≪TU-03 -目の前の現実は夢ではない- 2/2≫

「客商売で先輩ヅラをするなら、トイレぐらい暖房便座に真っ先に変えとけよって話です。なんで一番最後に店に入った俺が、会社と交渉してあれこれ世話を焼かなきゃいけないんですか。着替えのジャージしかり、タオルシーツしかり。店の釣銭だって自分達のポケットマネーで両替してたんですよ、ありえないですよ。会社に言えば釣銭増額できたし、実際に自分がこの店に来て真っ先にやったことがそれですから」


 臼井はそこで、あえてゆっくりと告げる。


「それでどうなったか。……忘れた。とは言わせませんよ」


「そこは俺が礼を言うよ。店の事を考えてくれて本当に感謝してる」


「俺はお客さんが来てほしいからやっただけですよ。この店のためでも連中のためでもありません」


 臼井はカウンターに肘をつく。


「この店が繁盛するのは、60分三千円の低価格と駅前の一等地で朝10時から翌朝5時までやってるのであって、セラピストの力じゃない」


「それは言いすぎだよ」


「でも真っ当な評価でしょう? 実際、税金と一緒に値上げしたらあからさまに客足落ちましたからね。偉そうなことを言うなら会社の看板ではなく、自分の看板で客を集めてみろ。という話。今みたいに自分が出たい時間だけ店に出て、あとは他の人間にほっぽらかして帰るみたいな真似なんかできませんからね。掃除、洗濯なんかするのが当たり前。お客さんがお店の予約をして来店して、その人をお前がもむのに、どれだけ多くの人間の協力があったのか、本当に理解できてんのか。という話です」


 臼井はノートをカウンターに投げ置いた。


「……君は本当にそういうところだぞ、直さなきゃいけないのは。前も言ったじゃないか、スタッフから反感買うような事をするんじゃないって」


「なら連中が俺に反感買うようなことも遠慮してもらわないと。一方的に不利益だけ被るのは勘弁願いたいですね。俺も連中も、お互い上下関係がない対等な関係なんだし」


「そこは大人が我慢してあげないと。やっぱり向こうは子供。君みたいに色々な事情の理解なんかできないんだよ」


 臼井はハハッと笑う。


「大きな子供……ですか。俺はこの店に介護しに来てんじゃないですよ」


「でも今回みたいに嘆願書出されて、仕事ができなくなっちゃったんじゃ意味がないだろう」


「どうせ緊急事態宣言で仕事なんかできないじゃないですか。それがなかったら今回の嘆願書だって受け入れなかったんでしょ」


 笑いながら告げる臼井の言葉に、電話の向こうでも言葉に窮して、苦笑いしているのがわかった。


「そういう意味じゃ、連中が俺に除名の嘆願書出してくれて感謝してるんですよ。宣言出てない地域でも今、21時閉店なんですよね? この店じゃ仮に営業再開しても21時閉店だと、もう俺の居場所はないだろうなって。昼間に時間ずらすにも、感染対策とかでベッドを今の10から5に減らすとなると、それだけでベッドが足りなくてセラピストがあふれちゃうし。……こんなの俺だけに限った話じゃないでしょう?」


「そうなんだよ。実は今、会社もやばいんだよ。正直なとこ、俺もいつまでいられるか」


 臼井に対するイノウエの返答は実状を現していた。


「出た。どうするんですか、実際」


「どうもこうも。……どうしたいいかな?」


「そんなの、俺が聞きたいですよ!」


 臼井は笑いながら叫んだ。


「いやほんと、俺も参っちゃってんだよ。去年の値上げあったろ? あれ、結構効いててさ。それで今度の宣言で研修所閉鎖。もう店も結構閉店が決まってるとこあるんだよ」


「さすが。フットワークは本当、軽いですよね。以前のストレッチの新事業の時も開始から三か月で閉鎖決めたときあったけど、さすがの判断ですね」


「冷静に分析しないでくれよ……」


「ほめてるんですよ。やらかすけども軌道修正が早い。いいことですよ」


「大変なんだぞ、処理するの。実際、社内も人が部署をまたいで動きまくってるんだ。他人事みたいに言わないでくれよ」


「でもまあ他人事ですからね、今日を限りに。この店に関しては、この店を愛するセラピストの方々がずっとお店を支えていくと会社に決意表明されたんでしょう? ぜひ頑張ってくださいとお伝えください」


 臼井はつとめて平坦に、笑って告げた。


「……君はこれからどうするんだ」


「どうもこうも。給付金が出るから、それでしばらくのんびりしようかと」


「ああ、そうか。百万のやつか」


「ええ。最初、会社で面接受けたときにセラピストの開始届とか、何でこんなの書かせるんだろ。とか思ってましたけどね。今となっては感謝してますよ。そのおかげで自分で確定申告もできるようになって、会社に頼らなくても個人で生きていける方法がわかりましたから」


「君はもっと他人を頼るべきだと思うぞ」


「性分ですからね。こればっかりは」


 臼井はお手上げですと、空いてる右手を上げた。


「どこかアテがあるのか」


「いくらでも。自分はこんな事態は初めてじゃないですからね。今回は給付金が出るだけマシな方です」


「……君は強いよな、全然へこたれないというか」


 電話口でもイノウエがあきれた笑いを浮かべているのがわかった。


「正直、深夜の仕事をこれからもずっと続けていくのには限界を感じてましたからね。だから、会社に深夜帯に人を増やせと言い続けてきたわけで」


「みんな深夜は嫌がるからな。人を増やすのって大変なんだからな? まったく」


「俺だって嫌でしたよ。ただ台湾の人のお店で、忙しいのは夕方から深夜二時だって知ってましたからね。だから、ここみたいに昼間っからでもお客さんがいっぱいの店があるなんて思いもしませんでした」


 臼井は使わないベッドが端に追いやられた店内を見回す。


「ここも前いた会社でクビを切られて、じゃあどうしよう。ってなって合間のつなぎで来ただけですから。それなりに食っていけたから続けてきたけど、ずっと続けるのか。と言われると……なんですよね」


「まあ、そうだよな。深夜手当もないし」


「会社側の人間がそれを言いますか」


 臼井は笑った。


「俺達だって、色々会社側に待遇改善の要望出してるんだぜ?」


「知ってますよ。なのに店で働くセラピストは会社に全部丸投げで、ろくに何もしようとしない」


「そう、そうなんだよ! ……いや、でもちゃんと店全体できちんと話し合ってる人達もいるんだぜ。あれこれ考えて営業努力しているお店の紹介してる社内報は君も見てるだろ。それに開店と閉店、オープンとラストを担当するセラピストにも手当、インセンティブがつくようになった。特に君みたいにラストを一人で担当するセラピストには恩恵が大きくなった」


「まあその恩恵には、僕はあずかれないまま去ることになりましたが」


「……それは悪いと思ってるよ、すまん」


「気にしないでください。色々なめぐりあわせがあって、たまたまこうなった。誰のせいでもないですよ」


 時計を見ると午前十一時を回っていた。


「それじゃ、そろそろ自分は行きます。店の鍵は店の郵便受けで良いんですね?」


「ああ、頼むよ。いままでありがとう。もしこの緊急事態宣言が収まって、行くとこがなかったら、またうちの会社に来いよ。待ってるから」


「はい、ありがとうございました。それじゃ」


 臼井は通話を切り、荷物を持って店を出る。

 最後に店を出るとき、もう一度、店の中を見渡す。

 使っていたベッド、待合室のソファー、施術待ちの時間つぶし用の漫画の入った本棚、接客で使うタブレット、電話などの機材。

 それらは全て、自分がもう二度と使うことはない。

 臼井はゆっくりと店の扉を閉め、そして鍵をかけた。

 誰もいなくなった店内には鐘の音が小さく、いつまでも響いていた……。



 ビルの入り口を抜け、駅前に出た臼井を迎えたのは凍り付くような静寂だった。

 季節は5月の中旬を迎える正午前。

 普段までなら人通りも多く車もたくさん行き交い、商店街もにぎわっていた。

 それが今は何も無い。

 人も車も、営業している店さえもない。

 静寂に包まれた世界をただ春の日差しだけが冷たく照らし映す。

 全身を寒気が襲う。

 十年ほど前に東日本に起きた大震災。

 あの時も何日間か自宅待機をすることになったが、それでも行き交う人や車の音、物資が欠乏することはあったがそれなりに営業しているお店はあった。人の存在を感じることができた。

 それが今回は何も無い。完全に凍り付いていた。お店の前には看板ものぼりもなく、駅を出入りする人さえもいない。

 よくある感染症がテーマのSF映画であれば、ごみが散乱していたり、看板がボロボロだったりともう少し演出がされているのかもしれない。

 しかし眼前に広がるのは人の存在だけが感じ取ることのできない、ただきれいに片づけられただけの太陽の光だけが照らす冷たい世界。

 まるでリアリティの無い、現実の世界。

 目の前の光景を信じることができず、ただ、その場に立ち尽くす。

 感じるものは今まで感じたことの無い、恐怖。

 どれほど立ち止まっていただろうか。

 臼井は目の前を光景を否定するように頭を振って、どうにか正気を取り戻す。

 そして、眼前の人の消えた世界から逃げるように駅の中に駆け足で向かっていった……。

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