≪KK-02 -道往けど 行く先見えぬ ふたりかな- 1/3≫
オフィスの廊下を歩く、みさを。
彼女は今、物思いにふけりながら、歩いていた。
新型コロナウイルス蔓延に伴う、政府からの緊急事態宣言。
当初、7つの地方自治体に発令されたそれは、瞬く間に全国に広がり、誰もがみな、外出自粛を迫られた。
不要不急の外出自粛。
街行く人は消失し、外は静けさに包まれた、まるでSF映画の世界。
電車も動いているが、いつもは人であふれかえる車内も、今はただの独り。
人より小柄なみさをは満員電車は通勤の悩みの種ではあったが、今となっては快適すぎて薄気味悪かった。
昼食自体は、いつも自分で手弁当を持ってきているので困ることはない。
「時代なんて関係ない。
祖母のしつけである。
祖母のしつけは厳しくはあったが、甘えたがりの自分にとってはそれでちょうどよかったのだろう。
まだその振る舞う相手はいないものの、いつかは自慢の料理を振る舞って喜ぶ顔を夢見ていた。
みさをだって、年頃の乙女なのである。
マスクの下でみさをはニタニタと笑う。しかし、その顔はマスクの下に隠れて、外から伺い知ることはできない。
堂々とどこでも笑顔を隠す必要がない。
それはマスク社会になって、いいところだった。
オフィスに着くと、暗がりのオフィスでもそもそとうごめく丸いものがあった。
みさをは照明をつける。
「おはようございます」
小須戸がコロッケパンを口にくわえながら、マウスを操作していた。
みさをに気づいた小須戸はくわえていたコロッケパンを、そのまま口に押し入れた。
そして、胸に詰まったのかどんどんと苦悶の表情で胸を叩く。
「大丈夫ですか。あきませんよ、そんな食べ方をしちゃあ」
みさをは小須戸の机の上にあった、オレンジジュースのパックを小須戸に渡す。
小須戸はオレンジジュースを口に流し入れる。しかし、途中でむせたのか、ゲホゲホと吐き出してしまった。
「あらら……」
みさをはあきれるしかなかった。
しかし、京女たるもの何事にも動ぜず、淡々と対処すべし。
バッグからポケットティッシュを取り出し、小須戸に渡す。
「ほら、これでふいてください」
「あ、ありがとう」
幸いにも直前で向きを変えたので、机の上のパソコンとモニターにジュースが飛び散ることはなかった。
小須戸はティッシュで周囲に飛び散ったジュースを拭き取っていく。
みさをは自分の席に着き、パソコンとモニターの電源を入れた。
「飲み食いしながら仕事はしちゃあきませんよ?」
「ご、ごめんなさい」
素直にあやまられると、それはそれで後が続かない。
小須戸は掃除しながら、まだときどきむせている。
「お茶、入れてきますね」
みさをは席を立った。
みさをはホルダーに入れた紙コップを両手に、オフィスに戻ってくる。
そして、片方のコップを小須戸の席に置く。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけなあきませんよ。ふーふーしてくださいね」
みさをは子供に言い聞かせるような口調で、小須戸に言葉を掛ける。
「ありがとう。……これは?」
匂いに気づいたのか、小須戸は問いかけてくる。
「カモミール・ティーです」
「……カモ?」
「ハーブ・ティーですよ」
小須戸の頭の中で鳥類の鴨がガーガー鳴いてそうなので、みさをは続けて補足を入れる。
席に着いて、モニターを見ると文書ファイルが小須戸から送られてきていた。
「……これは?」
「府の専門家会議の議事録」
みさをの問いに、小須戸はカモミール・ティーをすすりながら答えた。
ファイルを開くと確かに府の新型コロナウイルス対策本部の専門家会議の議事録と記載があった。
「国の議事録じゃないんですか?」
「国の議事録は探したけど、正直、どこにあるのか、よくわからなかった」
「ええ……、そんなんでいいんですか」
「まあ、ちょっと読んでみて」
「……そない言うなら、読んでみます」
みさをはファイルに目を通す。
まずは府の知事の冒頭の挨拶と、現状のまとめ。
会議が開かれた日時は緊急事態宣言発令前だが、それでも冒頭だけでも要点が簡潔にまとめられていた。
みさをはカモミール・ティーを口に含み、書類に目を通していく。
新型コロナの感染症の方の8割が無症状か軽症。
季節性インフルエンザに比べ肺炎を発症する割合が高く、重篤な病態を呈しやすい。
国によって致死率の違いはあるが、若年者を中心に8割の患者は軽症であり、5%の患者が重症重篤化する。
患者が死亡するのは1~2%。
重症化因子としては高齢と基礎疾患があり、多くの患者は他人にうつすことがない。ただし、環境要因が揃うと集団感染を起こす。
日本は現在、小規模のクラスター感染が起こっているが、急激な患者数増加の状況ではない。ただ疫学的リンクの追えない患者も散発的に発生している。
「『今後感染爆発が諸外国のように起こるのかということが、むしろこれを起こさないようにするにはどうしたらいいかということが、今回の日本の医療の目的だと公衆衛生の目的だと思います。』」
思わず、議事録を口に出して読んでしまった。
「どうかな?」
「なんでこんなよくできてるんですか。まだ3ページ目ですよ? おかしいじゃないですか」
みさをは思わず立ち上がる。
「きちんとまとまってるんだから、おかしくはないと思うけど」
「そんなんちがいますよ!」
「ええ……」
あらぶるみさをの勢いに、小須戸はたじろいだ。
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