≪KK-03 -ふたりはプリムラ- 1/3≫

 ふたりきりのオフィス。

 緊急事態宣言が明けて、ひとまず人々の活動は再開したものの、夏に予定されていた国際大会は延期となり、またあらゆるイベントも中止に追い込まれてしまった。

 みさをと小須戸のふたりが今、議事録を通じて調べている府においても緊急事態宣言期間中に計1,800名の感染者が確認され、一日の最大感染者数も92名にまでのぼった。

 しかしながら、多くの専門家や関係者、事業者、府民の協力を経て、現在、一日の感染者数は0ないしは1名程度にまで抑えられていた。

 第二回の専門家会議の議事録では知事の感謝の言葉とともに、第二波に対する府の戦略を冷静に分析しなければならない。とあった。


『この感染症をここまで抑えるに至る過程として、大きな犠牲を伴った。社会経済には強烈なダメージを与えている現状、未知のウイルスとの闘いであったため、第一波においては何とか抑えようということで必要であったと思うが、第二波に備えるためには、第一波の経験、事実の分析を行い、社会経済に与えるダメージを最小化しながら、感染症対策を最大化するということを追求しなければならない。』


 知事の冒頭発言の中の言葉である。


『未知のウイルスと正面から対峙していくなかで、府民のみなさんの命を守る、感染症からの命を守る、社会経済の命を守るということをやっていきたい。専門家のみなさんの忌憚のないご意見をいただければと思う。』


 今回、専門家として物理学、ウイルス学の教授が招かれていた。

 物理学の方からは主にK値という指標を用いて説明がされている。


「K値ってなんなんやろ。なんだかよくわかりません。わかります?」


 正直、小須戸にもさっぱりだった。

 だがK値を使って説明されている以上、その内容を読み取っていくしかない。


「『資料2ページは日本の感染者推移を対数グラフにしたもの、報道で出るのは緑の線。日本だけが直線的に推移、他国の緩やかなカーブ、日本だけ指数関数的に感染が拡大していると言われてきたところ。』」


 まずは小須戸が資料に目を通しつつ、議事録を読み上げていく。


「『ところが、よく見ると、第一波の感染者数が、欧米発の第二波に積算されている、第二波のみをとってみると日本は普通の形、タイと時期・高さが違うが似ている。日本が特別ではなく、非常に運が悪かった。第一波が収まりかけたところで、第二波が始まりかけたがために、直線的に推移しているように見える。分けてみれば、ごくごく普通の形をしている。』」


「……これって、最初の緊急事態宣言が第一波で宣言の延長が第二波ってことなんでしょうかね」


 小須戸は議事録の続きにいったん目を通す。

 だが、その続く先はK値の説明だった。

 読んでる方も聞いてる方も謎まみれ。読んではいくものの、ふたりの頭上にははてなマークが飛び交っていた。

 物理学観点からの説明は他国との比較に移っていく。


「『欧米ではロックダウンをしても、日本の収束スピードに比べると若干遅い。その意味では、日本の収束スピード

 は欧米に比べ特異的、最初から最後まで早いスピードで収束している。それからロックダウン解除以降、感染再拡大の兆候は見られていない。ドイツでは、その兆候が見られたという報道もあったが、解除直前に感染者の数が減っており、解除後に増えているため、解除直前に検査を控えていた人が解除後に検査を受けたという考えも成り立つのではないか。』」


「この具体的な比較ならわかりやすいのに、なんでわざわざK値だのって難しい言い方するんやろ。ほんま頭の良い先生の考えることはわからんわぁ」


 みさをはカモミール・ティーを一口飲んで、つぶやく。

 そして、再びK値の話を経て、いったん説明のまとめである。


「『K値の解析により、施策の評価、感染者推移の予測、再拡大の兆候の検知が限定的だができる。日本におけるCOVID-19の感染拡大の特徴は自然減の傾向が強く、欧米のような感染爆発は起きない。収束スピードは一定で緊急事態宣言の効果は極めて限定的、クラスター対策班のターゲット戦略は、素早い対応で効果的。3月末からの感染拡大は第二波と考えるべき、原因は欧米からの感染者の流入である。』」


 小須戸は一旦、間を置き、続きを読み上げる。


「『新しい波に備えては水際対策、クラスター対策、早期検知が重要。経済を停める必要はない。経済を停めても、新型コロナは止まらないというのがメッセージ。3月中旬頃までに実施された対策、行動変容は効果があった可能性がある。そのあとは収束スピードが変わっていないため、3月後半の対策は効果が限定的、効果がほとんどなかったのではないか。隣接する県との往来自粛はたぶん効果なかった。感染メカニズムの理解と日本で強い自然減の傾向をもつ理由の解明が大切、専門家にきちんと調べていくことで可能になると考える。』」


「じゃ、次はウチの番ですね」


 みさをは議事録に目を通しながら、読み上げていく。

 続いてはウイルス学の観点からの分析、50種類以上ウイルスを扱っている獣医、ワクチン開発、動物における新興感染症、ヒトの感染症を扱う教授との冒頭の発言である。


「『獣医がなぜヒトの領域を扱うかというと、新興感染症というのは獣医の領域でもある。ヒトのウイルス感染症は、すべてが動物由来である。ヒト新興ウイルス感染症は年々増加している。毎年数個は確実に増加しており、要因は様々あるが、今回は人が移動したことが大きな原因となる。ヒト新興ウイルス感染症は、いろいろな動物からやってくるが、もともとの動物では病原を起こさない。新しい宿主にやってくると病気を起こしていく。多くは、その後弱毒化し、宿主に馴染んでいくことが多い。』」


 小須戸もみさをの読み上げに耳を傾けながら、カモミール・ティーで喉を潤す。

 みさをの声は弾んでいるように聞こえる。

 読み上げの前にふたりで軽く資料に目を通したのだが、ウイルス学教授が用意した資料にはメガネをかけたかわいい猫のイラストが掲載されており、それを見たみさをの全身からは、これは私のものだ。といわんばかりの興奮があふれ出ていたのだった。


「『ウイルスには病気を起こすもの、起こさないものがあり、病気を起こすものについては非常に研究されているが、病気を起こさないもの、特に野生動物で病気を起こさないウイルスについては、あまり研究が進んでいない。しかし、新興ウイルス感染症は主に野生動物、家畜、伴侶動物、ヒトの新興感染症は、動物由来であり、本来の宿主では非病原性である。病原性ウイルスだけを研究していては、新興ウイルス感染症を予測できない。病原性ウイルスのみならず、非病原性ウイルスの網羅的研究が必要である。』」


 みさをが読んでいるからでは無いとは思うのだが、さっきの物理学観点からの説明と違って、ウイルス学からの説明はかなり聞き取りやすく、内容も具体的でわかりやすかった。


「『今回の新型コロナウイルスは動物由来である。今回はキクガシラコウモリ、センザンコウと言われており、ベータコロナウイルスの中に様々なコロナウイルスがあり、コウモリ以外のコロナウイルスの病原性が高い。SARSコロナウイルス、MARSコロナウイルス、今回の新型コロナウイルスは、コウモリからやってきている。他にもヒトコロナウイルスなどのコロナウイルスがあるが、牛、鹿、犬などの伴侶動物からマウス、ラットの小動物、あるいは

 ラクダなどからやってきている。今回の新型コロナウイルスが出現したが、今後様々なコロナウイルスがヒトにやってくることは予測できる。』」


 みさをはいったん息継ぎに、カモミール・ティーを口にして続きを読み上げる。

 いちいちマスクを上げ下げするのは煩わしいが、仕方のないことだった。


「『新型コロナウイルスは2月3月の初期情報の時点でいろいろなことがわかった。発症までの潜伏期が長い。ウイルスに感染しても発症しない人が多い。若年層の致死率が低く、高齢者の致死率が高い。感染者の多くが他の人に感染させているわけではない。そして重要なのは、発症してない人からも感染しうることが明らかになり、より制御しにくいウイルスとわかった。水際対策、クラスター対策は重要だが、それだけでは防ぐことができないということが2月、3月の時点でわかった。』」


 小須戸の脳裏に2月、3月の状況が思い浮かぶ。


「『そして、重要なのは発症していない人から他の人に感染しうるということは、自分が移らないことより、他人に移さないことに注意を向けた方がよいとうことに気が付き、発想の転換をした。最初はWHO等もマスクの重要性を言っていなかったが、最近は重要であることが明らかになった。もちろん、マスクの取扱いとか注意しないといけないが、感染している人から他の人に移さないという点から重要。なぜかと言えば、唾液に非常に多くのウイルスが含まれていて、唾がいかないことが重要、抑止力となっている。』」


 元々、日本において春先は花粉症の季節であり、マスクをする人の姿は珍しくはない。

 それでも過去においては10人に1人、多くて5人に1人くらいであったように思う。

 それが今ではマスクを着けていなければ、白い目で見られてしまう世の中になってしまっていた。


「『ワクチンを作るときに感染実験を行うが、そのウイルス量は重要。たくさんのウイルス量を感染させれば、どんなに良いワクチンでも効かないように見える。自然界でどの程度ウイルスを浴びるとどうかを予測して攻撃接種を行う。ところが、人の場合は感染実験ができないのでウイルス量が難しい。常々疑問に思っていて、ウイルスを完全になくすより、ウイルスの感染が成立しないようになれば充分であると発想の転換をした。』」


 みさをはいったん息継ぎをして、続きを読み上げ始めた。小須戸の目にはみさをの目がひときわ光ったように感じられた。


「『では、どうするか。人において感染実験をすることができない、エビデンスを出すことができない。動物のコロナウイルスではどうかということで考えなければならない。身近な存在のネココロナウイルスの感染実験では、1万個の感染性粒子が必要。どれくらいのウイルスの個数かと言えば、だいたいは 100万個と言われている。』」


 ネココロナウイルス。その響きはみさをにとって至福の響きのようだった。


「『100個のウイルスがあるとしたら、100個の細胞に感染するのではなく、1個にしか感染しない場合がほとんどである。極端な例だが、MERSウイルスは 10万個ウイルスがあって1個の細胞に感染するデータがある。だいたい 100個、個体に感染するウイルス量は、細胞に感染する感染性ウイルス量 100個があっても、ネココロナウイルスなら感染しない、ネココロナウイルスであれば感染性ウイルス1万個必要、生成できるウイルスが 100万個、普通に考えて、感染が成立する量の10分の1にすれば感染がブロックできると考えた。10分の1でもよかったが、安全率をかけて100分の1とした。』」


 デスクに乗り出した、みさをの髪の間からぴょこんと猫耳が飛び出した。

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