≪TU-04 -渡る世間に鬼はいない- 3/3≫

「おめさん、いつもご苦労様だね」


 突然、目の前に缶コーヒーを差し出され、臼井は思わず立ち上がる。


「ほれ、飲みなっせ」


 いつの間にか傍らに七十代ぐらいと思しき、腰がやや曲がった白髪の女性が立っていた。

 両手で缶コーヒーを受け取る臼井。缶の冷たさが染み渡る。


「あ、ありがとうございます」


「ほれ、おめー、何やってん。人様と話すときはマスクせねばダメらねっけ」


 家の敷地の中から同年代であろう男性が、白髪の女性に声をかける。

 男性も女性もマスクはしていない。そして、男性の頭には年相応に髪の毛もなかった。


「いーねっけ、これくらい。なー、おにーさん。別にあんた、風邪ひいてるわけじゃなかろ? 丈夫そうらねっけ」


「いやまあ、そりゃそうですけど」


「ほら、困ってんねっか。すまんな、おにーちゃん」


 髪の毛の無い男性の言葉に、臼井は申し訳なくなる。


「どうせ、あたしら、感染してもしなくてもぽっくりいくんだっけ、いいねっか。なあ?」


 白髪の女性の言葉に、臼井はどう返答していいのか困ってしまう。


「ほれ、飲みなっせ。よくここで頑張ってるっけな。いつも見とるんよ」


「ここは今日で最後なんです。明日からはまた違う場所なんで」


「ほえー、あちこち行かされて大変なんね。ま、がんばってな。よかったらまたこいね」


「はい、ありがとうございます。これ、ありがたくいただきます」


「うんうん、がんばってな。ほいじゃ」


 白髪の女性は、腰をかがめながら男性の待つ家の敷地の中へと入っていった。

 臼井は受け取った缶コーヒーのフタを開け、マスクを顎に下げて一気に飲み干す。

 身体に染み渡るコーヒーの冷たさとほろ苦い甘さが心地よかった。


「よし」


 臼井は汗で湿っているマスクを鼻までしっかり塞ぐ。

 立ち止まって嘆いていても仕方ない。

 臼井はヘルメットを被り、ボックスを閉め、バイクに乗ってエンジンをかける。

 ゆっくりターンをして、先ほどの女性が出てきた家を見ると敷地の中で二人が手を振っていた。

 臼井は二人に軽く手を振り、町内を走り去っていった。



 戸石は夕暮れの並木道を歩く。

 8月も終わりを迎え、時折、行き交う人々はみな、マスク。

 正直、戸石は息苦しくて仕方なかった。

 だから、こうして家を離れ、一人、外の空気に当たりに出ている。

 ときどき人が途切れた頃合いを見計らって、マスクを顎に下ろし、精いっぱいの風を吸い込む。

 肺にいきわたる新鮮な空気。

 ほんの少しだが、息苦しさがまぎれる。

 そして、帽子の位置を正し、並木道を歩く。


「おじさーん」


 背後から呼びかけの声。

 あわててマスクを戻し、振り返ると声の主はロードバイクに乗ったフカザワだった。


「おお、フカザワくん」


「どうも、いつもお世話になっています」


 フカザワはバイクを止め、ヘルメットを取り、マスクを顎に下げてお辞儀をした。


「君は礼儀正しいよな。うちのヒメに見習わせたいよ」


「いえいえ、ヒメさんも立派ですよ。こうしてお店の事を考えて、新しいメニューの開発に取り組んでいるんだから」


 フカザワは背中に担いだバッグを戸石に見せる。


「新しいメニュー?」


「ええ、政治家どもに思い知らせてやる!って。ほら最近、エビデンスだのオーバーシュートとかソーシャルディスタンス」


「ああ、オーバーシュートとかサッカーかよ。って感じだよな」


「ああいう連中は所詮、俺達みたいな庶民なんかどうだっていいんですよね。自分の事しか考えていない」


「全くその通り。全くその通りだ」


 戸石はとにかくうなづく。


「それで3蜜アイスのように対政治家アンチ用のメニューを考えてるんですよ。俺達も協力して」


「なんだそりゃ」


 戸石は歩き出し、フカザワもバイクを押して共に歩く。


「だってそうでしょう? ちょっと前まではイノベーションだのプライマリーバランスだなんだって、適当なカタカナでごまかして、庶民を苦しめ、自分達は官僚どもとうまいメシを食っている。許せませんよね」


「ほんとだよな」


「知ってます? 新型コロナってただの風邪なんですよ。でも真実は誰も話さない。だって政治家も官僚も自分達は責任取りたくないから。問題を先延ばしにして、みんながこの問題を忘れるのを待つって計画なんですよ」


「そうそう! そうだよな!」


 興奮した戸石は思わずマスクを顎に下げる。


「総理だって持病を理由にして逃げた。またこの冬になって本格的に感染が広まるし、今後、自分のやったことでボロが出始めるから、その前に全部の責任を後任に押し付けたんですよ。いやー、かしこいですね」


 並んで歩く二人の背後に、ジョギングしている男性が近づいてきていた。


「今の飲食の営業時間規制もそうだよな。自分達はこっそり料亭とかでマスクなしでうまいもの食ってんだよな」


「だから、俺達もやり返そう。お前らが俺達をバカにするのなら、俺達だってお前らをバカにしてやろうって」


 ジョギングしている男性の存在に二人は気づいていない。男性は二人が並んでいるため、追い抜けないでいた。


「そうだよなー。いつまでこんな世の中が続くんだか。早く終わって、普通に営業できるようになって欲しいよ。飲食店ばっかりずるいって言うけどさ、俺達、真っ当に生きてただけなんだぜ。それが急にできなくなったんだ。それがどういうことか、少しは俺達の気持ちもわかってほしいよ」


「本当ですよね。じゃ、俺、そろそろ待たせるのも悪いから行きますね。おじさんもいいメニューができたら試食をお願いしますよ。それまでお店の厨房、お借りしますね」


「おう、好きに使ってくれよ。やっと先週、給付金が入ったからな。当面はバタバタしないで済む」


「え、本当ですか。おめでとうございます。僕達も期待に応えられるよう頑張りますね」


 軽く頭を下げてメットをかぶり、バイクにのってペダルを踏むフカザワ。

 戸石は軽く手を振ってフカザワを見送る。

 ようやくできた通れる隙間を、ジョギングの男性は駆け抜けていく。

 戸石はそれを見て、マスクを口元に戻す。息苦しいので鼻まではふさいでいない。


「あ、そうだ」


 フカザワはバイクを停める。ジョギングの男性はぶつかりそうになりつつも、なんとか避けて通り抜けていった。


「よかったら、短期のバイト、紹介しましょうか?」


 フカザワは戸石に呼びかける。マスクは変わらず顎に下げたままである。


「バイト?」


「ええ、コールセンターのバイト。今、いっぱい短期で募集してるみたいなんですよ。どうせ冬になったらまた感染が広がって自粛ですよ。その間だけでも他の仕事してみるってどうです?」


「短期のバイトか……」


「自分、知り合いに連絡先聞いておきます。よかったら考えておいてください」


「おう、わかった。後で俺のスマホ、教えるよ」


 戸石はマスクを掴んで口元を広げ、返事を返した。


「はい、それじゃまた!」


 フカザワはマスクを上げ、勢いよくペダルを踏みこみ、前を走るジョギング男性を追い抜いて行った。

 戸石もマスクを上げ、歩きながら考える。

 今夏に訪れたと言われている第二波。ピークを迎えたと言いながら、今も感染者は百人を切ることは無い高止まりの状況。

 今のまま、ただ浮かない気持ちでお店を開けていても、いいことは無い気は確かにしていた。

 正直、良い悪いは別にして、目標を作って動いているヒメやフカザワがうらやましかった。

 飲食以外の仕事はしたことはないが、コールセンターならば接客の延長ではあるだろうし、そこまで適正が無いわけではないとは思えた。


「ちょっと試しに冒険してみるかな」


 戸石は前を向いて歩き始める。

 その足取りは緊急事態宣言以降、初めての軽い足取りに感じられた。

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