」

 監察医は挨拶代わりに片手を上げて、出て行った。それを見送って、検視官を見る。検視官の顔は浮かなかった。

「何か気に入らないことがありますか」

「ある。まず、この暑さだ」

 検視官は窓の上に眼を向ける。エアコンを取り付けてある。浦瀬もそれを見上げる。

「確かに気になります。支配人も合点がいかないようです。通常は、サーモオフが働くそうです」

 検視官は頷いて、視線を浦瀬に戻す。

「次に遺体の位置だ」

「位置?」

 言わんとするところが判らず、訊き返す。

「自分で確かめるといい」

 浦瀬は訝りながらバスルームに入った。小杉も後からついて来た。遺体の顔を覗き込む。仕事でなかったら、絶対に見たくない形相だ。口がねじ曲がって、鼻梁の上に皺を寄せている。そのまま死後硬直し、黄土色に変色している。

「位置って、どういうことでしょう」

 小杉が遺体を見下ろして言う。まだ、死体と向き合うことに慣れていない筈だ。なのに、変死体を前に平然としている。たまに、こういう心臓の強い者がいる。

 浦瀬は、遺体の顔から胸、腹へと視線を移していった。腿、脛、足を見る。足はバスタブの端から離れている。身長はさして高くない。百七十センチくらいか。バスタブの内面に眼を向ける。白いFRPがのっぺりとしている。それを見て、ハッとした。頭顔部に眼を戻す。遺体の脚の間を見る。

「何か、判ったんですか」小杉が訊く。

「ああ」

 顎をしゃくって、外に出す。小杉は、遺体をちらっと見てバスルームを出る。後に続いた。

「判ったか」

 検視官が険しい顔で腕を組んでいる。

「はい。給湯口に背中をつけています」

「うん」表情を変えずに頷く。

「排水口が見当たりません。恐らく、尻の下です」

「そうだ。そんなとこにいたら、背中も尻も痛くって仕方ない」

 検視官は何を考えているのだろう。浦瀬は検視官を見つめて訊ねる。

「内因死ではないと?」

「湯に浸かる人間を心臓発作に見せかけて殺害する方法はある。50mAの電流を、一・七秒間流すだけでいい。心室細動を起こし、心停止する。50mAじゃ、感電による火傷痕は残らない。監察医は心筋梗塞と見間違える」

「他殺を疑っていらっしゃる?」

 検視官は足元に視線を落として、唸った。

「他殺だとしたら、また別の疑問が湧く。内因死を偽装するほど周到な者が、エアコンを停止させないなんてことがあるだろうか。給湯口に背中がつく位置に座らせるだろうか。今度は、敢えて他殺を疑わせる痕跡を残しているのが気に入らなくなる」

「それなら、やはり、内因死なんじゃないですか」

 小杉が言った。浦瀬は同意する気になれなかった。

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