≪GT-03 -オカネクダサイ- 1/3≫

 真っ白に精魂尽き果てたアゴマスクのショウが、椅子の背もたれに全身を預けて、天井を見上げていた。

 眼には力がなく、口はただ開いているだけ。

 斜向かいに座り、モニターに向かうマスクのリョーコの眼鏡の奥には、真剣のような鋭い光を放つ眼差し。

 オフィスには二人だけ。ただ静寂だけが空間を支配する。

 デジタル表記の時計が一分、また一分と時を刻む。

 リョーコはコーヒーを口元に運ぶ。しかし、そのコーヒーはマスクに阻まれ、リョーコの口元には届かない。

 コーヒーの琥珀色がリョーコの白いマスクを染め上げて、マスクを伝ってコーヒーがぽたぽたと数滴か、机に落ちた。


「あ、やっちった」


 リョーコはマスクをとって口元と、コーヒーが伝って落ちた机の上をマスクで拭きとっていく。


「たいへんたいへん」


 リョーコはさらにスプレーボトルに入った消毒用の次亜塩素酸水を吹きかけ、そこをティッシュでさらに拭いていった。

 ショウの身体が椅子の背もたれからずれて、ドサリと床に落ちた。


「……大丈夫?」


 リョーコは眼鏡を外し、仰向けに倒れたままのショウに歩み寄る。


「えいっ」


 リョーコはショウの顔にシュッシュッと次亜塩素酸水を吹きかける。

 ブッと顔をゆがめてショウはシュバッと飛び起きた。


「何すんですか、いきなり!」


「消毒」


 シュッシュッと、リョーコはスプレーノズルのレバーを引いた。


「消毒じゃねーよ、人の顔を何だと思ってんだ!」


 ショウはシュバッと身体全体で抗議の意を示した。

 シュッ、とリョーコはスプレーノズルのレバーを引いた。


「いや、シュッじゃなくて」


 リョーコはシュッシュッとスプレーノズルのレバーを引いた。


「言葉で返事してくださいよ!」


「別にいいじゃない。マスクもようやく価格が落ち着いてきて、このあやしい次亜なんとかスプレーとももうすぐお別れできるのよ。今のうちに思い出を作っておかなくちゃ」


「あやしくはないでしょ」


「『「次亜塩素酸水」の空間噴霧で、付着ウイルスや空気中の浮遊ウイルスを除去できるかは、メーカー等が工夫を凝らして試験をしていますが、国際的に評価方法は確立されていません。』」


 リョーコはスマホを取り出し、画面を見ながら、スプレーを持った手を腰に当てて語り始めた。


「『安全面については、メーカーにおいて一定の動物実験などが行われているようです。ただ、消毒効果を有する濃度の次亜塩素酸水を吸いこむことは、推奨できません。空間噴霧は無人の時間帯に行うなど、人が吸入しないような注意が必要です。なお、ウイルスを無毒化することを効能・効果として明示とする場合、医薬品・医薬部外品の承認が必要です。現時点で、「空間噴霧用の消毒薬」として承認が得られた次亜塩素酸水はありません。」』」


 リョーコは、どうよ。と言わんばかりにショウの眼前にシュッとスプレーを吹きかけた。


「言葉の暴力反対」


 ショウはスプレーに濡れた顔を拭いながら、立ち上がる。


「そりゃ誰だって次亜塩素酸水が消毒用アルコールスプレーの代替品だってわかってますよ。一番いいのが無いんだから二番を使うしかないじゃないですか。だから政府だってわざわざ布マスクを二枚も全国民に配った」


「転売屋さんはさぞかしお困りになったでしょうね」


「人が困っていることをいいことに、あくどい事をする連中がいたもんですよ」


「むかしむかしあるところに」


「今度はいつの時代ですか」


 あきれ笑いしつつも、ショウはリョーコのお遊びに付き合ってしまう。正直、ちょっとだけ楽しいのは内緒である。


「みんながマスクが買えなくて困っておりました。朝からお店に並んでも、お店が開いても、閉まる時間になっても買えません。マスク、マスク、ああ、マスク。マスクが無ければ外にも出歩けない。みな、日がな一日中、朝から晩までマスクをもとめて外をさ迷い歩いておったそうじゃ」


 それはほんのひと月前ほどの出来事ではなかったか。昔と言えば昔なのだろうが、ショウはあえて突っ込まなかった。


「そんな中、ある人は考えました。今ならマスクが高く売れるではないか。ちょっと自分のところの通販で売り出そうではないか」


「十枚三千円くらいですか?」


 ショウは席について、ペットボトルのお茶を口に含んだ。


「二枚で三千円」


 ショウはお茶を噴き出した。


「それはさすがにボリすぎ! もうちょっとリアルな値段設定にしてくださいよ」


「……事実は小説より奇なり。割とある話じゃない、どう考えても嘘だろうって話が実は本当にあった事でしたって」


 ショウの口元拭いながらの抗議に、リョーコはニコリと笑顔のままである。


「いやいや、ウソでしょ? タダで二枚配られるのに、わざわざそんなマスク買う人間いないでしょ」


「でもタダで配られなかったら、みんな買わざるをえないでしょ」


「どこの時代劇の悪徳商人ですか」


「理由はなんにせよ、自分が正しいと思うのなら堂々と売ってればよかったのよ。あなたのとこもマスクを売ってますよね?と突っ込まれてあわてて取り下げたのなら、やっぱりお天道様の道に反する行為だったのではなくて?」


「ま、与太話として受け取っておきますよ」


 ショウは飛び散ったお茶をティッシュで拭き取りながら返事を返した。

 マスクが店頭に出回り始めた今となっては、マスクの高騰も昔の話。

 こうやって少しづつ世間は平常を取り戻していくのだろう、とショウは思った。


「世の中、二番でもいいことって結構あるわよね。消毒しかりマスクしかり」


「センパイにしては珍しいですね。その発言」


「そう?」


 リョーコも自席に戻った。マスクをせずにいるが、今は二人だけだし、オフィス内では言うほどのことではないか。とショウは思った。


「だってセンパイって一番じゃなきゃ認めない。常に一番を、上を目指し続けるキャラじゃないですか」


「なによ、ソレ」


「仕事には妥協しない。センパイがやめる前の最後のプロジェクトも、背中まで伸びてた髪をばっさり切ったじゃないですか。スポーツ刈りのボウズ頭に」


「ベリーショートって言いなさいよ」


 ショウの言い方に、リョーコは笑う。


「クライアントがあんまりワガママ言うから啖呵切ったんじゃないかって、みんな噂してましたよ」


「やだもう。確かに、ムカついたから黙らせようと思ったのは確かだけど」


 リョーコは照れた。


「え、マジだったんですか?」


「他に私がそんなことする理由ある?」


 リョーコは平然と答えた。


「傑作だったわ、あの時のクライアントの担当の顔。言葉じゃなくて形で謝罪しろ、ってぬかすからさ。わかりましたってバッサリやってやったの。そしたらダンマリ」


 リョーコはケラケラと笑う。


「センパイってやっぱりオトコですよね」


「ありがとう」


 リョーコは男らしい返事を返し、胸を張った。

 リョーコはスリムでスマートでスタイリッシュである。

 もしかしたら皮肉にも聞こえたかもしれない、とショウは思ったが、特に気にしてる素振りには見えないので、それ以上気にしないことにした。

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