裏庭日記/孤独のわけまえ

中田満帆

第1話 長距離ランナーの孤独


  これこそが人々が恩寵というような言葉で語るものなのだ。

                   ジェイムズ・サリス


  夜の蠅の大き目玉にわれひとり

            西東三鬼



   *


 「ニュー・カラーの写真家が好きです。旅の匂いがしてるみたいで」──社交辞令でわたしはいった。たしかに写真もそのジャンルも好きだ。でも、だれにもいいたくはなかった。あの老人のために自尊心を切って渡したようなものだ。「パラダイス・ギグ」での個展と演奏はあまりいいものじゃなかった。聴き手の求めるものがはっきりとしなかったのもある。しかしそれよりも病んでしまうのはかれらが、かの女らが、ずっとアクションを求めてるということだった。あいにくわたしはパフォーマーじゃない。電気椅子はどこにもなかった。踊るためのフロアに大版写真と楽器をひろげ、わたしたちは演奏したんだ。ひとをびっくりさせたいとか、悲鳴をあげさせたいとか、そんなものは手放した。

 いまは夜。会場の撤収はおわり。なにもすることがないなんてうそだ。歌詞を書き、コラムのアウトラインを仕上げる。もちろんこの小説もそうだ。物語は放擲された。でもひとびとは愛し合う、憎み合う、あるいは孤立する。長距離運転の滝田がハミングしてる。フィル・セルフェイのカセットにむかって。かれはドラムの国に棲んでる。無国籍だが血筋は正しい。正真正銘のブルテリア(人型)。

 「おれらのパラダイスはどこだ?」

 滝田はパブに行きたがってた。それでは金がかさむ。でもかれは我慢なんかしない。「おれらのパラダイスはどこだ?」。わるいがいわせてもらった。「よそ者にパラダイスはない!」。地上を雲が流れる。冬の地平をずっとわたしたちは走る。わたしはこんなところまでやってきたというのに、日本での一夜が忘れられないでいた。詩人で写真家の友人が、ずっとカフェイン錠を呑んでいた。エナジードリンクとともに。それで死ぬんだっていって。でもかれにそんなことができるようにはおもえなかった。わたしが廊下にでると、かれの嘔吐が聞えた。旅の支度が迫っていた。ノートをいちまいちぎってペンを走らせた。もしかしたらかれにイメージを与えられるかも知れない。そうすれば死なずに済むだろう。

 《裏庭日記、もしくは孤独のわけまえ》──おもいついた、たったそれだけを書いてドアに挟んだ。滝田が待っていて、スティックをふっていた。そして笑う。

  徒足(むだあし)だったな。

  あいつは死なねえよ。

 たしかにそうかもしれない。でもわたしにできるのはあれだけだった。かれがなんとかして作品をつくってくれるのをただただおもいながら、アメリカの夜を走ってる。


   *


 小雨が降ってる。'80年代の終わりだ。3つになるぼくを父は郷里へはじめて連れてった。豚のくそがうずたかくされ、台車で運ばれていく。臭気に眼を閉じる。みんな祖父の養豚場のためだった。祖父の製材所へもいった。そこにひとり、年長の少年が遊んでた。かれは犬をつかって死んだ鶉や鴨をとってた。なんともいさましくおもえた。いっぽう父はずっと祖父と話をしてた。わるい話になったんだろう。銃身を切りつめた猟銃でもって祖父はいった。「早く、こっからでていけ、さもないとぶっ放す」。その通りだった。鴨居に穴をあけられ、ぼくらはまっすぐに出た。父は生気を失って自身の車へと帰った。まるでここが日本じゃないようにお互いで息を吸った。吐いた。うんと吸った。──呑んだくれのばかやろう。──それきり黙って家へ帰った。生野高原は退屈するために、ずっとそこにある。ぼくは早くこの土地がなくなるように祈った。3度も。

 けれども退屈の日々はずっと強かったんだ。ぼくはなんどか母方の祖父母に会った。大正からの名家らしく、機織り工場があり、琴があり、着物があり、ディズニーのカラー・フィルムもあった。妹たちが舞を習ってるあいだ。立派なビリヤード台もあって、ルールもわかららずにぼくらは遊んだ。琴を姉妹は習い、日本舞踊を屏風のある小さな舞台で披露したりもした。ぼくは叔父の室から漫画本を観てた。ぼくは仮面ライダーになるつもりで暮らした。でも大人になるということは無力では意味を持たず、わるくてつよいものに勝たなければ死ぬしかないようとおもった。屋根から飛び降りたり、瓦を割ったり、木に手刀を喰らわしたり。とにかくぼくはさみしかった。姉には妹がいて、妹には姉がいるのに、ぼくはたったひとりだとわかってた。だから階段から妹を突き落とした。ぼくはなにも憶えがなかった。でもみんながぼくを見てた。ぼくは淋しかった。これじゃあ、仮面ライダーにも忍者ジライヤにもなれない。祖父はやがて友人の借金のために破産し、屋敷を失った。あるとき、母方の祖母に灸をされた。ぼくはなんにもしてないのに。姉妹のいる室の襖をあけただけだ。ふたりが悲鳴をあげる。かの女はいきなり襲い来て、ぼくの親指をライターの火で炙った。畜生。

 ぼくの左目の隅には縫い跡があった。2歳のとき、ぼくは台所のガラス戸があけられなくて、頭からガラスに突っ込んだ。血、また血。もう少しで眼をひとつ喪うところだったらしい。家のうらには父のつくった離れがあって、ぼくが産まれたぐらいからずっと手をつけてた。土台はともかく鉄骨は業者の手が入ってるらしい。はじめのうち、ぼくは父を尊んでたし、すごいひとだとおもってた。けれども齢を重ねるうちにそいつは狂気を学ぶための、いちばん初めの教科書だとわかった。高価い工具や、建材を買い込み、家計を追い込む。でもともかく、そのころは家がいかに醜くなっていくかなんてわからなかった。質素な2階家ができるだろう、なんとなくそうおもってた。父はぼくを連れてよく北神鋼材や、ホームセンターへ連れてった。あるいは不要になった建材をもらいに、近所の建築現場まで連れてった。あるとき、ぼくと姉が車に乗ってった。断熱材をもらった。ぼくたち姉弟はそいつを触ってしまった。綿飴みたいな黄色いものは石綿だった。手がちくちくと痛み、しつこく手を洗ってもしばらくは痛いままがつづいた。

 やがて姉が山口幼稚園に入った。近所の娘に誘われて生瀬のバレエ教室に通うようになった。母は特別姉をかわいがった。ぼくも連れられ、螺旋階段のうえ、ずっと待ちぼうけを喰らった。なんて仕置だ。欄干に凭れ、日を浴び、ずっとずっと終わるのを待った。姉がいないときは少しだけ淋しかった。やがてかの女が小学校へあがり、ぼくが入園した。泣いて抵抗した。毎朝、いかないとごね、駐車場から鉄のスライド門まで抱かれるか、ひっぱっていかれる。ぼくはなんとしてでも園には馴染むまいと誓った。歌を口ぱくで通し、休み時間を延ばせと要求したりした。劇の配役がいやで、役を変えろといった。かっこよくて死なない男のひとに!──そういった。そしてぼくは脱走の名人だった。でられないときは屋根にだって登った。うまくいけば公民館の入り口まで逃げた。でも母は褒めてくれなかった。

 クスモトタダシっていう子とぼくは友だちになりたかった。かっこいいなまえだし、身なりもいい。いちど声をかけたけど、声が小さくてかれに伝わらなかった。ぼくは、ミツホっていう、じぶんのなまえがいやだった。どうしてコウタロウやタケシじゃないんだ。どうしてこんな女の子みたいな名をつけられたんだ、赦せないものがそこにはある。母同士のはからいで、クスモトくんの家にいくことになった。ぐずついた曇天。緑色のアパートメント。かれも含めてみんながテレビゲームをしてる。うちにはそんなものはない。父が赦さない。ぼくは中心部へ入っていけず、隅っこでミニカーをいじった。もうひとりのはぐれものとともに。愉しくなかった。雨が降りだした。激しい。やがて母が迎えに来た。ぼくは車のなかから建物を見あげる。いったいなんのためにここまで来たのか、ため息を洩らした。なにもできなかった悔しみを雨が代弁してた。幸福は遠かった。

 ぼくはからだの大きいやつらがぜんぶがきらいだった。あたりまえみたいに遊具をかっさらっていく姿はなによりも憎かった。時間が来て、かれらがいなくなり、遊戯がはじまったとき、ぼくはたったひとりで遊び始めた。みんな教室のなかにいる。でもぼくはそこにいたくはなかった。夏の休みをまえにしてぼくと母は教務室に呼ばれた。たまねぎ──玉垣先生が色とりどりの書類を机のうえにひろげた。そいつによれば、ぼくは病気らしかった。いつもひとりぼっちでだれもともだちがいない。先生は精神科への案内状をしたためてた。そいつを母は封切らず、やぶり棄てた。べつにぼくが病気でもぼくにはどうでもよかった。どっかへでかけられるならなんだっていい。母や先生たちが傷つこうとも、もはやどうでもよかった。冬、クリスマス・パーティーはつまらない催しだった。サンタクロースを信じたこともなかった。公民館で「サイボーグ009」の映画を観た。モノクロのやつ。そっちのほうがずっとマシだった。ぼくはなにもしないまま卒園した。もう半ズボンをはかなくてもいいい。それだけが喜びだった。

 北六甲台小学校は丘のうえにあった。よそものたちのあつまり。みんないい服とランドセルを来て、きれいなまんまだった。ぼくはといえばランドセルを奪われ、犬のくそを塗りたくられてしまった。フランス製のかわったかたちのだったからか。かわりに迷彩柄のずた袋で通った。ことの翌日、壇上に岩瀬、真嗣が立ってる。ふたりが謝った。

   ごめんなさい。

 浜崎先生がいった。──どうや?──赦すか?──赦す以外の回答がなかった。みんな、ぼくを注視する。──ああ、もういいよ。──ぼくは折れた。悔しさでいっぱいだ。年みじめなおもいをした。ぼくはよく「ぼくとカンガルー」という童話のまねをした。カンガルーのボクシング。よくかの女のまえで演じた。はじめて会った白人で、南山真波といった。うしろの席からは星乃秀明の最高のジョークが聞けた。笑いすぎて席を変えられてしまった。そのせいで南山とは離れることになった。

星乃とはたびたび遊んだ、どうしてもうちに来てもらいたかった。ふたりしてガレージの屋根で枇杷を食べた。ふた親の仲はすでによくなかった。とくに不況をまえにしてからは、ささいなことがいさかいになった。母はやがて黙ることを憶え、ぼく

らに含み話しをした。たとえばぼくが生まれるまえのアパートメントでやつにマグカップを投げつけられたこと、浴室の壁を修復する父に勞いをいおうとして怒鳴られたこと。そんなくだらないことばかり喋った。決して父からかばってはくれなかっ

た。やがてぼくは近所の年長者たちと遊ぶようになった。かれらはみんな、ぼくにやさしかった。けれども学校はやはり退屈で逃げようのない場所だ。家に帰ると、けむりきのこを探しにいった。いたるところにそれは生えてた。踏んづけたり、壁

に投げつけたり。胞子の煙を眺めて愉しんだ。そして花の蜜を吸いに庭にでて、かたっぱしから花を引き抜いた。蜜は花びらの奥にあった。ちゅうちゅう吸いながら表にでた。いつものように年長の少年たちと遊んだ。かれらは木のうえにパレット

を置き、基地をつくってた。ぼくも乗せてもらい、その眺望を愉しんだ。ある休日父以外の全員で西脇にいくことになった。母の郷里であり、母の実家は機織り工場がくっついた大きな日本家屋だった。ぼくの愉しみは伯父の部屋にある漫画だった。「仮面ライダー」があったんだ。朝日ソノラマ版の。けれど残念なことに途中までしかない。ちょうど一文字隼人の部屋が爆破されたところで終わってた。姉妹と一緒に駄菓子屋にいき、飛行機のおもちゃを買った。側溝ではきれいな水が流れ、春の光りに溢れてる。しかし、ぼくはどうしても祖母が好きになれなかった。いつのことだったかはわからない。ただあるとき、ぼくが姉妹の遊ぶ室に入ると、ふたりが大きな悲鳴をあげ、飛び込んで来た祖母が故も訊かず、ぼくをねじ伏せ、右手の親指をライターで焼いたからだ。ぼくがいったいなにをしたのかはわからない。


   *


 3人組の上級生に弄ばれた。かの女たちはきれいだった。やさしかった。図書館でぼくと遊んでくれた。でもどうしてもぼくはかの女らに応えて陰部をだしてあげることができなかった。そのときぼくはかの女らを辱めてしまった。いちばんきらいな担任の浜崎にそのことを指したんだ。すぐにとっつかまってかの女らは責められてた。なんていうことをしたんだ、ぼくは。あんなにやさしいひとたちを辱めてしまった。


   *


 「将来なりたいものは」と浜崎が訊いた。なんだでもよかったんだ。警官でも看護婦でも。でもぼくは「ふつうのひと」と答えた。──それはなにかね?──みんなだれもふつうのひとなんだ。警官でも看護婦でも。やつの責めるような大きな声がした。ぼくには理由があった。でもそいつを言葉にすることができない。哀れなるミツホよ、おまえは一生理解され得ないのだ。机のうえに飛び散った泪のつぶが電光に照らされ、そのなかにちいさな自身の顔をみつけて恥ずかしくなった。みんな、ぼくを寝小便でもかましたみたく眺めてた。幼稚園でのまともでない暮らしぶりがあったのをだれにもいえなかった。涙をいくつか流した。それから近所に現れた不審者についてもまちがった軋轢がもちあがった。やつは車で公園に乗りつけ、蒲団を干し、子供をじっと見つめてたという。ぼくはそのことで誤解を受けた。母から伝聞をいっただけなのに浮浪者を差別してると決めつけられた。あんなところに浮浪者なんかいない。でもアカにはわからなかった。教壇で吊し上げを喰らった。悔しかった。

 ぼくは家にある本で、レタリングの実用書がいちばんのお気に入りだった。外国の本で、大きく、さまざまな書体がそこにあった。文字で描かれた車の絵というものも載ってあった。さっそくまねをして描いた。愉しかった。いつまでも厭きない。けれどもある日、それを母方の祖母が隠した。どうしてそんなことをするのか、まったくわからない。かの女の悪意、そのほかにおもい至るものはなかった。あの本でぼくは110という数字にはじめて出会った。算数の授業、みんながいっせいに10が10個で100と合唱する。ぼくは反発を憶えた。100よりも110のほうが、ずっと重要な数字なのに。

 校庭では菟を飼ってる。白い鉄の檻。あたらしく産まれた菟が庭を走りまわった。そいつを追いかけ、檻のまわりを駈ける。そのせつな、積んであったコンクリーブロックを倒してしまった。子菟は圧し潰されて死んだ。多くの上級生たちが駈け寄った。だれもぼくを見ない。ばれてはないか。怖くなって教室へ走った。子菟は夢にまででて、ぼくを呪ってる。大汗を掻き、天井を見た。

 夏のあいだずっと年長の少年たちと遊んだ。ぼくはかれらにとって弟みたいだった。かれらにさそわれるままに基地をつくり、爆竹を鳴らす。土スキーをおもいつく。崖の傾斜の、柔らかい土を素足と木の枝で滑った。木のうえにパレットをおいただけのアジトは、台風11号で毀れしまった。みんなの関心さえ薄くなってった。やがて秋だ。少年ふたりがぼくを迎えてくれてた。ケンジくんとノブくん。かれらは、ベニアと車輪とロープで台車をつくっていた。「乗りなよ」。──ぼくは喜んで乗る。ふたりが紐をひっぱる。加速はつく、スピードはどんどん速くなる。ぼくは正座して乗ってる。よし、溝蓋を超えるぞ。そこでなにもかもがだめになった。ぼくの口は蓋をもろに喰らい、ぼくの右腕はベニアとアスファルトのあいだにあって信じられないところへひっぱられてた。だれかがぼくを起こした。口いっぱいに流れる血を押さえ、うちのなかへ駆け込んだ。簡単な手当と止血のあと、歯医者にいった。下の歯肉がむちゃくちゃになってた。上の歯には蓋のあとがしっかりとある。それだけを直して帰った。あたまが痛い。息が苦しい。眠れない。ぼくはぼくは癒やすためにシロップやシンナーやブランデーを使った。ふくれあがっていくみたいな頭を抱え、夜の悪夢を、昼に見た。あれきりかれらとは遊ばなかった。

 いっぽう学校では言葉の問題で苦しめられつつあった。祖母にやられた灸みたいに、それはもはや言語を飛び越えてしまってた。塀のむこう、手の届かない方向へと去ってったんだ。あいもかわらず、ぼくには友達がなかった。欲しいとはおもってた。けれど話しかけてくれるのもいた。岸本研祐というやつが、粘土をつかった授業のときにいった。

   これがジェット・コースターやろ?

 かれが粘土の塊りを示す。

   これがおまえのかあさんやろ?

 さらにちいさな塊りを示す。そしてジェット・コースターごと、机に叩きつけた。ガガガーーン!──なんてことをとぼく

はおもった。こんなことをいうやつははじめてだ。動揺してしまう。しかし、それを知られては負けはあきらかだった。だからぼくもやり返すことにした。

  これがおまえの家だろ?

 かれは首をふった。

   いや、ちがうわ。

  ちがわないな。

   ちがうな。ただの粘土や。

  こうさ!

 ぼくは四角く成形した粘土を平手で潰した。でもやつはぼくをほったらかしてどっかにいっちまった。けっきょくぼくはひとりで1台の自動車と、人間をつくり、提出した。じぶんでも最高の出来だったが、ある日公園で人間のほうをなくしてしまった。どこを探してもなかった。

 その年の誕生日。ぼくはトミカの飛行機を贈られた。誕生会がひらかれ、近所の子供たちやその親が集まった。会が終わって飛行機に触った。毀されてた。怒りの矛先もなく、ただ、ぢっと毀れた玩具をみながら、もうだれもじぶんのものには触れさせまいとおもった。しかし、そんな矢先、またしてもやられた。ある日曜の朝だった。ぼくは買ってもらったおもちゃの刀をもってそとを歩いてた。そこへ中井龍之介と嘉村大介がきた。あッというまに刀を中井が没収してしまった。ふたりは走り去り、ぼくは追いつけなかった。刀をようやくみつけたとき、それは道の脇におかれた建設残土のなかに埋められてた。土で汚れたそれはもうぼくのものではなかった。家にもちかえったものの、もう触ることはなかった。いっぽう中井の家でも誕生会がひらかれた。ぼくも呼ばれてしまってた。やつへの贈りものを撰ばなければならない。母と西友で探した。ちょうど欲しいものがあった。車の、プラモデルのついた食玩だった。けれど探してるのは怨めしくて恐ろしい中井への贈りものだ。けっきょく母にそれとなくせがんでそいつをふたつ買ってもらった。ひとつは中井に、もういっぽうはぼくにだ。ぼくは中井の家にいった。瀟洒な内装をしてる。壁はいちめん艶めかしい木目の板に被われ、食卓も巨きな木を輪切りにしてつくったものだ。さらにそのうしろには裏庭が展がってた。木製品にこだわりがあるのはわかる。階段もおなじく木と鉄を組みあわせたものだ。木と鉄が交互に現れるような様式にはなかなかの美学を感じる。緑がやけに涼しかった。案の定、誕生会はひどく退屈だった。それに気づまりでもあった。やつとも、やつの母親とも話すことはない。やつはありがとうのひとこともない。ただただへらへらしてるだけだ。ぼくは急にばからしくなり、だれよりも早くその場をあとにした。

 それでも、学校じゃあ、体育の時間。砂場で相撲をとることになった。男女一緒でだ。ぼくの相手は南山真波だった。恥ずかしくって、かの女には、──とても触れられない。あっけなく、倒され、笑いものにされてしまった。ところで第3のあこがれについて話そうとおもう。それはファミリーという6年をリーダーとして6人で行うグループ活動でのことだ。北六小にはファミリーというちんけなまえの制度があった。ほかにも北六フェルスティバル、北六カーニヴァルとか、とか。それぞれ6年から1年がひとつの班になって活動してた。わがリーダーは愉快なやつで、グリーンハイツにある、巨きくて青い貯水タンクのそばで暮らしてた。隣には唯一の不動産屋がある。生野高原をあがった、丘のうえの住宅地だ。ぼくはじぶんの班の男リーダーの6年生よりも、ほかの班のリーダーの女性が好きだった。あるとき、リーダーが糊のついた画用紙を手にぼくを追いかけてた。そこへ6年の女子がやってきてリーダーを咎めた。そしてぼくに笑顔をむけ、慰めようとしてた。かの女の顔には生毛がたくさんあって、がっかりしたけれど、とても惹かれた。

 やがて来る大恐慌時代に両親の仲は冷え、夏休みの旅行はなくなり、船とバンガローの旅も消える。あとは車でただただ田舎を走るだけになる。でも、それはまださきの話だ。けっきょく、ぼくはいちども宿題をせず、だれもぼくの存在へ気にかけることもなかった。ぼくは落伍者としてはじまった人生をただ受け身に捉えるだけで、ほかにどうしようもなかった。毎年なんどもいじめが待ってた。ぼくは泣かなかった。それがみんなにとっておもしろいことだったのに。ものを隠されたり、悪口をいわれたり、好きな子を暴かれたり、でも絵だけは無事だった。ぼくはいつかこの連中からはなれて絵を描いて暮すんだとおもってた。あるときの教室でみんなじぶんの家について話してた。ぼくの家は中古だった。ぼくは正直過ぎた。みんなはいっせいに笑い、

  中古や!

  中古やって!

  家が中古だなんておかしい!──そう囃し立てた。たしかにあれは中古るの平屋建てだった。酪農家の家を買い取ったわが家。びわの木があってそのさきは大きなタンク。父はそいつを30年かけて、醜く、薄汚い、トーチカに変えた。ぼくは愛想笑いでやり過ごした。やがて迎えた卒業式の余興。あのひとがいなくなってしまう!──ぼくはかの女を見つけようと校庭をさまよった。ひとがいっぱいでとても見つけられなかった。あきらめて、わかれの科白さえもいえず、けっきょく教室にもどった。曇り空のもと。


   *


 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ほどぼくを虜にした映画はない。ほどぼくを虜にした映画はない。はじめて観た映画だ。観たのは1歳のとき。当然、憶えてない。あるとき、父が第2作の字幕版を買って帰った。すぐにその世界にのめって、英語や、演技のまねを家でも学校でもやった。タイムマシンをほんとうに発明しようと設計図を書き、大人になったらデロリアンに乗ると決めた。2年にあがった。担任は今宮先生。かれは子供の詩に興味があった。ぼくを捕まえては、詩になることばを得ようとした。あるとき、かぜの強い冬の日、ぼくがみずからを回転させてふらふらになったときのことを話すと、かれはもっと詳しくといった。体育の時間が迫ってた。女の子たちが先生を呼びに来る。かの女らは困惑してる。ぼくは校庭に逃れる。みんなが先生を待ってた。

 そのころ、家に帰れば上村透がいた。なにがおもしろくてかれが、ぼくのところに来るのかはわからない。一緒に模型を見たり、漫画の話をしただけで、これといって愉しくもなかった。でも頻繁に会ってた。背が高く、女の子にはもてた。ラブレターをもらったこともあったけれど、みんなのまえで馬鹿にした。苗字がまちがってたからだ。そんなことで、とおもった。なんてひどいやつなんだとも。それでもぼくはかれとのつき合いをやめなかった。ぼくはいつもみすぼらしい格好をして、靴下さえ穿かなかった。絵の巧い変なやつ、というのが、みんなの認識だ。昼休み、ボール遊びもせずに、机にむかって絵や漫画を画く。「ハゲ田ハゲ男」というのがぼくの最初の連作だった。読者はひとり、浪河繁雄だ。やがてぼくがほかの子たちと遊ばないというのが、クラスの問題に挙げられた。終礼の会で、女の子たちが提議する。校庭でボール遊びに参加するべきだと。なぜみんなひとにかまうのか、ほっとくということができないのか、それがぼくにとって謎だった。みんながみんなおなじことをやる、そんなこと、なにが愉しいのか。ぼくは毎年いじめやからかいの標的になった。みんなとんでもなく愚かだった。でもぼくにはどうすることもできない。

 西宮のヨット・ハーバーだった。突堤の端っこにムール貝がいくつも落ちてた。陽光を受けて滑る、それはまだ喰えそうだった。ぼくは新聞紙でそれを包もうとした。けれど水気を吸った紙はたやすく破れてしまった。ぼくは諦めた。それから父とヨットに乗った。揺れはきつくはない。でも小さなからだには堪えた。嘔き気を憶え、寝台で横になった。港から運河をゆき、橋の下を過ぎる。そして海へでて引き返す。たったそれだけだった。船着場にもどると、父ともうひとり老夫がニスを船に塗り始めた。ぼくはそれを触ろうとした。老夫が怒鳴った──触るな!──すっかりびくつき、やがて破顔した老夫にも警戒を解かなかった。それから幾年かが過ぎて、かれが癌で死んだのを知らされた。夜の車で父に。癌だった。最后は片腕まで切り落としたという。

 姉は新品の自転車を買ってもらってた。でもぼくが乗るのは毀れた拾いもので、かつて籠を留めてただろう、フロントの金具がむきだしになり、ブレーキ・チューブも固定されてなかった。どうしてこんなものをあてがうのか。こんなものをどこで父は見つけてくるか、わからなかった。それでも子供用のマウンテン・バイクをようやく買ってもらった。ぼくは喜んだ。けれども、妹や姉が勝手に乗ってってしまうことも多かった。そのたびにぼくは怒ったし、腕をふった。そのころ、同年たちと遊べないぼくは年少の子たちと遊んだ。自転車を乗り回し、あたりを探検した。ダムや廃墟、放置された貯水タンクに登ったりした。そのなかで憶えてるのは坂本大智の弟と、三芳という子だ。三芳くんはぼくのことを先輩と呼んだ。学校のなかでもそう呼ばれ、少しはずかしかった。いや、ちがう。ぼくがかれにそう呼ばせたんだ。夕暮れどき、ぼくは長い坂を猛スピードで降りた。からだをひくく傾けてかぜの抵抗を減らす。新サイクロンに乗るライダーみたいに。でも道には窪みがあった。まず前輪が持ってかれ、半回転、放りだされ、腹這いの姿勢でアスファルトを滑った。自転車はめちゃくちゃになった。当然。ぼく自身も。もちろん。ぼくは三芳くんの家にいった。いちばん近かったからだ。かれの父がインターホンにでた。友だちですと告げる。傷の手当をしてもらった。三芳くんとともに坂を降り、家に帰った。からだの痛み、毀れた自転車、どっちもつらい。かれが帰ったあと、母がいった。傷にまみれたぼくに冷たく、──自転車はミツホだけのものちゃうよ、──だから怒らへんのやで。──じゃあ、どうして眞知ちゃんには自転車があるのか、教えて欲しい。──お姉ちゃんは特別なの。

 姉の友だちに汐澤江里という子がいた。かの女には、くそがつくほど生意気な弟がいた。あるとき、やつが三芳くんに咬まれたといい立ててきた。──どうしてぼくに?──わからないまま、姉と友人とその弟、そして三芳くん、ぼくが集められた。わが後輩は否定した。どうしたわけか、ぼくが審判役だった。どっちを信じるか、というわけだ。どうしてぼくを験す?──もちろん、後輩を信じたかった。でも、なにもいえず、ただただぼくは口籠ってしまい、そのあとずっと三芳くんから遠ざかってしまった。かれとはもうそれっきりだ。2月、妹が産まれた。今宮先生はべつの学校に移ってった。ぼくはかれに紙粘土でつくった人形を渡した。それは仮面ライダー旧1号だった。ただアンテナの材料が見つからなかったけど。

 3年の担任は林というパートタイムの教師で、フルタイムの乱暴者だった。子供たちを恫喝し、ときには撲り、足蹴にした。授業放棄もたびたびだった。だれかが謝りに来るまで職員室からでようとしなかった。けっきょく優等生たちが頭をさげにいく。ぼくはおもった。あんたなやつ、放っておけばいいのにって。ぼくはたびたび宿題を忘れ、渡り廊下にある、用具室に連行された。パイプ椅子に坐らされ、罵られる。胸倉を掴まれ、壁に押しつけられる。ぼくは耐えた。泣かなかった。それでも廊下を歩くほかの教師に救いを願った。厚化粧の女教師が戸のすきまからこっちをみた。去ってった。なんてことだ!──なんとか釈放されて、教室にもどった。ぼくはなんとか学校を休もうとした。ある夜、母のまえで包丁をだし、じぶんの腹に突き立てようとした。たった2日だったけど、休みを得た。そんななか、父方の祖母が死んだ。眠ってるあいだに息を引きとったそうだ。ちょっとまえに会ったばかりだというのに。

 ぼくは一瞬は喜んでしまった。林に会わなくとも済むって。そんなじぶんがいやだった。ぼくはおばあさんのことが好きだった。懐いてた。かの女は岡山から追われ尼崎へきて「鈴村」というお好み焼き屋をやってた。かの女のつくる苺ミルクをときどき懐いだす。姉や妹はそれがき、大きな声で不味いといってた。ぼくは葬儀で泣きじゃくった。姉や妹は冷たく無表情だった。焼き場でぼくはかの女の骨を盗もうとした。それほどのことだった。でも法事は退屈で、見慣れない親戚たちがいやだった。おまえらは関係ないんだ!──そう怒鳴ったのを憶えてる。

 あるとき、授業で花壇へいくことになった。みんな走った。林は怒って腕(かいな)をふった。教室へもどれ!──やつがいうには植田という女子がコンタクトを落としたという。でもそんなことだれがわかるんだ。かの女がコンタクトしてるなんてことをどれほどのやつが知ってるんだ?──理不尽さを味わうには、もっともなやつかも知れない。でもそんなかたちで学びたくはなかった。毎日、撲られないか怯えながら過ごし、やつがいなくなるまでずっと気が気でなかった。

 そんなころ、家に上村透と、寺内麗奈が来るようになった。ふたりして空き地の野苺を食べてた。どうしてふたりで来たんだとぼくは尋ねた。道でたまたま遇ったという。そしてぼくはふたりと、かの女の家にいった。贋アッパーミドルな家、贋アッパーミドルな内装、贋アッパーミドルな家具、贋アッパーミドルな両親たち。おれはただただどうしていいのかわからずにいた。数日後、かの女の家の近くを通った。姉の友だちの母親が声をかけてきた。ぼくはうっかり寺内のことが好きだといってしまった。ほんとは心にもなかった。女の子の家にいったことで舞い上がってたんだ。数日後、すっかり噂になって、父ですらそいつを知ってた。ぼくはただただぜんぶが呪わしかった。つぎにぼくは宇土まどかという子が気になった。好きというほどではなかった。でも好きだとおもうことで亢奮を憶えた。かの女が転校するとき、みんなでパーティーをやった。木村という女子に訊かれ、ぼくはかの女を好きだといった。半年後、学校の催しにかの女が来てた。木村とともにぼくを見る。「あいつ、きらいや」という声。かつてぼくのお道化や踊りに笑ってくれ、リクエストするかの女はもういなかった。女の子たちがどうして変わってしまうのか、ぼくにはわからなかった。怖れ、羞ぢ、ぼくなんかが出過ぎたまねをしてしまったとみずからを責めるしかなかった。

 家の経済が傾くにつれ、父との関係もゆがんでった。夜にふたりで映画を見ることもなくなった。早く寝ろ!──父は怒鳴る。これもまた理不尽なことだった。週末には朝早くから草刈り。たったひとりだけだ。姉妹は眠ってるというのに。ぼくは次第にかの女らに怒りをむけはじめた。暴力を繰り返した。ある日曜日、家の枇杷の木が切り倒された。あれほどおいしい実をつけてた木が伐られ、燃やされる。おれのぼくの幼年期がそのまま終わったみたいな匂いがした。やがておれは父を撲り、母を売りにいくだろう。──そんなおもいとは拘りなく、時間は過ぎてった。ぼくは素足で過ごした。学校でもそとでも。上級生にも下級生にも見下されてた。たびたび望ましくないやからにしつこく攻撃されることもあった。姉や妹たちとも遊ばなくなった。近所のだれとも話もしない。そんなとき、年少の女の子に声をかけた。一緒に遊ぼうとした。かの女の腕を掴んだ。その子は悲鳴して去ってった。やがて家に連絡がいき、ぼくはかの女の家に謝りにいった。廊下の果てで怯えた少女がこちらを見る。ゆっくりとちかよる。親にうながされてあたまをさげた。


   *


 ぼくは、ぼくという1人称がきらいだ。あるとき、作文の発表があった。窓際に坐ってぼくは、ぼんやりみなの声を聞いてた。いつも気どってる、いじめっこたちも1人称には《ぼく》を使った。それが癪に触ったし、ひどく羞ずかしくおもえた。だからぼくは《わたし》を使った。みんな嗤った。長ったらしい嗤いだった。教師がみなとぼくとを諌める。大人しくなるまで。

 時代が、あるいは立場がかたむくにつれ、大人たちは臆病になり、それを見せまいと拳やからだにものをいわせた。父は母を罵り、母は隠れたところで父の悪口を子供にいいふくめる。恐慌は子供たちをも呑み込んだ。だれが生け贄になるかをいつも政治が決める。ひとのかたちをしたひとでないものたちが、知らないうちにみんなを呑んで友だちだったはずのものたちが友だちだったはずのものへ石を投げてた。子供たちは知らないうちに親のふるまいを身につけ、それぞれの大人を演じる。みんなはみんなの瑕疵を探りあった。うわさ噺やかげぐちをいってたがいの結束を高め、そのつらなりを友情と呼んだ。

 4年にあがって担任は北原先生になった。やっと林から開放されてとにかく嬉しかった。かれは休み時間にギターを弾いた。ぼくも弾いてみたくなった。宿題をいちどもしなかった。ぼくはもう、授業についていけなくなってた。木曜日のみの部活動があった。ぼくは演劇部に入った。はじめはまったく興味がなかった。じゃまばかりしてた。秋になってまじめにやるようになったものの、視聴覚室が使えなくなり、そのまま立ち消えになった。ほかの部への編入を望むも叶わなかった。ほんとうは漫画部に入りたかったけれど、そこには姉がいた。いっぽう父の日曜大工はどんどん大事になってった。ぼくはもろに巻き込まれ、人非人としての薫陶を受け始める。ぼくは映画監督になりたくて、勝手にビデオカメラを持ちだしては手づくりの町を撮ってた。ある日、ぼくは便所で少しだけ休んでた。わるいとはわかってた。そこへ先生が入って来て、授業をさぼったと怒った。

 「留年させるからな!」──ぼくは家に帰って悩んだ。母は笑い飛ばした、小学校に留年なんてない。半信半疑のまま風呂に入り、シャワーを浴びた。翌日、先生はなにごともなかったかのように授業をした。そしてギターを弾いた。1月、地震が来た。棚からものが落ち、蒲団をかぶってかわした。家族はぼくがまだ眠ってるとしつこく笑った。余震も激しく、ガラス戸がわれるかも知れない、そうおもえるほど揺れた。父は歩いて会社までいった。そのあと、父は、どういうわけか、ぼくだけを連れて伯母の家にいった。湊川の山手から神戸市街へ。坂をくだり、ずっと町のなかへ入っていく。ぼくはズボンの袖に漫画本を隠して持ってった。ひまつぶしのためだ。商店街に入る。ビルが大きく傾き、道には照明や看板や窓ガラスが散らばってた。ぼくは父のカメラでシャッターを切りまくった。どこまでいっても倒れたビルや、地階や2階部分の圧し潰れた建物と家屋がつづき、ひとの姿はまるでなかった。伯母の家で父は2階の水道を修理してた。ぼくはじっと黙ったまま、はじめて会う伯母とその夫のまえ、時間が過ぎるのを待った。

 学校もしばらくは休みになった。登校がはじまっても午前中だけ。給食センターもだめになって、チーズケーキやパンケーキが配られた。滅多にないご馳走にぼくの舌が歌った。ふたたび退屈な授業がはじめるまでひと月はかかった。生野高原じゃ、なんともない。むしろ学校のある丘には瓦が落ち、ブルーシートをかけた家がやたらとあった。そして5年生にあがる。担任は東野先生だ。かれは強面で知られてた。とてもおっかないとぼくも想像してた。でもそんなことはなかった。かれはやさしかったし、ぼくのことを理解しようとしてくれてた。ぼくは上履きを履くようになり、大人しく授業を受けられるようになった。そのいっぽうで宇土まどかが帰って来てた。ぼくは動揺した。毎朝、ローマ字のプリントを取りにいくたびに、かの女の蔑みと嫌悪で充ちたまなざしに眼を伏せるしかなかった。時折、男子どもがと叫ぶ。──ミツの好きなひとは!

 うろたえるぼくを見て喜んでる。こいつには参った。されるがままにぼくは耐えた。いちばんめの妹にもおなじようなことをされた。ぼくが気になってる子のまえで「ほーくんの好きなひとや!」とわめくんだ。そしてぼくが女のひとを絵に描くのをことさら恥ずかしいようにいいふらす。ぼくは、だれについても卑屈さがあった。気がつけば、なまえも呼ぶことができない。すまいないような、恥ずかしいようなおもいでいっぱいだ。かれらを友だちと呼べるのか、呼んでいいのか、自信がない。まったくなくなった。それ以来、ぼくはだれについても警戒を抱くようになった。漫画部がないからとビデオ部に入った。でもなにひとつ作品をつくらないまま1年が終わった。


   *


 毎年、「桜の絵コンクール」というやつがあった。ぼくはいちども受賞できなかった。姉や妹でさえ入賞したというのにぼくの絵はだめだった。母にいわせると、ぼくの絵は「子供らしくない」ということだった。ぼくは卒業までずっと図工の内田先生に絵を見てもらってた。漫画ももちろん。いろんな助言をもらったはずが、ぜんぶ忘れてしまった。卒業後、かれとは1度だけ遇った。中学2年のとき、コープ神戸の本屋でだ。

   絵、描いてるか?

  いえ、やめました。

  いまは小説を書いてます。

   そうか、──それもおなじく表現だからな。

 かれはがっかりしたようだ。淋しい声でいった。いまでも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。それぞれ別の場所へむかい、かれはその13年後に死んだ。それを今宮先生から教えてもらったとき、もう2年が経ってた。もっと早くなんとかしてれば再会できたかも知れない。でもどうすることもできなかった。われわれはみなすれちがい、ある1点で結ばれる。そしてそのまま離れ、大概、ふたたび交差しないまま息絶えるんだ。だれもかも、そこから逃げることはできない。垂直にそそり立った崖のうえで、互いの指にふれあい、落ちる。たったそれだけのために人生はあって、死はあって、そのあとには余韻さえ赦されてはない。そいつに気づくまでにどうしようもなく時間がかかってしまった。

 12月、いちばん下の妹が産まれた。母は堕ろすつもりだったらしい。父がとめた。金はない。母がパートタイムにでるといっても父は反対した。けれどもけっきょく母は産まれたばかりの妹を残して仕事にいった。髪をみじかくして。母との関係はずっと薄くなるばかりだった。その存在さえも半分あって半分ないようなものだ。ぼくはまったくかの女と話をしなかった。姉妹とわいわいやってるなか、とてもわって入る気にはなれなかった。ぼくは話が苦手だったし、口をひらけばひとをうんざりさせるのをわかってたからだ。憶えてるかぎり、ぼくが産まれ、はじめておもったのは(こっから逃げなくては)だった。知らない半裸の女がいて、一緒に眠ってる。どうして?

 ほんとうの家、ほんとうの母、ほんとうのなまえを口にするまえにぜんぶ忘れてしまった。幼いころからじぶんが生まれるまえの文化に興味を持った。それは漫画本だったり、テレビ番組だったり、音楽だったり。給油所をやってる隣人がぼくの5歳ごろ、引っ越しの際、レコードコレクションとプレイヤーをくれた。子門真人がやたらにあった。ぼくはかれの「ヒーロー主題歌集」や「流星人間ゾーン」を何度だって聴いた。でもあるとき、近所の子供たちがそいつを毀してった。


 終礼のとき、岩瀬が壇上にあがった。そして告白した。──最近、女の子たちがぼくに冷たい、避けられてる気がする。きらわれてる気がする。どうしたらいいのか、教えて欲しい。──なんだってやつはそんなことをいうのだろうとおもった。ぼくはいつもかの女たちにやられてる、いわれてる、でもそれを訴えてもどうしようもないことがわかってた。岩瀬は年寄りみたいな皺だらけの顔をみじめにゆがめ、泣きそうな、嗄れた声で話す。先生がかれをかばう。たしかにかれは女の子に好かれるようなやつじゃなかった。見るからに悲壮だ。たぶん、その悲壮さがいやなんだろう。かれの告白を反芻しながら、その日

の帰途をたどった。ぼくは泣きごとなんか、いったりしない。


   *


 雲がひとのように

 長距離バスとならんで

 森のなかへ姿を消す


 時間は

 ぼくらがおもってるいじょうに

 感情をもってる


 ──それはコーヒーみたいに

 ──それは警官みたいに

 ──それは眠りに就く子供みたいに


 ぼくは雲が好きだ

 有情群類とともにして

 もうじき下車します


 さようなら

09/11/24


   *


 6年にあがった。担任はまたしても浜崎だ。好きだった音楽の武内先生は産休に入った。ぼくは図工や音楽の先生とは仲良くなれた。でもほかのすべての先生とはまるでだめだった。武内先生のかわりに醜女が入ってきた。世界の終わりみたいだった。忘れもしない、かの女は見本を見せようとぼくのリコーダーを吹いた。みんなが憐れみをもってこっちを見た。武内先生がもどって来るまでぼくはそのぞっとする醜女から逃げようとしてた。やがて先生はもどって来た。そんなときだ。義村廣がいった。

   おまえ、仮面ライダーやウルトラマンの歌しか知らへんのやろ!

 こんなことをいきなりいうやつにはうんざりだ。2年生のときもかれはおなじようにみんなのまえで恥をかかせた。じっさいぼくには好きな歌謡曲があまりなかった。姉や妹の聴く音楽もいいとおもったことはない。映画音楽のほうがずっとよかった。ぼくは口ごもり、そんなことはない、とだけいった。ぼくはたったひとりでBTTFのサントラ盤を聴いた。松本というやつがグリーンハイツに越してきた。やつはおれをしつこく平手で叩き、叩いては隠れた。なんのために?──ぼくは我慢がならず、教師にいった。だれかがやつにおれがかれの悪口をいってたというのが、その犯意だった。そんなことをいい含めるやつを、松本は明かさなかった。その挙句、ミツホはすぐにちくるといった。じぶんがされたほうだったらやつはなんといったろう?──ぼくはいつもジャージーを着て学校にいった。それしか服はなかった。けれどもある日、ボタンシャツにベルトとズボンでいった。女の子たちが褒めてくれた。それから服装について気を配るようになった。


   *


 いつからか、かの女の存在に眼を奪われてた。髪のみじかい、少年みたいな子だった。大きな声で明るく喋ってた。日毎にかの女のことが気になった。かの女が休み時間、ぼくの机に坐る。ぼくはかの女のなまえも知らなかった。けれど「好きだとおもっては負けだ」とみずからに科した。もうひとを好きなるまいとおもった。それでもかの女を眺め、ついにそのなまえを知った。村上友衣子。どうやってかの女に近づけばいいか、そればかり考えつづけて日を過ごした。ぼくは放課後の音楽室に忍び込んだ。しばらくだれも来ないのを確かめた。じっと息をつめ、縦笛の棚に近づく。そしてかの女のリコーダーに唇をつけてしまった。おれはなんてことをしたんだろう、そうおもった。あるいはだれに見つからずにできてよかったともおもって、みずからを喝采したりもした。けれども友衣子の存在があるからといって学校での暮らしに救いはない。まえの席に坐るた小寺沙紀がいきなりこっちをむいていう。

   おまえの人生、終わっとう!

 こういった不意打ちによく遭わされた。ほかにも細見というやつがぼくに突っかかってきた。

   みんな、おまえのことばかだっていってるでぇ!

  みんなってだれだ?

   みんなはみんなや!

  だれとだれとだれなんだ!

   おまえ、塾にもいってないんだろう?

   因数分解もわからんのやろお!

   知ってるんならいってみぃや!

 こいつはやたらとしつこかった。見てくれはなよなよしたおかまのくせにぼくを攻撃する。あるとき、階段でいきなりテレビゲームを自慢した。

   おまえ、ゲームも知らんのやろお!

 残念ながらそうだった。ビデオゲームは父がずっと禁じてたし、ぼくができるのはPCゲームだけだった。細見のやつはぼくを挑発し、やつを階段から突き落としたい欲望に駈られた。そんなろくでもないことがあまりにつづくなか、よく休むようになった。休むたびに連絡帳を持ってくるのは竹村紗代だ。母が竹村さんからよと声をかける。学校じゃあ、かの女は寺内といっしょになって、ぼくへいやがらせしてるのに、こんなことでいい子ぶるなんて卑しい。たとえば、かの女と寺内のそばをぼくが通る、ふたりは悲鳴をあげてよける。ぼくは癩(らい)にかかった侏儒みたいになにもいえないで立ち尽くす。あるいは耐えて歩き去る。ぼくがわるいというのか。ぼくがなにをしたというのか。罪悪感にかられ、怒りにかられた。かの女たちに出会すたび、反撃をおもった。でも拳すら挙げられない。学校が好きだったことなんていちどもない。男から女からもいろいろな眼に遭わされつづけてる。

 竹村の家は遠いはずなのに、ちかくに棲む透や大智がやって来ないのも癪だ。友だちがいないことにうすうすながら気づき始めてた。森へ入って山茄子を食べる。もう3年まえ、うちのまえで寺内と透が野苺を食べてた。あのころがよかったなんておもわない。寺内はいやがらせをするし、宇土はもうぼくの藝も笑いも求めない。かわいかった子たちはみな変わってしまった。村上だって変わってしまうかも知れない。いや、変わってしまうだろう。余計なことはなにもいわないことだ。好きだとか、そういうことは。

 慰みにぼくは猫を飼おうした。真夜中、かれと眼を合わせた。かれは警戒心を解いて、ぼくのほうへ近寄って来た。うれしかった。クロと名づけた。でも飼えなかった。赦されなかった。夏のある日、かれが溝にいた。太陽を浴びて眼をひらきぐったりしてた。眼からどろりとした液体が流れてる。どうすることもできなかった。ぼくはかれを見殺しにした。


   *


 ぼくはボックス棚の荷物を片づけてた。荷物のなかには祖父からもらった、鉄の、小さな定規が入ってた。かれのなまえも入ってる。質のわるい同級生ふたりがそいつを見た。──それ、村上から盗んだんか?──ぼくは言葉にできず、その定規を投げ、涙声で祖父からもらったことをいった。悔しくてならなかった。


   *


 夏休みになってぼくは、はじめて酒を買った。髪をぜんぶ降ろし、貧相な格好をして、罐チューハイをいっぽん、そしてもういっぽん。退屈な家族旅行を紛らわすにはそれしかない。家には金がなかった。吝嗇家の父は田舎道をただただ走ることしかできなかった。そしてだれもいない森のなかの駐車場で朝まで車か、テントのなかで過ごす。寝苦しく、便所はひどく汚れてた。大きな蜘蛛が這いずり回って気分がわるかった。そんなことばかりつづいたあとに休みが明けた。友衣子は尾野とけんかしたらしてるらしい。ふたりはなかよしで通ってた。事情なんてなにもわからないのに、アカの豚野郎が人民裁判を要求した。こいつは善悪の判断だって、相手が子供だから好き放題やってる。九州市部から送り込まれた三流の工作員なんだろう。席の配置を変え、審判と書記長をおいた。だれもこんなことはやりたくはなかった。ふたりがどうしてああなってるかをだれもしらなかったかも知れない。紅衛兵たちがいちまいちまい紙をくばった。なにも書かれてない紙。この出来事からなにをおもうか?──てなわけだ。

  村上さんと尾野さんのことについてどうもういますか?

    なかよくしたほうがいいとおもいます。

  村上さんと尾野さんのことについてどうもういますか?

    仲直りしたほうがいいでしょうね。

  村上さんと尾野さんのことについてどうもういますか?

    ちゃんとおたがい仲良くしたほうがいいとおもいます。

村上さんと尾野さんのことについてどうもういますか?

 返答はしだいにに男子たちにもまわってきたけれど、みんないってることはおなじだ。なんの閃きもない。それよりどうしてけんかになったかを教えろよ、アカのできそこないめ。

村上さんと尾野さんのことについてどうもういますか?──ぼくはいった。──ふたりで話し合って、それでもだめなら一時的でもいいから離れるのがいいだろう。──友衣子にきらわれてしまったかも。ぼくはしばらく悔やんだ。浜崎がいう。──「離れてもいいのか?」──なにがどうあっても、ぼくにはまったく関係ないことだ。いくら愛しい友衣子のことでも、かの女の交友関係に口を挟む謂われはぼくにはなにもない。人民裁判が終わってぼくはただ坐ってた。手許には共産党網領も、毛沢東語録もない。ただただ日曜神経症を焦がれながら、友衣子の横顔を盗み見てた。


   *


 あるとき浜崎が課題を寄越した。「戦争について書いてくるように」。ぼくは書いた、もし戦争になったら自衛隊が軍隊のかわりになるだろう。母は肝を冷やした。かの女の弟は3人とも、それぞれ陸海空の士官だったからだ。かの女は手紙を添えて提出させた。面罵され、浜崎は報復にでた。たぶん戦争へのうらがえしの愛がそうさせたんだろう。修学旅行はいちばんの催しだった。だのにぼくの班は最悪だった。ぼくのところだけ、あまりものの集まり。ぼくにいやがらせをしてた小寺沙紀と久保恵里菜、それから前野という小男。まったく最悪の布陣だ。やってくれるな、浜崎め。──持ってきたカメラで夜の海を撮った。露光不足の神戸港。小寺と久保がじぶんたちを撮ってくれとせがむ。口さがない醜女なんぞけつ喰らえだ。ちくしょう、浜崎め。──フェリーと電車とバスを使って広島にいった。ぼくは恋をしてた。もちろん友衣子にだ。かの女は去年転校してきたらしい。そのみじかい髪が胸をざわつかせた。ついに精通が来て、ぼくは、ぼくがわからなくなった。かの女のことをなんでも眼に収めたくてならなかった。友衣子、友衣子、友衣子。どうせ訊いたってぼくに教えてくれるものはなにもないからだ。ぼくはかの女を写真に収めようと四苦八苦だった。それは船のなかでも、列車でも、広島市街でも、宮島でも。でもぼくはかの女に出会うことなかった。ぼくが勝手な自由行動にでても、土産物屋にいっても、被爆者のホラー人形のなかでさえも。もはや宮島はくらかった。ぼくは牡蠣の山葵漬けと、もみじ饅頭を買った。そして丘の公園でほとんど平らげてしまった。土産にもならない。それからぼくは宿にいって寺内麗奈を探した。スパッツ姿はなかなかそそる。この女のふるまいは最低品だったが、どういうわけかやってしまった。竹竿をつかって宿の窓をあけようとした。だれも声すらださなかった。しばらくして何人かのわるがきが竿をつかった濡れ衣を着せられた。かれらを眼で責める友衣子がうつくしかった。ぼくはじっとしてかの女を見る。かの女は可憐過ぎた。太陽は海へ融けた。帰りのバスのなか、ぼくはまたかの女を盗み見た。初日に来てた服を着てる。そっちのほうがずっといい。素敵じゃないか。西宮北インターから学校へ。カメラにはまだフィルムが残ってあったけど、かの女が眠るなかでぼくにできることはなにもなかった。


   *


 冬休み。父の生家まで連れられた。いろいろとまわり道をしながら、森林や渓谷を越えて美作市(みまさかし)下町(しもちよう)まで。ぼくは書きかけの漫画を持って屋敷にあがった。そいつは、はじめギャグ漫画だった。いまではヒーロー・アクションものに変わってた。石ノ森章太郎を真似て、かげのある話にした。ただひとコマだけ、女の子を桂正和みたいに描いてる。あたりに店はひとつしかない。大きめのスーパーマーケットがあって、制服の少女がふたり、狭いテーブル席で笑って話してる。どこにもいくところがない。生野にそっくりだ。祖父は土間にある小さな室のなかで火鉢に当たってた。なにか話をしようと近寄ってみた。莨を咥え、火鉢に眼を細めてる。かれは、かつての妻が死んだのをどうおもってるのか。なんとなく父の幼少について聴こうとした。かれの口が曖昧にうごき、閉じる。なにをいってるのかわからないまま、そこを離れた。居間で漫画を書いてると、学生らしい青年がやって来た。

   漫画を描いてるんだ?

  うん。

   巧いね。

 かれの室に遊びにいく。自動車や飛行機のプラモデルが棚にならんでる。机のうえには参考書がならび、いかにも勉強中みたいだ。──プラモデル、あげるよ。──かれはいい、赤いレーシング・カーと、プロペラ機をぼくにくれた。まさか、かれがいちばん若い叔父だと、そのときは知らなかったし、わからなかった。

 休みが終わった。その木曜日、うんざりしてた。マンガ制作部のための作品はページ数制限でだめになってしまった。そんなことは聞いてない。印刷はやると顧問はいう。けれど割愛され、他人の手が入ったものだ。自作とはいえない。悔しいおもいで椅子に坐った。帰りの車で母がいった。──それ、ちゃんと印刷屋さんに持っていったら。──教師に否定されたものをまたべつのところにだす、そいつは辱めでしかない。ぼくはだめだ。室の隅、なるべく見えないところへ、漫画「ナチュラル仮面団」を置く。せっかく描いたのに、だれにも見てもらえない。ぼくですら、どうでもよくなってしまった。

 卒業の催しをみんなで考え、出し合ってた。女の子は、男の子全員と服を取り合えようといった。男子みんなで反対してるのに、ぼくはひそか、女の子になって友衣子に近づければいいとおもった。あとはせいぜい唄うこと。ぼくは自作の脱獄歌を唄った。みんなが笑った。そんなもの使えるはずもない。支度がなにもかもが終わった日、上田という女が泣いてた。中学受験に落ちたらしかった。醜かった。とにかく視界に入れたくなかった。かの女はだれにでも悪態をついた。みんなに渾名をつけて呼び、世界が呪わしいというさまだったが、それでも地位が欲しいんだ。

 最后の席替え、ぼくはようやく得た友衣子の、通路を挟んだ隣の席へいった。籤引きで狡(ずる)をした。2度引いたんだ。それまでして欲しかった席だ。上田なんかざまあだ。ぼくは友衣子をちらりと見た。汗ばんだスポーツ着がよく見えた。そしてぼくはそいつを眼が焼けるまで見てた。それでもかの女とぼくとを繋いてくれるものはなにもない。やがてかの女はべつの学校へいってしまいだろうし、そのかがやきに触れることなんかないのをぼくはわかってた。醜いぼくがたったひとつ見られる白昼夢にちがいない。

 けっきょく友衣子もだんだん席をぼくから離すようになった。席替えが決まったときだって、かの女は教室のうしろで尾野と一緒にぼくを見てた。蔑んでた。ほんとはかの女もぼくをきらってるのがわかってた。どうすることもできない。嫌われる勇気だって?──ぼくはなにもせずともきらわれ、嘲られてきた。いまさらできることはない。卒業予備軍としてやることは多くない。下級生から色紙をもらったり、最后の催しを考えたり。ぼくはなにもしなかった。どうしていいかわからないまま提案やら、なにやらくだらないことをしてるみんなを見てた。アカはふんぞり帰って教卓で指令をだしてた。やつにみつからないようふるまった。やつの銀縁が光る。

   こらミツホ!

   芝居の準備をしろ!

 勝手にやってればいいんだ。またぞろやつの好きな戦争悲劇ものだった。三國連太郎が若いときの体験をやることになってた。ただし結末を変えて主人公を死なすことにしてた。愚かしさしかなかった。反戦のためにはどんな手段をとってもいいのか。戦争が起ったらこいつを真っ先に殺したい。ぼくは村の役人というどうでもいい役で、主役はいじめっこの小出だった。しらじらしい芝居。やがて暗くなってなにも見えなくなった。やがて本番が来た。終わった。全員で歌ったり、行進をしたり、くだらないことがつづいた。カーテンコールまでずっとあくびを噛み殺してた。ぼくには浜崎が戦争を期待してるしかおもえなかった。実際反戦的な人間ほど好戦的な態度をとるもので、ぼくはのちのちまでそういった手合いに痛い眼に遭わされることになる。ぼくはかれらかの女らにとって体のいい標的でしかなかった。それをおもい知るのはまだあとだ。

 やがて芝居が始まった。ぼくは小出に敬礼の仕方を教授した。祖父から教えられたものをだ。すべてが暗く、溶暗するなかで、みじかい科白をいい、なりゆきを見送る。なにもかもがまことに退屈だったにもかかわらず、ぼくはその光景を愉しんでもいた。どれだけかれらが無様な声をだすのか、それだけが期待だ。みんな、浜崎の人形でしかない。けっきょくぼくは便所にいくふりをして体育館の裏口でひとり遊びに興じることにした。


   *



 ポラロイドのフィルムが切れた。


 カーカーはくその幼児語だって聞いた

 コーヒーを呑みながら

 そういった男の銀河

 は、カーカーでいっぱいだ


 ぼくは馴染みとなったそわそわをなんとかしようともがいてる

 ハンバーガーを食べながら。

 ハイネケンをだしてくれる、

 「バーガーキング」が好きだ


 おそらくぼくが飛ぶとき

 アボガド・ワッパーとセットで持っていくよ


 黄金幻想よ、

   ──くたばれ!

11/12/19


   *


 深夜、給油のあいだじゅうずっと、滝田はバッテリやらエンジンオイル、配管の具合まですべてを見た。あきらかに苛立っていたし、スピーカーの音響にも怒っていて、なんどもスイッチを押した。配線も見た。──もういいだろうとわたしはいった。店主が降りている。滝田はおかしな声で草を買いたいといった。

    おーおー、おれも落ちぶれたもんだな。

   ないのかよ。

    いーやー、あの小屋にある。

   いってくるよ。

  どっかで休んだらどうだ?

   もうじき休むことになるよ、いやでも。

 やつのブルージーンはとてもよかった。ヴィンテージものだろう。わたしの趣味ではないが。排煙を嗅ぎ、おれたちはパラダイスにむかう。滝田はほくほく顔で車に乗って、店主にチップをはずんだ。まあ、いいだろう。わたしにはどうだっていい。

 パラダイスなんていうものはないとわたしは滝田にいった。ちんけなバーでピンボールをやるだけだって。やつは聞かなかった。ハンドルを握って夜の果てまで走るだけ。けっきょくはふたりとも疲れ切ってタコマの安宿に停まった。モーテルの灯が悲しかった。そしてちかくの酒場で呑んだ。CCをジンジャーでわった。アイラ・オブ・ジュラをロックで呑んだ。女はいない。カウガールはどこにもいないんだ。──おまえのギターはな、と滝田が口を切った。油漬けにでもして3年寝かせろよ。──それからどうするんだ?──おまえのタムでジャムでもつくるのか?

   おい、中国人ども。

 店主がいった。──おれたちは中国人じゃない。

   ともかく、いざこざを起すな。

   それからポットはてめえの室でやれ、ここじゃあ解禁されてねえんでな。

 わたしたちは黙ってそれぞれのを呑んだ。音楽はなし。地元の年寄りがあたりでわたしたちを眺めていた。どうってことはない。そろそろひけようとおもった。わたしだけでもいいから。ところがだ、滝田がひとりの男と撲り合いになって、そのままガラスごと外にだしてしまった。いったい、なにがジェーンに起こったのか?──しかたなくわたしが運転になった。滝田はジュラのボトルを持って来てた。なんていいやつなんだ。おまけにポットまである。わたしたちは立派な犯罪者だ。適当なクリークの近くに車を置き、歩いてモーテルに来た。特大サイズでビニールのポニーが迎えてくれた。それまでにわたしたちは10キロも歩いていた。若い女が降りてきた。薄茶色のみじかいボブに、昏い緑色の眼をしている。

   泊まりたいの?

  もちろんだ。

   草の匂いがしてる。

  ほんのお土産だよ。

   ありがとう、安くしておくね。

  ありがとう。──MISS──?

ロージー・フロスト。詩人とおなじ綴りよ。

  詩を書くの?

   兄が、──もうやめちゃったけど。

わたしはさっきの事件が大事になるかどうか、札を切った。占いは得意じゃない。でもやらなきゃいけなかった。でもけっきょくわたしはジュラを呑み、ポットを吸った。なにもかも大したことじゃないということがわかった。いいポット、いいフロスト。かの女のような娘と寝てみたかった。でもわたしはもうへろへろだ。滝田にまかせてさっさと眠ってしまった。

 翌朝、滝田の姿はなかった。カウンターにメモがあってロージーとでかけるとあった。きょうの夜には「ナッジ、ナッジ」での催しがあるというのに。どうしろってんだ。待つしかなかった。窓から見える、さむざむしい土地を車が入ってきた。黒いシェビーだ。もしかするにもしかしたらだ。降りてきた男はわたしをまともに見ず、いった。──ロージーが出てったみたいだな、勝手に。

  おれはなにも知らない。

  おれの相棒と一緒にどっかにいってしまったんだ。

   おまえ日本人だな、トヨタの工場はひどかった。

  おれもそう聞いてる。ひどいってな。

   おれはロージーの伯父だ。──この国は好きか?

わたしは答えなかった。好きな土地はある、ひとがいる。ただそれを説くには物事が急過ぎる。

  ロージーこそいったいなにものなんだ?

   かわいそうな娘だ。

 それ以上はいえないみたいだった。男は滝田の特徴をおれから訊きだし、さっさと村の寄り合いへ電話をかけた。そしていなくなった。それから1時間、2時間、3時間、4時間。冬の陽は暮れていく。わたしはそとへでてあたりを歩き回った。とまれ!──聞えたときにはもう頭をやられて冷たいところへ仆れてた。気がついたとき、民家の1室に閉じ込められていた。氷嚢がひとつ溶けかかって寝台にあった。殺す気はないらしい。どうしたものか、天井をみつめ、横になった。やがて扉がひらき、若くない女がケトルとグラスを運んできた。互いになにもいわないまま、受け取って白湯を呑んだ。女は椅子に坐った。階下からやがて男がきた。まだ若い男だ。

   おれのことを知ってるだろう?──いいや。

   ハンク、ロージーの兄だ。

  詩を書いてたんだって?──やめろ、死にたいのか!──きみはひとが殺せる気でいるだけだ。母親のまえでなにができるってんだ?──かれらはよく似ていた。──仲間はどこにいった?

  それはわからない。いつ帰ってくるかもだ。

  あした、おれたちはライブがあって、はやく現地にいかなくちゃいけない。あいつなしで舞台には立てない。

どうしていいか、わからない。

   ロージーはまえにおれのやったことで傷つけられたんだ。ひどいものだった。かの女にはなんの落ち度もないのにだ。それからかの女はこの町をでるといって、いろんな男をだましてきた。身体が無事なのが不思議なぐらいに。いっぽうでロージーを襲ったやつらは豚箱をでてからずっとロージーを逆恨みしてる。──手を貸して欲しい。

 わたしをじっとみるハンクはまちがったやつに見えなかった。ただ向こう見ずで、落ち着きがなかった。突っ込むのはあぶない。そうはいっても滝田のこともある。わたしは訊いた。きみはいったいなにをしたんだ?──2年まえ、村の顔役といっていい男に車を奪われたんだ。一味の棲む家に忍び込んで探した。下っ端をひとり撲った。そのときやつの女が入ってきて、おれはかの女とわるくない仲になった。そしてふたりで帰って来たんだ。──小さな物語だ。車の憾み、顔役の沽券、そして女。──でも、そいつがほんとうなら、いくべきところはやはり司法ではないか。  

   こんな田舎でなんになるっていうんだ?

 どこにだってもんな揉めごとはある。それはわかる。しかしいまは、まだ滝田がやられたわけでもないとわたしはおもい、車のナンバーを書いてハンクへ渡した。麦藁色の壁に遊覧船を描いた油絵がある。そいつをみつめ、しばらくしてわたしは立ちあがった。まだ頭が傷む。

   ここははじめてか?

  ああ、この国でどさまわりもはじめてだ。

 ハンクが笑った。気づけば夕餉のときだ。豆料理と子鹿のステーキがでた。どっちもうまかった。熱い珈琲で流し込み、ひと息つく。そのときだった。戸外を車がスピードをあげてむかってきた。わたしとハンクは物陰からそとを諜った。そこには古く、緑色のダッジがあった。まちがいなかった。けれども乗っていたのはロージーひとりだった。

  滝田はどうしたんだ?

   かれね、吸ってるうちにどっかにいったのよ。

  どっかに?

   わたしもやってたからわかんないわ。

 「そのうち、どっかで見つかるさ」とハンクがいった。わたしにはそうはおもえなかった。いまさら大麻ごときでおかしくなるやつじゃない。どこでやるか、どこでやらないかの区別くらいはちゃんとついてるやつなんだ。

  どこまでいった?

   湖のほうまで。

  案内してくれ。──わたしたちは湖へ走った。片道2時間もかかる。なんでそんなところへいったのが、どちらがいいだしたのか。ロージーはなにも憶えてないといい切った。わたしがたどり着いたとき、地面に血のあとをみつけた。追ってはみたが、あっけなく消えた。連れ去られたんだ。冷たいかぜが湖水をゆらし、わたしの胸に入り込む。ロージーとハンクは冷静だった。「このあたりには熊がいる」。だがそれと地面の血痕は噛み合わない。ひとの手が必要になる。車だってもう1台いるだろう。だがおかしなことにタイヤ痕はダッジのそれしかない。じゃあ、ロージーが?──どうして?

   いいかげんにしてくれないか?

 ハンクが痺れを切らした。わたしはあきらめて宿に帰った。夜、たったひとりで「ホワッツ・メモリーズ」にいった。3時間もかかった。ひとりでギターを弾き、ドローイングをやった。客は不在の男について訊いた。消えたなんていえない。病気だといってごまかした。終わって3時間、わたしはふたたび村へ帰った。ロージーは、ロビーのカウチに坐ってポットをやってる。わたしに気づき、笑った。わたしはなにもいわずに宿泊料を払い、じぶんの室へと階をあがっていった。夜の淵に立って、テレビをつける。ニュースに合わせ、なにも考えずに見てた。だれかがドアをノックする。掃除夫だった。わたしはチップをやって鍵を締めた。しばらくだれとも会いたくはない。翌朝、朝食を喰いにでかけた。ちいさな軽食屋をみつけて入った。ひと気がない。でもおれはテーブルについた。

   おまえさんは客なのか?

 老年の黒人がキッチンの裏から現れた。

   テーブルにいるから客なんだろうな、棍棒も持ってないし。

 かれには片耳がなかった。刃物でそっくりやられたみたいで、かろうじて耳たぶの切れっ端みたいなのがついてるだけだ。わたしの脳裏に浮かんだものは、かつて見た写真だった。私刑に遭い、吊るされた黒人たちの。女も子供も見境いなく、血にまみれ、生きたまま焼かれ。

  サンドイッチとコーヒーを。

   おまえさんは旅行者らしいな。

   どこに泊まってる?

  ロージー・フロストのモーテルですよ。

 いきなり、かれは動作のいっさいをとめて、わたしを見た。そしてカウンターに肘をつき、冷たい眼で戒めた。──やめろ、あそこからでるんだ、そうでないとおまえさんの生死はわからんぞ。


   *



 他者のなまえで

 (会ったこともないかれの、)

 だれかに酒を奢る


 このとき問題になるのはライムか、

 レモン、

 どちらを添えるかということ。


 なまえのだれかなら、

 どちらにするのか。


 天使に化けた女たちのために、

 財布をからっぽにする

 のは愉しい


 かつて酒場なぢみの女の子が犯された

 それから店には来なくなった

 真夏の夜のこと


 もしきみなら

 レモンにするだろう?

18/1/15



   *


 下級生の楽隊がマーチングを鳴らしながら鼻をほじった。屁をひったやつだっている。卒業はべつの輪っぱを撰ぶだけのことだ。なんであれ撰択肢などというものはない。リハーサルの舞台のうえでぼくはおもいだす。寺島圭吾に貸してきずものにされた「泳げ! たいやきくん」のレコードのこと、姉がいたために入れなかった漫画部のこと、仕方なくは入った演劇部、仕方なく入ったビデオ部。じぶんでつくった漫画制作部。田中良和に革ベルトで鞭打たれ、はじめてみんなのまえで泣いたこと──ミツホが泣くのはめずらしいといわれたこと、それは救いようもない羞ずかしめだ。田中は3年時に道内から転校して以来ずっとぼくをいじめてる。──下級生のとき一緒に下校してくれた年長の女の子たちのこと。かの女たちのやさしさにあふれたまなざし、そして別れ。──清濁の別もなしにいろんなものがぼくのなかにあった。

 そんなとき村上友衣子がこっちにやって来た。ちいさな紙を差しだす。自己紹介のカードだった。

   これ、書いてよ。

 かの女がぼくにいった。最高の瞬間だ。かの女を笑わそうといろいろ書いては消し、消しては書いた。憶えたての替え歌を書いた。品がなかった。かの女に渡そうと歩いてたとき、運悪く紙が教卓のまえに落ちてしまった。アカの分隊長がいう。

    これはなんだ?

    だれに渡された?

 答えなかった。友衣子を守らなくてはならない。たとえかの女にきらわれてても。当然。

    いったいだれが渡したか、教えるんだ。

    教えろ!

けっきょく教室全部に渡った声にぼくは負けてしまった。──村上さんです。かの女からもらいました。──めざわりだ、あっちへいけ。やがて友衣子が呼ばれた。ながい説教を受けている。でも声が聞えない。それでもじぶんが辱めにされてるのはあきらかだ。あのやろうだけは赦さない。ぜったいに殺してやる。かの女がかわいそうで、かの女にわるく、申し訳なかった。恥ずかしかった。友衣子はもうなにもぼくにいわなかった。カードのことがどうなったのか、知りようもない。家はどんどん貧しくなった。改築のために、コンピュータのために。父の尊厳と願いのために貧しくなり、ぼくはたったひとりでそれにつきあった。家の仕事はみるみるきつくなった。母屋をどうするつもりなんだ。絵を描くこともできないまま日は転がって、それが秋になったり、冬になったり、春になったりした。きれいに建てられた近所の家々がうらめしかった。アマチュアがプロの仕事するわけがない。父の近所でも指折りの変人だった。おかしくなってく家を見て、ひとびとが立ち止まった。ぼくは恥ずかしくてならなかった。こんなところから早くでるべきなんだ。

 校庭に穴を掘った。またしても浜崎がろくでもないのをやってる。青い屑入れに未来への手紙を書こうという。ぼくはいつもいじめる田中良和について書いた。やつがにやにやしながら、それを見る。気味がわるい。

   実名で書かんで、Aくんとでもしとけよな。

 ぼくはそれに不承不承従い、書きつづけた。それでも、けっきょく浜崎にこんなことは書くべきではない、そういわれて手紙は処分された。ぼくはポリバケツになにも入れず、そいつが埋められるまでなにもいわずに見た。小雨が降りだした。なにか汚らしいものにすべてが見える。ぼくはどうしてこんなところにいるんだろう。ぼくのことを気づかうひとはない。曇った空のもとでなにもかもが終わってしまう。暗い。


   *


 ぼくは広島で買った小さなカメラでみんなを撮り始めた。ほんとうは友衣子が目的だった。大上里菜というきれいな子に頼んで女の子たちの写真を撮ってもらった。どういうわけか、大江には緊張しなかった。かの女のほうも悪名高いぼくにどうしてか、平然としてた。


   *


 父親も浜崎も手強い大人だった。ひとから大切な願いや望みを奪うのがとんでもなく上手だった。同級生たちだってそうだ。ぼくにできるのは空想と絵しかない。こんなものでは勝てるわけがない。友衣子は私立にいくだろうか。かの女みたいな娘がこんな掃き溜めにいるわけがない。それでなにもかも終わりだ。卒業式、母は来なかった。大上里菜に少しどきりとした。赤い唇が大人ぽかった。とまどう。とってもきれいだったから。ぼくは小さなカメラであたりを撮った。恥ずかしさも飛び越えて友衣子を、友衣子を。──でもなにも写ってなかった。シャッターは緩いし、フィルム感度はわるい、おまけにファインダーを使うと、対象から1メートルはうえを撮ってしまうからだ。友衣子の頭上しか写らない。大智とともにかれの母親の車に乗った。窓からみる校門にまだかの女のかげがある。さようならもいえなかった。声。学校は淋しい建築だとぼくは覚った。だれかを拒み、仲間たちの結束を高める場所だ。そこから洩れたものには、もう居場所なんかない。彫り抉られた子供たちがきょうもコサックを踊ってる。ぼくはかれらかの女らのために花束と、伴奏を連れて来なくちゃいけない。さらば学校よ、ぼくはどこでもないところにいくんだ。


   *







天唇という一語のために滅びたし黄砂のなかのゆいこを見ばや









18/2/15

   *

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裏庭日記/孤独のわけまえ 中田満帆 @mitzho84

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