第74話 旅立ちの時

 雪解けを迎え、草花が新芽を覗かせる初春。大奥、御錠口にて福と紫乃は桃子との最後の別れを惜しんでいた。

 紫乃はこの日まで幾度も涙で枕を濡らしたのだろう。痛々しい程に瞼は赤く腫れあがっている。


「桃子様、文をしたためます故、必ず返事をお願いします!」


 紫乃は涙をグッと堪えながら言った。桃子は若干苦笑しながら


「書く書く。てか、泣きすぎだって」


 と軽い口調で言い放つ。本当は桃子も目の前の紫乃と同じように目を真っ赤にして泣きたい思いである。しかし、己までもが泣いてしまえば一層と別れが惜しくなる。ならば、いつもの様に陽気でおちゃらけた姿を見せようと桃子なりのはからいであった。

 子を宥めるかの様に紫乃の肩を抱いて、福は言った。


「何かあれば、いつでも戻って来て良いからな」


 まるで実家の温もりを感じさせる福の言葉に桃子は「ありがとう」と礼を述べた。


「そなたの幸を祈っておる」


 そう言って福は口角をキュッと持ち上げた。桃子は、そろそろ行くか、と長い事待たせてしまっている籠の方に振り返った。

 すると「桃子様」

 と紫乃の涙ぐんだ声とぎゅっと握られた手の感触にもう一度振り返る。紫乃は頼りなく俯いていた。握る手は強く、無理に離すのは難儀であった。

 

 そんな紫乃をまえに桃子は共に連れていけたならば、と思いを馳せた。しかし、顔をあげた紫乃を目にした途端、その思いはふと消え去った。決意を込めた眼差しが桃子を射抜いている。


「わたくしは桃子様が与えてくれた道に真っ直ぐ進んでいきます」


 桃子は紫乃の言葉が嬉しく、綻んだ。これで心置きなく旅立つ事ができる。紫乃は桃子を見送る様に手を離した。

 桃子は紫乃に背を向ける。そして、振り返る事もせず、籠に乗った。

 桃子を乗せた籠が去っていくのを紫乃と福はそっと見守った。





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